悪役令嬢は魔法少女の上位互換ではない【6】
「もう一つの報告もいいですか?」
そうだ。最悪が残っていた。もう腹はいっぱいだと言ってしまいたいが、湯気の立つ食事は用意されていて、席についた俺の手はナイフとフォークを握っている。
俺は知らずにいる薄氷の幸せが怖い。知らないでいることへの恐怖の方がよほど根深い。備えろ、構えろ、用心しろと頭が警鐘を鳴らす。瓜二つの容貌を持った男が俺の前に現れた日から。天使様の羽根のような白い布をまとったそれは、いつだって突然反転する。安心して、気を許したとたん、飲みこんだ真っ黒な毒が手足を伸ばして襲いかかってくるのだ。
無知の幸福なんて俺はいらない。腹に力を入れて向き直る。
「聞こう」
「こちらもブレンから入手した情報です」
「待て。深呼吸をさせろ。…いや、なんだって隊長はブレンにばかりそう、重要なことを話すんだ?」
あいつの口の軽さは筋金入りだぞ? 火炎術式なんぞ場所を選ばず、乾燥した空気のなか、可燃物の多い森林地帯に無詠唱で飛びだしてくるほどだ。
「重要だと考えていないからじゃないですか?」
「私事を相談するならオスカーだったろ?」
「親御さんに相談するのも恥ずかしくなってきたお年頃なのかもしれません。その点、ブレンに対しては同い年の気安さもあるんじゃないでしょうか。お互い、男とも女とも考えていないようですし…。仔猫がじゃれあっているようなものですよ」
「外見はな」
微笑ましい猫パンチの応酬と見せかけ、中身は単身大型魔獣を仕留める魔女と放火魔である。一撃、一撃がとにかく重い。アーデルハイト隊長の拳。踵落とし。ブレン少尉の広範囲火炎術式は、防御膜をまとった俺たちタリスマンですら、まともに喰らえば致命傷レベル。場慣れしたアーデルハイトのトリッキーな動きは読みづらいし、こんなところでそれをやるか!?の意表を衝くブレンは言わずもがな。魔力制限なしの模擬戦闘に対峙した場合は、突貫、真っ先に潰すべき脅威だ。
「ブレンはあれでも侯爵家の嫡男ですし。伯爵令嬢としての価値観は共有しやすいと踏んだんでしょう。…曹長とあなたが情報を共有していることに気づいたのかもしれませんし…」
「オスカーの奴が俺に言ってないことなんてたくさんあるだろ。食事のことだって、花の絵のことだってそうだ。隊長の好きな色なんて俺はオスカーから聞くまで知らなかった」
言わなかったのは、教えなかったのは、オスカーが隊長の未来を、軍隊という鳥籠から王宮という鳥籠に移されるだけだと考えていたからだ。ならば自由な大空など知らない方がいいと判断した。こちらへよこす情報を取捨選択していた。
俺に告げてしまえば、彼女を誘い、外の世界を見せてしまうと気づいていたからだ。
「そこは父親に譲ってあげましょう。オスカー曹長はあなたにもずいぶん気をかけてくれていますよ。娘に甘いのは男親ゆえでしょう。小さな女の子が魔獣の闊歩する戦場にいて、剣を握って隣に立っていたら、普通の感性を持つ人間は心配します」
そういう普通の感性を暴力の現場に維持できるのがオスカーの特出したところだ。
「亀の功より年の功か」
「年寄り扱いするなと拳骨を喰らいたいのであれば直接どうぞ?」
「ふん」
たしかに様々なことを教わった。俺やシュタインがこうも容易く軍隊に馴染めたのは、軍隊という組織を煮詰めたオスカー・オーマン曹長から教導を受けたおかげだった。むしろ父親と口にするにも憚られる男よりもよほど、と。言葉にできるほどマルクスは素直な人間ではなかった。
肩がほぐれた。
「よし。話してくれ」
「アーデルハイト令嬢はあなたとの婚姻にあたり、ミュラーへの持参金を個人資産より工面しようとしています」
いやいやいや? 待て待て待て?
ここにオスカーがいれば間違いなく突っ込んでいた。
「おそらく、ですが。間違いないと思います」
口にするシュタインですら、自分の言葉が信じられないのだろう。疑念が隠しきれていない。
俺は真面目に考えた。
「……どうやって?」
アーデルハイトは浪費家ではないが、吝嗇家でもない。衣食住が保証されている軍人とはいえ、給与の半分を世話になった乳母に何年も送金し続けてきたような女性だ。軍食堂に食事をとって、酒保に石鹸を買って、官舎のベッドに眠る。魔道士部隊の飲み会に副長にライヒマルク紙幣を渡してそっと席を立つ。魔道士が出費しがちな書籍や魔石の収集家というわけでもない。爪紅、香水ひとつ纏っているでなし。無味無臭に乾燥無味。
改めて思うが、十八の女の生活ではない。戒律の厳しい教会に暮らす聖職者じみている。食堂にたまに姿を見せる甘味に目を輝かせているくせに、自らそれを求めて街へ出ようとはしていない。
アーデルハイトの貯金がゼロということはないだろう。酒は飲めない。煙草もやらない。娼婦を買うわけもなし。戦地では他に、遣う先もない。瓶詰のフルーツ牛乳を両手に持って大事に飲んでいる姿を見かけたぐらいだ。十二の年から戦地に出ていた彼女にとってはそれが贅沢なのかもしれない。泣きたくなるので否定して欲しい。自身の十八の頃を思いだせば頭を抱える。頼むからもっと人生を楽しんでくれ。
平民同士の婚姻であれば、ウェディングドレス購入のために、結婚証明書を用意する教会への寄付金のために、軍官舎を出て二人で暮らす新居費用のために、貯蓄に励むのはごくごく一般的な金銭感覚である。
しかしミュラーやアルニムのような何代も続く伯爵家の家格を持った家同士の婚姻で…?
