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今宵、我ら花を奪う【5】


 マルクス大尉とシュタイン中尉のやりとりは、直線にして50メートルと離れていない場所に索敵の術式を展開するリュデガーとデニスの耳目にも当然の如く届いていた。魔力障壁に覆われた巨大な『扉』をはさんでいるとはいえ、おそらく彼らには隠す気がない。

 リュデガーのバディであるデニスが困ったような表情を浮かべているのは、マルクス大尉が言い放った台詞の内容に対してだろう。

 えらいことを聞いてしまったなぁという後悔の色だ。

 まったくである。権力って怖い。地方の子爵家風情ですら、当主の座をめぐって骨肉の争いが起こるのだ。リュデガーは姉にすべてを譲って身を引いた。それでも付いてまわる縁故の糸。武勇をもって名を轟かす、帝国で最も有名な伯爵家ミュラーの糸がどれほど長く伸びて強固であるかなど想像したくもない。


『人として生きていなくもいい』?

 ─── いいわけがない。友人としてはともかく、婚姻において生物学上の分類は重要ではなかろうか。


『それ以外は認めない』?

 ─── 一歩を踏み間違えればモラハラの極み。ひどい男だ。たいした執着だ。


 アルニム伯爵令嬢と第五王子の婚約破棄が確実となった以上、マルクス副官がアーデルハイト隊長をさらって逃げてもリュデガーは驚かなかった。なにせ婚約という強固な契約は失われたのだから。


 まさか彼が? ではない。

 ああ…、とうとうやったのか。

 そういう理解と諦観だ。


 部隊としての総意でもある。彼らを『追え、連れ戻せ』と命じられればエメットと共に『腹が痛いです』と手を上げてデニスの肩を借りながら医務室へ。サボタージュを敢行しただろう。あるいは足取りを追うふりにどこかのカフェにでも入って優雅なティータイムを過ごしていたはずだ。オスカー副長は逃走を幇助し、フリードリヒ小隊長は追っ手の霍乱を担っただろう。シュタイン中尉が幼馴染個人のために動くのか、ミュラーを動員するのかは些末ごとである。

 令嬢が心配じゃないのかとけしかけられたとしても。

 マルクス副官ならば、どうせ、駆け落ちに持ちこんだはずなので。最終的には口説き落としたはずなので。

 そうでなければアーデルハイト隊長本人の雷撃と踵落としによって地に伏したマルクス副官は『私は誘拐(未遂)犯です』のプラカードを首から下げて、憲兵隊に突き出されていたはずなので。

 馬に蹴られるのは御免である。しかもそんじょそこらの駄馬ではない。重傷を負って意識を朦朧とさせた主人を乗せ、吹雪のなかを目的地まで走りきった忠実なる魔馬だ。まさしく流星メテオールの名のとおり、夜を裂いて駆けた。馬格が違う。うすい皮膚、細い骨、紙装甲の人間などどこを蹴られても当たれば致命傷は免れない。

 強く、賢く、速いの三拍子が揃った名馬である。己の主人が焦がれた少女を抱き上げてあぶみを踏めば、力強くも応え、どこまでも駈けるに決まっている。肉食動物の上位変換である魔獣を踏み潰して進む草食動物である。おかしい。馬だろう。もしや食物連鎖をご存知ない? これが数百の単位で実戦配備済みとかミュラーがおかしい。

 戦闘民族の看板に偽りはない。

 目をやったミュラー騎士団の隊服たちは規律正しく歩哨の任を果たしている。全周囲に布陣した帝国軍兵にも動揺を見せず、足元に揺れる瘴気にも気を散らす様子がない。

 粛々とマルクス副官の、…いや。マルクス・ミュラーとその腹心、シュタイン・シュミットの旗下に入っている。次期領主の婚約者を救うためという甚だしく個人的な目的のために。動くのだ。友軍との摩擦、下手をすれば正面衝突すらも織りこんで。

 この規模と錬度の騎士団が即座に動く。


(…恐ろしいな)


 むしろ投石器周りに展開し、弾を運び入れている歩兵たちが戸惑っている。


 なぁ、ほんとうに撃つのか…?

 いや、まさか…、だってあっちは…。

 嘘だろ、これ訓練じゃないのかよ…?

