天使も踏むを恐れるところ【2】
呼ばれた。そう思った。式典の最中であることは理解しているが。視線を動かした。窓枠によって区切られた青空を眺めて気がついた。
名を呼ばれたわけではない。アーデルハイト・アルニムと。私の名が呼ばれたわけではない。
ただそう感じた。何故かは考えなかった。「もしもし」「すみません」と声をかけられて、呼ばれたのが自分であることがわかるようなもの。むろん勘違いである可能性もあるだろう。近くの別人が呼ばれていることだってあるだろう。
スピーチを行う科学者に注目が集まっている。最後尾の利点をよいことに、余所見をしてしまう。
(何処からかしら)
……下?
アーデルハイトが踏みしめるここは四階だ。引き算によって、当然ながら真下は三階である。このあと立食形式の飲食パーティの会場となるはずの部屋だ。
…まぁそんなことも…、
(いいえ。ないわ)
一瞬でも考えかけて、即座に否定する。
だって他の誰にも聞こえていない。
階下から聞こえるような呼びかけ、あるいは大きな音であるならば、いくら厳粛な儀典の最中だって誰かは反応するはず。むしろ眉の一つもしかめるはず。
聞こえていない。
─── 皇都に蔓延した随獣のように?
見えず、聞こえず。
首後ろがチリチリと焦げるような気配。軍用チョーカーを装備していないことが悔やまれる。王族の御前での帯剣が警護など一部の例外を除いて許されないように、戦闘用魔石の持ちこみは許されなかった。けれどこの感覚は『ゲート』に近づいたときと似ている。少しずつ。大きくなっている。気配の波紋は水滴の落ちた湖のように広がって、複数が重なり始めている。
ならば私は『ゲート』に近づいているのか?
違う。一歩も動いていない。『ゲート』“が”我々に近づいているのだ。
『どうしてわかるんです?』
尋ねたのはマルクスだったか。オスカーだったか。
『どうしてわからないんだ?』
答えたのは私だ。当時の問答はどこまでも平行線だった。
鈴が鳴った。波紋の音だ。確信した。動くしかない。振りかえる。マルクスと視線を合わせ。知らせる。私が気づいたことを。音がした場所を。そこには父がいた。正直に言おう。驚いた。服の合わせに手を入れている。何かを持って、何かをしている。戦場ならば武器の一択。中身が姿を現す前にねじ伏せるべき行動。
意外だった。
マルクスらは父を含めて警戒していたようだけれども。アーデルハイトが知るアルニム伯爵という男は弱い者には強く、強い者には弱い人間だった。どうしようもなく。王子殿下に阿るために娘の品格維持費を差しだしたり、領地の運営費を自らのポケットにねじこんで訪れるカジノに享楽的な遊びを行っていたとしても。
ひとの痛みには鈍感なくせに、自身の怪我は大騒ぎする人間が父親だった。発熱し、寝込んでいた母を「自己管理がなっていない」「仕事をしろ」と怒鳴りつけるくせに、お酒を飲んで寝坊し、アルニムでの家門会議を欠席していながら堂々と体調不良なんだからしょうがないと言ってしまうひとだった。
このような場で。国家に背くような、国王陛下やそのご家族を害するような大それたことができるとは思っていなかった。
反省と同時。認識を訂正しなければならないだろう。
そしてマルクスには感謝を。アルニム伯爵が懐からとりだしたものがハンカチであれば、恥をかくだけですめば幸運。このような場だ。処罰とてありえた。けれどマルクスは私を信じた。甘いものを食べたときのように舌が、頭がしびれるような信頼。
まだ証拠はないと社会人としてまっとうな対応をしていたマルクスたちに先駆け、あらかじめ動けなくしておくべきだった。物理的に。
両足を折られてなお、腕の力に這いずり進み、口にくわえたナイフに喉を裂きに来るモンテ・クリスト伯の如き根性が父にあるとも思えない。裂けた腹に雪中行軍、墓場のような塹壕にこもってなお剣を手放さず。戦う意思を手放さなかった私の副官ではないのだ。足の一本で事足りただろうに。