 ばか、こんなときに演習なんかやるかよ…。


 中庭のエリアはリュデガーとデニスのバディによる広範囲索敵術式の円周内だ。

 見ようとさえ思えば彼らの表情も窺えたし、ヒソヒソとした囁き声も聞こえた。


 夜明け前より続々と増えた人の気配。遮蔽物のない前方はなんとか取り繕っているが、後方はろくな説明もなく動員された兵たちなのだろう。

 門と扉。魔獣がやってくる道を潰す。目的はわかった。うんうん必要なことだと肯き、納得もできる。


 ─── だが、何故、魔道士部隊はその上に布陣しているのか?


 ミュラー伯爵家とミュラー騎士団の旗を掲げた一団とともにである。しかも方陣に柵を設置し、立て篭もる動きを見せている。巨大な扉を背に堅守の態勢。警戒の矛先はゲートから現れるであろう魔獣どもではなく自分たちへと向けられている。


 ……わけがわからないよ?

 彼らこそ魔獣の殲滅戦において一番槍となる戦闘団であるはずなのに?


 困惑する歩兵大隊の戦意が高いとは世辞にも言えないだろう。前のめりにいきり立ち、石を投げてでも喧嘩を売ってこようとする姿は見えない。

(このまま冷静さを保っていただけるとありがたい)

 そう思いながら、足元の脈動が大きくなっていることが気がかりだ。とても。

 デニス准尉がぼやく。

「まるで鼓動だ」

「ああ…」

 上手い比喩だった。

 隊長を喰らったゲートは扉の出現により動きを停止した。一時的なものだったようだ。少しずつ、少しずつ。ふきこぼれる前の鍋のように、蓋の内側に内圧が高まっている。

 どこまで持つだろうか。72時間。三日間? 隊長が姿を消してまだ18時間と経っていない。

(危ういな)

 再び活性化した魔方陣ゲートを前にして、兵たちは冷静でいられるだろうか。魔獣の一匹でも姿を現してなお、現場指揮官たちは自制できるだろうか。この近距離だ。火蓋がきられ、血が流れればあとはなし崩しの乱戦だろう。

 前面の虎、後門の狼。とは、極東のことわざらしい。まったくもって現状のとおりである。

 けれど逃げようとは思わない。

 術式に広がった視界の隅、地に落ちた冬薔薇の一輪が見える。昨日まで庭園にアーチを描き、人々の心を慰め、目を楽しませていたに違いない。遠からず軍靴ぐんかに踏み躙られるであろう可憐な花だ。

 

 リュデガーが隊長の買い物の荷物持ちをかってでた帰り道。副官より贈られた花は白薔薇だと聞いた。


 アーデルハイト隊長はマルクス副官から受け取った花束に驚き、喜んでいた。声や態度にはしゃいでいたわけではない。物静かに、淑やかにだ。彼が帰って来るまで咲いていて欲しいと願っていた。 

 幸い、貰ったあとの深水の処置は適切だった。花瓶がなかったこと、活け方の知識がなかったことからバケツいっぱいに張った水に花首まで浸けており、葉や茎からもたっぷり給水されていた。

 あとは購入した花瓶の水の量を適量とし、直接陽の光りがあたらず、風のない場所に置くこと。毎日水を変えて栄養補給を行うようにアドバイスを行なったところ、いたく感謝された。

 彼女は花や可愛らしいものが好きなリュデガーに対し、『男のくせに』とは言わない。軍籍にありながら攻撃術式一つ扱えなかったリュデガーを『役立たず』とは罵らなかった。経験の不足と能力の不足は別物だと、反復学習による爆裂術式の習得へ向けて余念がなかった。まずは自分を守れ。次にバディを。そして戦況を見渡せるようになったならば部隊を守れと。そう言った。訓練はわりと容赦がなかった。しかし尊敬できる上司だった。誰かを傷つける術式を恐れるリュデガーにも根気よくつきあってくれた。

 白い薔薇の花言葉を伝えたのはマルクス副官へのエールと言うよりも、アーデルハイト隊長への助け舟のつもりだった。

 恋人、婚約者、配偶者に贈る場合は『純潔』『深い尊敬』『相思相愛』。

 そして片想いの相手に贈る場合は『これからあなたと相思相愛になりたい』という願いがこめられている。

 恋心の直球勝負、愛の告白だ。

 凛々しいアーモンドアイは幼く無機質、ピンときていないご様子だったけれど。

 雰囲気が華やいだのは感じられた。

(…よかった)