寮の隣室に住む同僚からは昨日、助言ももらっている。殴るのは一発だけよ、と。内緒話のように。
周りの目があるならば正当防衛の形を整える。現場に呼ばれた憲兵隊や衛兵隊からの質疑応答には「親子喧嘩です」とでも言っておけばよい。
官憲の民事不介入というものらしい。もっと詳しく聞いておけばよかった。実行しておけばよかった。軍法ならば熟読しているのだが…。今さら悔やまれる。親子喧嘩の機会は二度と訪れない。
アーデルハイトは暴力を愛する人間ではない。むしろ骨を折られる痛みを知る人間だった。けれど必要だと断じればやった。
魔獣の侵攻に対し、逃げず留まり反撃を命じるように。己の発する命令によって死ぬ者がいると知っていても。
後ろをマルクスに任せ、窓の側へ寄ったのは下を見るためだ。状況の確認を優先した。
雷管を強打する撃鉄の音は鈴の音色のように優美だったけれども。
はめこみ式のガラス窓。ステンドグラス越しの眼下。
(……すごいわ)
これほど大きく。そしてはっきりとした色と形を持った魔方陣はアーデルハイトもはじめて見る。北方で破壊した倍の規模。しかもびっしりと書きこまれた術式の複雑さが尋常ではない。ゾクリと寒気が走るほど。そんなものが皇都の中枢に突如として現れている。複雑怪奇な紋様は宮殿の中庭に広がっている。まるで御伽噺に聞く電子基板。中心には六芒星。動いている。黒い影がユラユラと。立ちこめるのは瘴気だ。
警備にあたっていた騎士たちが袖に口元を覆いながらも警告を叫びあい、慌しく走って中央から離れていく。
ごぅんっ!
天地が揺れる。
巨人に襟首を捕まれ振り回されたよう。膝から下の体重移動に受けとめ、足指に踏ん張る。反逆の歌を奏でようとする三半規管を叱りつけ、踏みしめた絨毯に倒れることを堪える。
びり…、びり…っ。
物理的な圧を持ち、肌が泡立つほどの瘴気が巨人の拳のように窓へと押し付けられる。
最初はソーダ水に浮かべた氷が割れるような澄んだ音。下から上に向かい、窓ガラスにいくつもの亀裂が走る。
(割れる)
瘴気と耐火ガラスの力勝負の結果は呆気なくついた。軍配は瘴気へと。
防備の膜。殻を展開。胸の前に肘を折って横一文字。肩を動かし、伸ばし、手のひらを広げ、天井までを覆う。左手の指すべてを曲げて空気を掴む。瞬間の停止。ステンドグラスの破片を受けとめる。こんなものが降り注げば、この場の何人かは致命傷を負う。重傷は免れない。防殻どころか。防御膜すらとっさには張れない人間がほとんどなのだから。
重量よりも外からのプレッシャーが重い。じわりと額に汗がにじむ。頭が下がる。前傾姿勢に叫ぶ。
「ブレン少尉! 焼き尽くせ!」
「はいっ」
指示通り。一切の遅滞なく、躊躇なく。ブレンが放った爆裂術式が降りかかるすべてを薙ぎ払った。ふっと肩が軽くなった。安堵に包まれ、歓声でもあげそうな後方の気配は束の間。揺れは続く。
救いを求め天使様の名を呼ぶ声は後ろから聞こえた。
祈りを裂く咆哮は、今度は音を伴った。具現化した。
ルオォォオオオオ!
低く重く、空気を震わせる。グリフォンではない。
一歩を踏みだした床が軋む。簡易式の急速展開術式とはいえ、炎を心から愛するブレンの全力を浴びて、その程度。さすがは王宮。耐火構造にも優れている。けれど壁という機能を失った部屋からの眺めは、おそらく高所恐怖症の人間には耐えられまい。幸運にも、アーデルハイトは違う。
見下ろす先で。爬虫類のような青い鱗が輝いていた。……なんということでしょう。蜥蜴に見える。
ただ─── 大きい。すごく、すごく大きい。この高さから見下ろして、遠近感が狂うほど巨大な体躯。尻尾を含めず、頭胴長だけで10メートルを超えている。尾の先はまだゲートの中に残っている。
狼が瘴気に侵されて魔狼になるような、ビルドアップどころの変化ではない。
昆虫の体格が10倍になれば自重は1000倍になると聞いたばかりである。
爬虫類とて同じことだろう。目の前の光景は、この世の物理法則に従うものではない。
ならば、あれは?
自問自答の必要もない。
幻獣種だ。
黒い影を吸って、瘴気を喰らい、トカゲの背には蝙蝠にも似た形状の翼が生えた。骨が軋み、皮膚が引き攣れる様子が見える。
しかも。こちらを見た。視線が合った。眼が三つある。下部に瞼もあった。…ある種のトカゲには頭頂眼と呼ばれる器官があることは知っていたが。翼のあるトカゲは聞いたことがない。図鑑に見たこともない。
つまりは竜種。特定討伐対象の上位四番までを独占する幻の獣。しかも。
『そこにいたのか』
話しかけられた。幻聴だと思いたい。だが来る。こちらを認識した以上。放置は論外。向けられたのは敵意ではない。けれど友好とはほど遠い。再度の咆哮。呼んでいる。
さぁ、殴り合おうと。
(生存競争のリングに上がれと?)
「マルクス副官」
声にだして呼ぶ。いかなる苦境にあっても信頼できる仲間を。頼もしい婚約者を。
「守れ」
非戦闘員たる人々を。
「こちらは任せた」
まことに申し訳ないが。事態の収拾を含めて事後を頼んでおく。
なにしろ。眼下。
青い翼が広がる。
有翼種は厄介だ。
「仕留めてくる」
返答は待たない。だって、返るものは知っている。
羽ばたき、飛びたとうとしたブルードラゴン目掛け。飛び降りる。頭から。軽く、壁だった場所を蹴った。参列者からあがった悲鳴など遠い囀り。
「はい。隊長」
マルクスの返事が聞こえた。彼の声だけが聞こえた。どうしてか胸が温かい。口元がゆるんだ。同時に。腹の底からわきあがる闘志。そうとも。誰が、何が相手だろうがやることは決まっている。
ファイティングポーズを決めて、敵を迎え撃つのだ。ゴングは鳴った。鈴の音は半鐘となり、耳元に鳴り続けている。すべての魔力を身体強化へ全振り。空中に手足をふった。位置、体勢、角度。調整する。風を斬る。
二秒あれば十分だ。
ヒュ─── ゥウ、…ごっヅン!
上空からの一撃、踵落とし。正確にドラゴンの眉間へと打ち下ろす!
衝撃はむろん、こちらにも加わる。歯を食いしばる。右脚を振りぬいた勢いに上半身をよじる。腕をふって跳ね上げた左足に巨体の横っ面を蹴り飛ばした。横への体重移動に落下のスピードを軽減。足裏に大地へと着地。
ドウッ。
飛翔したばかりのブルードラゴンが再び地へと伏す。地響きをたてながら。
近衛師団の制服を着用した複数の騎士がぽかんと口を開いていた。構えもせず、突っ立ってこちらを見ていた。何をしている。早く下がれと指示を与える前に。ドラゴンの瞼が開いた。信じられないという顔をしていた。……なかなか表情豊かな幻獣種である。目による感情表現が豊かなのは卵形の頭部前面に眼窩があるせいかもしれない。
それとも。見下ろされたのは初めてか?
帝国王朝の前身であるフォルクヴァルツ領とフォルクヴァルツ騎士団は今から234年前、欧州大陸を蹂躙したホワイトドラゴンを討伐し、国を興した。
たった二百年と少し前の出来事。建国のあらましは歴史の教科書にだって載っている。
「陛下の御前である」
前時代の物語のように。御伽噺とするにはまだ早いだろう。
「約束のない来訪は遠慮されたし」
ゆらり。短い四肢に立ち上がったドラゴンは怒っている。
だっ、ダダダダッ! 横手、ゲートの外側を囲むように展開する近衛騎士たちの装備はたいへんよろしい。
「総員! 撃てぇー!」
キンッ! カキキキンッ!