 隊長が、王子から婚約破棄されて。

(よかったなぁ)

 副官は、数年がかりの片想いを成就させるだろう。

 彼と彼女は二人で肩を並べてこの先の人生を歩んでいくことができる。

 リュデガーにはできなかったことだ。血のつながらない姉の手をとることができずに背を向けた。くい八千度やちたびに最前線の鉄火場を求めた。そんな愚かで寂しい男は部隊に二人といらない。


 足裏に、瘴気ごと大地を踏みしめる。


 あとはアーデルハイト隊長が帰って来てくれればよい。

 王室も軍部も。帰属する二つがともに彼女を身捨てた。

 けれど我らは魔道士部隊タリスマン。負傷した仲間の退路を守るは当然のこと。マルクス副官が婚約者たる彼女を奪いに往くことの何が問題か?

 なにしろすべては我らが隊長の薫陶の賜物たまものであるからして。




 宰相と研究員としての魔道士たちのローブ姿を見送ったフリードリヒの前に現れたのは上司の上官である准将閣下を伴った二番目の兄だった。

 武力紛争時における休戦協定を結ぶ席に王族が出てくるのはさほど珍しい話ではない。約定の担保として。どれほど本気であるのかを示す行為だからだ。フェルディナントは帝国において王太子、王太子の長子に継ぐ王位継承権三位の地位を持つ。

 まぁ自分の家の庭で内乱が起ころうとしていれば不安になる気持ちもわかる。口も手も出したいが、家庭の事情が絡み、非常にセンシティブな問題になってしまった。

 さすがにゲート上へと連れだすわけにもいかず、天幕へと案内する。近衛兵たちは防音の天幕前にミュラーの歩哨と睨み合いだ。

「まともな茶葉はありませんよ」

「わかっている。不要だ」

 ティー・ロワイヤルを期待されても困ると告げる弟に促がされるままフェルディナントが席につく。がたつく安物だ。それも、天幕に一脚しかない。

「どうなっている」

 立ったままの弟に投げかけられる質問は曖昧だ。貴族らしい言い回しだ。フリードリヒは薄く笑み、嫌味をこめて尋ね返した。

「どう、とは?」

「アルニム伯爵令嬢のことだ。マイヤー子爵はどうするつもりだ。こちらにははっきりした報告があがってこない」

「近衛師団の統率連携が上手くいっておりませんか。師団長であるファビアン殿下も不在ですからな」

「っこんな事態は想定していない」

「式典からの避難はおおむね成功といっていいでしょう。立派なものです」

「それも、アルニム伯爵令嬢の尽力の結果だと聞いた。たったひとりで幻獣種ファンタズマに立ち向かい、囮になった英雄的献身のおかげだと。直接目にした近衛たちがこぞって称えていた」

「そうですよ?」

「マイヤー子爵はブラートフィッシュ侯爵の息子と共に群がる随獣を食い止め、ゲート発生の触媒とおぼしき懐中時計を破壊したと聞いた」

「仰るとおりです」

「王妃に撃たれたアルニム令嬢がゲートに呑みこまれ、マイヤー子爵がその場を動かない。現れたドアとゲートの破壊を拒否し、交戦も辞さない構えだと軍令部が言っている」

「はっきりした報告があがっているではありませんか」

「なにを言っている…。ミュラー伯爵はどこだ。取り次いでくれ。今後について話し合いたい」

「ふっ、は。さて。どこでしょうな。驚くほど行動の早い御仁です。今頃は皇都を離れて馬を駆っていることでしょう」

「っミュラーへか!?」

 簒奪という言葉が浮かんだのだろう。兄の質問には肩をすくめるに留め、こちらからも問い返す。

「母と妹はどうなっています」

「護衛をつけて離宮に避難させている」

「感謝します」

 こればかりはフリードリヒの本心だ。

 母と妹の身柄を盾に交渉を迫られることを警戒していたが、どうやらフェルディナントのなかで彼女たちは家族の括りらしい。情にあついのか、身内に甘いのか。おそらくは後者である。

「王妃とフランツ殿下のご様子はいかがです?」

「……さすがに反省しているとは思う」

 なるほど、生きているらしい。けれどフリードリヒは感想を求めていない。やわらかく小首をかしげ続きを促がす。観念したのか、フェルディナントが口を開く。

「王妃の部屋からは不審な装具が見つかっている。おそらく、それらがティールームに現れた戦象や、温室の斑蛇の原因だ。…王妃を脅していた不審者の捕縛には、おまえも手助けをしてくれたと聞いている」