指揮官の号令下、クロスボウの矢が飛ぶ。雨あられとはいかないが。二十数名の騎士による二列編成。前列は膝をつき。訓練された動き。
両手で把持するコンパウンドクロスボウから放たれた一斉射撃は鱗に弾かれたけれども。これほどの数の騎士たちが飛び道具を装備している。いくら王族の列席があったとしても、称号授与式なる文化的な式典の警備としては不釣合い。人間の賊などオーバーキルもよいところ。多勢を想定してか。そうでなければ魔獣用の装備。…手を回したか。フリードリヒか。カペル公爵か。行き着く先はマルクスか。
私の婚約者すごいなぁという素直な感嘆符は飲みこむ。
拳に術式を握りかけ、…発動が遅い。瘴気だ。ゲートの中枢。気づけば黒い炎が私の足にしがみついている。
全長90センチ、重量に50キロ近く、有効射程距離は50メートルのコンパウンドクロスボウから放たれる矢は先端部に重いウーツ鋼を使用している。長さ53センチの弓矢は初速に300キロ、場合によっては400キロを超える。全身鎧をまとった騎士ですら致命傷となる武器だが…。
ブルードラゴンは蚊にかまれた程度の痛痒も感じていないらしい。
うっとおしそうに頭をふって振り向いた。距離を置いて、その左右。立ち上がった兵士は二人。
「目を狙え!」
炎と氷の矢をそれぞれアーチェリーに放つ。本命だ。同じ隊服に擬態しているが、戦闘魔道士。矢の先端部には魔石。練りあげた術式に命令どおりの目を狙った。騎士たちの攻撃は時間稼ぎの囮か。隙をついた。動揺は隠しきれていないが。立派に対応している。
だがドラゴンはシールドを展開。
パチュン! ひどく軽い音に弾かれ、…いや。吸収か。炎と氷の魔力を喰らった。防殻や防御膜とは根本的に違うもの。伝説どおり。ドレインの能力持ち。弓矢どころか術式にも貫けぬ装甲。剣も通らぬ大きさ。
「ルォオオオオ!」
威圧の咆哮。
まさに王者の貫禄。
となれば。やるべきことは単純である。
(まぁ、)
それしかないとも言うわ。
拳に打撃をいれる。肉弾戦の勝負である。
ドラゴンの尻尾をアーデルハイトが掴む。スウと息を吸って。心肺機能の強化。血がめぐる。鼓動の音が爆ぜるよう。両の脚に力をこめ。両の腕にやっと抱きかかえられる尻尾を握った。
「お帰りはこちらです」
エッ?という顔をしたのは何故か騎士たちも、魔道士たちも、振りむいたブルードラゴンですら同じだった。
フッと短く鋭く息を吐く。吸って、息をとめる。渾身をこめ。……ブンまわした。
ふわり、巨体が浮き上がる。投げ技は地味だが効果的な戦術である。ゲートの真上なのだ。魔方陣に叩きつけ、最短距離を強制帰宅いただこうとした。回転させ、背中から地面へ。
青い翼が広がった。長い胴体を捩じらせ。バサァッ! そうだ。翼があった。目を開けていられない。体格差による体重差。
たまらずアーデルハイトの手が離れる。羽ばたきによる風圧の受け身。それでも完璧とはいかない。瘴気を舞い上げ、四肢の鉤爪に大地をかきながら投げだされた巨体が横滑る。
翼に方向を変え、ドラゴンが突っこんだのは近衛騎士団の方向だ。武器を、クロスボウを捨てての退避行動とドラゴンに背を向けたアーデルハイトは王宮の壁を駆けのぼった。窓枠のわずかな突起を蹴って。再び四階。までは行けない。ドラゴンが飛翔する。重力と反重力による理不尽な加速。追ってきた。噛み砕かんと迫る竜の顎。ドン!思いきり壁を蹴飛ばして、後方へ宙返り。跳躍による一瞬の滞空。上下が反転した視界に入った光景は。いくつもの小さな黒い点が風に舞う煤のように冬空に昇る様だった。ああ、─── 奴らが来る。
彼らの王を目指して。
随獣たちが目覚めた。
卑小なる人間の身へは、重力によるラブコール。額を狙い、上から引っ掛けるように蹴りをぶちこむ。硬い。灰色熊であってすら沈んだであろう一撃を二度も受けて、ブルードラゴンはなお健在。目を閉じ、顎を閉じ、わずか、耐えるような仕草を見せはしたものの。尻尾の一撃は予想外。腕を交差してのガードは間に合った。鋼鉄の棍棒で殴られたような衝撃に吹っ飛ぶ。なんたる失態。五本目の腕、それはグリフォンの毒尻尾に学んでいたはずなのに。