「脅迫、ですか」

 にこり、上品に笑う。

「まぁよろしいでしょう。ドクトル・プランクはなにか吐きましたか?」

「こんな事態だ。まだ尋問を始めてもいないだろう」

「呆れますな。ドアをノックする作法どころか、ドアを開ける方法も閉じる方法すらも聞きだそうとはしていないのですか」

 フェルディナントの瞠目は考えもしていなかったという答えに他ならない。

「片翼の天使再臨計画。あれが、まだ継続していたということですよ。尋ねてみる価値はあるでしょう」

「そ、うか…。あれが、まだ…。…教会がアルニム令嬢の身柄を欲したのは…魔石の回収のために…? っ、ベッカー男爵令嬢ははじめから…!?」

「スパイの疑惑はあったのでしょう。拘束していながらなにも聞きだせずに関係者の逃亡を許す。六年前と同じです。情報部から持ちこまれた押収資料を主体となって翻訳したマルクス大尉によれば、異なる目的を持った利害関係者たち自身にもダブル・ミーニングによる意識誘導ミスリーディングが行われていたようです。私も同意見です。ドクトル・プランクがどこまでを把握しているのは未知数ですな」

「アレは、あの計画は、ドクトルが主導したものではなかったのか? ダブルミーニングだと?」

「D。文書ではたった一文字の単語で現されております。科学者たちにとってはおそらく機械(デウス)仕掛けの神(・エキス・マキナ)。天を仰ぎ、誇らしげに叫んでおりました。我々帝国がゲートと仮称する魔法陣をドアと呼ぶのは王国です。現れたのはドラゴン。共和国にとっては打倒すべき悪魔の化身です。意図的なものでしょう。受け取る人間には目的を共有しているとほのめかす符号でありながら、奪い取った人間に対しては漠然とした暗号になっています。しかも数ヶ国の言語が使用されていました。小さな紙片メモの解読ですら、辞書を片手の作業になりました。古代神聖語の資料を読み解いたアーデルハイト隊長はいちはやく気づきました」

「なにに気づいていたと言うんだ」

「皇都がテロリズムの標的となっていることにです。王妃によって王宮に呼びだされ、フランツ殿下によって無駄にした時間が惜しいですな。あれがなければ。あと三日早く、本格攻勢に対する抗戦準備に取りかかっていれば。…ああ、ベッカー男爵令嬢に間諜の疑惑がわいた時点で軍と情報を共有しておくべきでしたな。さすればここまで後手にまわることはなかった。皇都の中心部に巨大ゲートが発現する事態は避けられたかもしれません。…申し訳ありません。今さら申し上げたとて詮ないことですな」

 それは戦勝パーティの翌日。アーデルハイトがフランツから悪役令嬢呼ばわりに婚約破棄をつきつけられた翌日。王宮に出向いたフリードリヒがフェルディナントに提案したことだった。

 第二王子が組んだ指を強く握る。

「…フランツ殿下も行方不明になったそうですな」

「すでに保護している。ベッカー令嬢が呼んでいると言われて自ら部屋をでたそうだ。それに…ベッカー男爵夫妻が亡くなったことを知ったそうだ。何故教えてくれなかったと詰られたよ」

「そんなだからでしょう。どこからの接触です」

「ベッカー令嬢の友人を名乗ったそうだ」

「……まさか信じたとでも?」

「それだけ追いつめられていたんだろう。…ベッカー夫妻は毒をのみ、ファビアンが到着したときにはすでに事切れていた。覚悟の上だったんだろう。寝室のベッドに手を繋いだ二人の遺体が発見された。室内は片付けられていて、机の上に遺書があった。すべて自分たちのせいだと詫びるものだ。直接の関係者がいなくなったために調査に時間を要している」

「ダウトですよ? 共和国。教会の関与があった。だから真相解明に躊躇した。そんなところでしょうか」

「……国教だぞ」

「聖職者のすべてが清廉潔白であるとでも? 天啓を受けての行動であるとでも?」

「フランツは俺たちがベッカー男爵夫妻の自決を命じ、ピーア・ベッカーを奪ったと疑っている。フリードリヒ。おまえはアルニム令嬢を…いや。彼女は。無事なのか。おまえたちは本気で72時間を待つつもりなのか」