壁の煉瓦を突き破って三階の室内へ。避難は終えていたのだろう。無人でよかった。私はアバラが逝った。…下側だ。大丈夫、まだ動ける。痛覚を遮断するのはまだ、早い。
胸を押さえて立ち上がる。
青空を背に旋回したブルードラゴンは。
優美さと凶暴さを兼ね備えた幻獣種だ。
青い鱗に陽光を弾き、随従のようにキメラたちを引き連れ戻ってきた。風が強い。吹き散らされる雲が集まり、上空から影がさした。気圧が低下を始めている。
ドラゴンに随伴するキメラたちのずんぐりとした体躯の一つ一つは大きくない。50センチにも満たない。そのうえ、羽虫のような翼だ。水平飛行に最高時速200キロ、急降下時には400キロとも言われる幻獣の飛翔速度に追いつけるはずもない。
群がるように、甘えるように、憧れるように。周りを飛んでいるだけだ。
瘴気の海と化した中庭にはしゃぎ、キィキィと耳ざわりな鳴き声。わかる。笑い声だ。喜んでいる。言祝いでいる。王の帰還を。
三日月の形に釣りあがった口には牙があった。ひとを、喰うためだ。人に代わって戦争をするために産みだされた合成の獣たちだとマルクスは言った。なるほど、ならばこうもファンタジーな仕様であることも納得がゆく。
周りを見渡せば、称号授与式あとの茶会のために用意されていた室内にはカトラリーがたくさんあった。いくつかのデザートナイフを拝借し、胸ポケットへ。
護衛の騎士が剣や魔石の一つも忘れていてくれれば気休めくらいにはなったかもしれない。だがアーデルハイトが素手に魔道刃をまとうことが多いのは、制式剣では魔力の負荷に耐えきれず、結局のところ使い捨てにならざるを得ないからだ。
定石通りであるならば、救援はすぐに寄こされるだろう。ここは遠征先ではない。皇都なのだから。皇都衛兵隊、皇都騎士団、そして帝国軍。暴力機関の中枢がある。
しかし期待はうすい。タリスマンが駆けつけることも不可能だろう。市街に広がったキメラたちの対応に手いっぱいのはずだ。ましてや場所が王宮である。王室近衛師団の管理下。そして師団長である第三王子は不在。統率しているのはおそらく副団長だろうが、誰が指揮をとるにしろ、調整役として難しい舵取りが求められる。おまけに王宮へ軍を送るかどうかの判断をすべき軍務尚書閣下が今この場所にいらっしゃるのだ。逆に言えば、今この場には将軍クラスの高級将校しかいない。それは「迎撃せよ」と命じられ、実働部隊に「続け!」と叫んで先頭に駆けだす指揮官と、「突撃!」と復唱し剣を突き刺す兵士たちがいないという意味だ。
心強い仲間の到着を待って時間稼ぎといきたいところだが、そうもいかない。あの巨体だ。そしてゲートがある。キメラすらもが現れた以上、猶予はない。
だからアーデルハイトは『仕留めてくる』と告げて飛びだした。
窓だったものの残骸前に立って深呼吸。魔力回路を全開。出し惜しみはなしだ。
幻聴の声が問う。
『そこにいるのか』
もしかしたら。
よう、同胞。とでも答えてやるのが正解だったのかもしれない。
けれどこれは此岸にいてはいけないもの。
彼岸へとお帰りいただこう。
すでに失われた彼らの故郷へ。
両足に纏わせた雷撃をもって加速。ダイブ。高速飛行するドラゴンへすれ違いざまのドロップキック。シールドを破壊。追撃に白色火炎を放つ。通った。たたみかける前に即座、シールドは再構築を果たし、ドラゴンは急上昇。
どぷんっ。
着地した中庭に、黒い泥に、踝までが沈んだ。
「イカレてやがる」
ゲート外郭に片膝をついた騎士が吐き捨てた言葉が背にかかる。
振りかえる。失言を自覚し、肩を揺らした男たちの手にはコンパウンドクロスボウがあった。引き絞られた弓には次の矢が装填されている。
「ドラゴンを前に逃げず、留まり、戦う意思を握る勇敢なる近衛騎士らに敬意を。助太刀に感謝します」
「っ……」
アーデルハイトの背後にいるのはつまるところ同類だ。王族の護衛という職務を投げださず。そのためにはドラゴンにすら挑む。彼らを突き動かすものは責任感か。あるいは隣に並ぶ仲間に無様を見せたくないというちっぽけなプライドだったとしても。
男たちの震えがとまり、目の奥に力が戻る。
「アルニム伯爵令嬢、……いえ、アルニム少佐殿」
隊長の腕章をつけた男の白い近衛服は黒く汚れていた。王の剣。王の盾。泥にまみれた最前線などそうそう経験することはないだろう。近衛とはそういうものだ。
「ご指示を。国王陛下をお守りするため、我ら地獄まで剣をふるう所存」
キメラとは王たる幻獣獣に付き従うモノ。近衛とは人の子の王に付き従う者。
「ドラゴンは私が。あなた方は随獣の排除を。陛下のもとへ向かう敵を殲滅してください」
壁を失い、むき出しになった王宮の三階と四階には翼をもったキメラたちが群がっていた。最上階である四階は特にひどい。
見上げ、分隊長の任を帯びた騎士はまるで建国史の再来だという感想をのみこんだ。帝国が興った戦では、のちに剣を王錫に持ち替えることになる騎士団長の背を守り、はじまりのレディナイトが武勲をあげた。けれど目の前の女性がこの国の王族に加わることはもう、ないのだ。
婚約者だった第五王子より手ひどい裏切りを受けえてなお、己の責務を果たさんとする姿勢はまさしくノブレス・オブリージュの体現。第四王フリードリヒが心酔する上官という噂も真実だろうと確信する。
「……陛下をお守りすることこそ、我らが本懐です」
「はい。よろしくお願いします」
「ですが……、よろしいのでしょうか」
アーデルハイトを見て「イカレてやがる」と吐いた騎士も平静を取り戻していた。ドラゴンの前に華奢な女性をひとりを置いてゆくことに躊躇いを覚えている。
「お気遣いなく。魔獣討伐こそ、我ら魔道士部隊の所望するところ。トカゲ一匹を打倒する、簡単なお仕事です」
こういうとき。どうすれば良いかは教官に叩きこまれた。笑え。迷う姿を見せるな。指揮官が動揺していては、部下に不安が伝染してしまう。
折れたアバラの痛みなど微塵も浮かべず。アーデルハイトは右手をふって祝福がわりの雷撃術式を披露。たっぷりの自信をまぶした声に彼らの背を押してやった。
撃ちぬかれ、大地へと転がったのは男たちの頭部を狙って降下していたキメラだ。
顔を見合わせ。頷きあった近衛たちがクロスボウを、剣を握りしめる。
「それでは」
「武運を祈ります!」
駆けだす彼らの背を見送る。隊服は薄汚れていても、軽やかな足取りだ。硬い地面を踏みしめて走ってゆく。
アーデルハイトが見下ろした自身の足には瘴気がからみつく。コールタールと化した大地に踵が沈む。─── アーデルハイトの足だけが。
困ったなぁと思うのは。感じるのは。不快ではないからだ。むしろ力が湧いてくる。心臓というポンプが勢いよく送りだす血潮が全身をめぐる。なんだってできる。そんな、恐ろしいほどの万能感が肥大化する。このまま黒い炎に身を投げだしてしまいたいという誘惑は苺のショートケーキのよう。
けれど独りきり。清潔な部屋に並べられたデザートナイフとフォーク。湯気のたつティーカップを前に椅子に座って、甘い菓子を頬張ったとしても。
(きっと私は寂しい)
アルニムでの屋敷のように。
テーブルの向かい側には、母が。乳母がいて欲しかった。誰かと一緒に食事をしたかった。話がしたかった。リッターだけが傍にいてくれた。もう還らない。時間は巻き戻らない。だから。
バネのように膝を曲げ、全身をよじる。風属性の術式を展開。どぷんっ。さらに一段階。足首までが沈んだ。腹に力をこめる。よじった分だけの助走をつけての跳躍。重力に足首をつかまれかけたところで。
「エア・ギア」
空気の固定化。強化した肉体に蹴って、飛ぶ。さらに高く速く。ステップ、ジャンプ。術式を重ね、キメラを雷撃に裂いて進む。
中庭を横切り時計塔へ。まずは足場の確保が必要だ。天空高く舞うドラゴンを王宮から引き離し、地へと引きずり落とすために。
集中する。
─── なにも守らなくていいのはとても楽だった。
実際問題、背後を守りながら、居合わせた人々の避難を助けながらドラゴンとの戦闘を継続するのは不可能だった。無謀だった。そこで出番を迎えるのは人類の輝かしき叡智、攻守の分業だ。
壮語は吐いたものの。
これは時間がかかりそうだとアーデルハイトだって気づいている。
勢いを増した瘴気は地獄の釜よりあふれ返っていた。
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