「無事に決まっているではありませんか。それ以外、信頼を示す行動を持たない己を不甲斐なく思うことはあれど、我々は待ちます。隊長の退路を守ります」

「おまえの盲信はどこから…いや。我々とは。マイヤー子爵のことか。令嬢が戻ればミュラーに嫁ぐ。間違いないな?」

「下手な家門よりは間違いなく隊長向きでしょう。竜殺し(ドラゴンスレイヤー)のレディナイトです。諸手をあげて歓迎するでしょう」

 フェルディナントは唾をのんだ。次に発する言葉に返る反応がわからなかったからだ。

「それが、バケモノであってもか」

 意外なことに、弟は、フリードリヒは静かに瞼を瞬かせるのみ。沈黙を恐れたフェルディナントは返事を待たずに続けた。

「マイヤー子爵個人がいくら熱望したとしても。家門として、人間として拒絶はしないだろうか。ここで、惜しまれながら、悔やまれながら死んでいた方が幸せだったと。アルニム令嬢は後悔しないだろうか?」

「マルクス大尉は、…マイヤー子爵は、その後悔すらも自分の傍でやってくれと願うような身勝手な男です。両手に両手を握り、額をおしつけ、苦しいならば原因を排除して楽になりましょうと限りなく前向きな提案を持ちかける。あなたを受け入れぬ環境が悪いと言葉巧みに篭絡を目論む。そして言質をとったうえで暗躍します」

「悪魔でも鼻白はなじろむ」

「化け物? だからどうしました。他の男の婚約者である以上の問題はないと胸を張るでしょう。あれでいて遵法意識は高いのですよ?」

 規律正しい軍隊生活に限った話ではない。フリードリヒの知る限り、マルクスが既婚者や未成年に手をだしたことはない。職務に関係する女性からの誘いに対してはその場でお断りだった。複数との交際を同時進行していた形跡もない。弟とは違う。

 あの容貌だ。同性からはずいぶんと妬まれてはいたが…、一定以上の信頼を得ていたのはそういう線引きによるものだろう。別れ話の翌日に違う女性の部屋に泊まる行為が誠実であるとはさすがにフリードリヒとて擁護できないが。妙齢の、しかも決まったお相手のいない独身男女のお付き合いに外野が口をだすのものではない。

「いや、たしかに浮気はけしからんが…。公序良俗に反する行為は控えるべきだが…。もっと他に、気にかけるべきところがあるだろう」

「魔獣との交配に魔馬を生み出すような戦闘狂が集まった辺境ですよ? 惚れぬいた女性の味方が自分だけ。むしろ好都合では? アーデルハイト隊長が自分だけを見て、自分だけに縋る。たまらない快感では? 付け加えておきますと、マイヤー子爵は手間をかければかけるほど情のわく面倒くさい男です」

 新任准尉4人に対する態度もそうだった。訓練計画に段々と熱が入り…個別のカリキュラムを作りあげていたくらいだ。調練を施した結果に、あとは勝利の経験と褒賞を与えてやりたいと気にかけていた。ヒューミント初心者であるミヒャエルへの助言は真摯なものだった。

「アーデルハイト隊長に頼られれば、全知全能をかけて応えるでしょう」

「それは…アルニム伯爵令嬢は大丈夫なのか。アルニム伯爵の背信はほぼ確定している。仮に彼女から婚約解消や離婚を申し出たとしても、逃げられる気がまったくしない」

 大丈夫?の確認の方向性が大きく変わってきている。

「普通の伯爵令嬢であれば、そうですな」

 ミュラーの館奥深くに囚われて逃げられない。物質的な不便はない。その点でフリードリヒはマルクスを信頼している。ただ、外へは出られない。きっと、一生だ。彼の母親のように監視の目がつきまとう。

「お気をつけください。『逃げられる』、隊長からの離縁の申し出というワードはマルクス大尉にとって特大の地雷です」

「あ、ああ…」

 それでもアーデルハイト・アルニムならばミュラー騎士団を振り切り、黒の森すらも突破できるだろう。ことが軍事の範囲内であれば、少女は破格に別格の才を持っている。

 そもそも『力こそ正義』なんて世紀末思想がはびこる辺境領である。フリードリヒの女王様であれば、あっという間に担ぎ上げられて『若奥様』どころか『あねさん』呼ばわりではないだろうか。ガタイのいい男どもがズラリと並び、ドスのきいた低い声に『本日のお勤めご苦労さまっしたァ!!』とか叫ぶど真ん中を悠々歩ける度胸の持ち主である。

 それでいて世慣れず、物慣れず、人慣れず。野性の猫みたいなところがある。壇上に立って雄々しく部隊を鼓舞するさまは獅子のよう。指揮官先頭の戦闘における勇猛さは虎のよう。暗闇に潜み敵を待ち構える冷徹は豹の如く。

 仲間には誠実無比。ノブレス・オブリージュの具現者だ。

 浮世離れしていると言えばいいのか?

 フリードリヒにとってアーデルハイトは片翼をもぎとられ、地に堕ちた天使様だった。

「……可愛げがないわけではないのですよ」

 たんぽぽコーヒーの焙煎なんてものをせっせと始めてしまうような男だ。

「半分に割った最後の板チョコレート。マルクス大尉は、大きいほうをアーデルハイト隊長に差しだします。とても、自然に」

 必要なのは余裕。懐の大きさだ。それをアーデルハイト隊長が求めたならば。友人が抵抗を完遂できる可能性は低いとフリードリヒは踏んでいる。ひなの風切り羽を切ったりはしない男だ。…できないわけではないけれども。

 夜明けを。

 夕暮れを。

 まだ見ぬ世界を彼女が求めたならば。同じ景色のなかに立とうするだろう。


 帝国内に限って言えば、アーデルハイトにとってマルクス以上の相手はいない。


「アルニム伯爵令嬢には十分な補償を行っていだけるのでしょう」

「ああ。もちろんだ」

「奴隷制度によって売られた娘はいない。縁座制度によって罪を問われる娘はいない。そうですな?」

 手打ちへの提案にフェルディナントが飛びつく。

「もちろんだとも!」

「結構です。いっそ養女にと申し入れてもよいのではないですか?」

「養…っ、いやそれは…、それはアルニム令嬢を王室に迎えいれろと言っているのか?」

「妹が増えるのであれば喜ばしいかぎりですな。…冗談です。そのようなお顔をなさらないでください。それぐらいの心意気で彼女へ向かう中傷の刃を押さえつけろと申しあげているだけです。…宰相閣下は養子縁組に反対するでしょうし。今の王室に内閣の反対を強行突破できるほどの力はないでしょう」

「ぁ、あたりまえだ。どれだけ煩雑な手続きになると思っている。荒唐無稽が過ぎる。そうでなくとも王妃やフランツをどう説得する?」

「ああ、誤解なさらず。逆ですよ。宰相閣下はアーデルハイト隊長を王室の養女に差しだすくらいなら自らと養子縁組を行うでしょう。カペル公爵家の相続人としての権利すら与えるでしょう。ミュラー伯爵の姻戚になれる機会をあの男が逃すはずがありません。持参金とてたっぷりと持たせてカペルの名のもとミュラーへと嫁入りさせるでしょう。歓喜の涙をハンカチに拭いながら。目に浮かびますなぁ…。まぁ、どちらにせよ…横入りはマルクス大尉が許しません。申し入れたところでお断りされるのはこちらです。謝絶の恥をさらしてでも庇護の姿勢を見せられるのかと尋ねております。教会に対する弱腰には私とて思うところがありますからな」

「フリードリヒ…。おまえに信仰はないのか。神罰を恐れないのか」

 あまりにも思いがけないことを言われたとき。人はどう返すのか。

「神罰? 結構。大いに結構」

 フリードリヒは笑った。

 なにせ男の天使様は戦場にいる。頭上に輝く天ノ国ではない。

 己と同じように石を持って追いやられ、地を這う場所にいる。

 どうして、私だけ。そんな濁った思いを抱えた四番目の王子の前に現れた白い翼。少女を知り、少年の信仰は狂信の深さに至った。

「不届き者どもへは鉄槌を。神罰の味を噛みしめるがよろしい」




あけましておめでとうございます。年末年始は6連休にはしゃいでいたらあっという間に終わりました…。あれもこれもしようと思っていたはずなのに、私は一体なにをしていたのか。


いいねやブックマークなど、評価や反応が本当に嬉しいです。書く気力になります。もっとください(真顔)。こんなにたくさんの小説がアップされる中で読んでくださり、ありがとうございます。

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