(それは公務員のサラリーで賄えるものなのか?)
マルクスも大尉なので、二階級上の少佐の基本給や給料額はだいたい予想がつく。スタンピートに対峙する最前線兵士への危険手当ならば計算もできる。魔道士の資格持ちは給与面において一般兵士よりも優遇される。そのぶん酷使もされるが。魔道佐官ともなれば世間的に見れば高収入の部類である。
しかし男も女も早婚の多い貴族階級では、婚姻後の生活費さえ一族単位で捻出されることが多い。領地での利益分配の最終判断を行うのは領主そのひとだ。18歳の学生本人が持つ財布に期待する大人はそうそういない。
それを。
たったひとり。
援軍も見こめない孤立した単騎で。
伯爵家規模の持参金を用意する?
(いやどうやってだ?)
もう一度首をひねる。
たしかに一代で財を成したような自営業の商人であれば可能かもしれない。カネで爵位を買ったと囁かれるケースもあるぐらいだ。
しかしアーデルハイトは商人ではない。カネを稼ぐことは専門外だ。無収入の学生でこそないが、たいそう立派な軍人令嬢である。
「…ああ、母親から相続したアルニムでの財産があるということか?」
「いいえ」
「品格維持費の一部は隊長名義の貯金や運用にまわされていたのか?」
「いいえ」
ミュラーの騎士たちを動かし、父親と元婚約者による横領の裏づけをとっているシュタインが断言した。
(…そうだな)
あの父親がそんな、嫁ぐ娘のために少しでも現金を持たせてやろうなんて殊勝な真似をするはずもない。
俺の祖父母のように。いざとなったこれを持って逃げろとの想いを込め。換金が容易な宝石類を握らせたりするはずもなかったな?
母親から譲り受けた資産があったとしても、保護者であり後見人である父親にとっくと食いつぶされているだろう。
─── では、どうやって?
浮かぶのは王家からの慰謝料とカジノ・バーデンでの勝ち金だ。
手っ取り早く一攫千金を目論むならば、ダンジョンに潜るという手もある。あるいは特定討伐対象を狩る。それらを生業とする冒険者たちも存在する。
絶対に捻出できないと言いきれないところが恐ろしい。
日曜日の朝、ダンジョンへのエントリーシートを手にした隊長が『稼いできます』と宣言した場合、果たして俺は止めることができるだろうか…?
街中で見かける女学生のように、飲食店に配膳の短期就業をしたり、隙間時間に針子の内職をするような動きをアーデルハイトがするとも思えない。むしろそんなアルバイトの窓口がどこにあるかも知らないに違いない。
軍令部に一言『特定討伐対象の情報をください』と申請した彼女のもとにはA級ランクの書巻が積みあがることだろう。魔獣討伐に手一杯の軍部ではチャレンジャーも絶えて久しい。…奴ら、喜んで差しだすだろうな…。報奨金はもちろんアーデルハイトのものだ。しかし『帝国陸軍少佐が特定討伐対象○○○を撃破!』のニュースは欧州の同業者間では高らか喧伝されるに違いない。
……できるだろう。できて、しまう、だろう!
戦って、勝つ。戦乙女の本懐。あるいは願望かもしれないが。マルクスのような男に一瞬でもそうと信頼させてしまうところにアーデルハイト・アルニムの凄みがある。
もはや力仕事と言う概念にすら納まらない。現実には金貨を抱えた獲物がそう都合よく近辺に存在している可能性は低いにしろ。
宝箱を求めたダンジョンが空っぽのことだって珍しくない。骨董品とも言える鉄製品は蓋を開いた時点でお陀仏だ。ダンジョンでは戦う以前に現在位置を見失うこともあるし、単純な落とし穴の罠一つだって致命傷となる危険地帯だ。任務で部隊単位、官軍のバックアップを受けながら投入されるならばまだしも。独り。そんな所へは行って欲しくない。しかも俺との結婚資金のために?
(冗談だろう)
カラ笑いしそうになって、シュタインがこちらを見つめる目付きに気づく。同じことを懸念している。
「マルクス。隊長から持参金について相談があったさい、身一つでよいと伝えたんですよね?」
「ああ」
むろん、実際には手放しがたい物もあるだろう。非常用持ち出し袋のなかには通帳や魔石をはじめとし、衛生・救急用品が必須だろう。下着、歯磨きセットやタオルがあれば安心もできるだろう。だから。
「遠征と同じように、行李一つを背負って。俺の手をとってくれれば十分だと伝えた」
王室からの慰謝料はアルニム伯の散財によって傾いた領地の再建に使われるだろう。
アルバン・アルニムが領主として官吏や騎士、領民たちから早急に認められ、実権を握るためには有効な資金のはずだ。アルニム伯爵領は酷い状態だが、まだ、間に合う。それでは足りない、アーデルハイトの心残りになると言うのなら、ミュラーが保証人となって銀行からの借り入れを斡旋するという方法もある。その場合は前段階としてミュラーからアルニムへ官吏を送りこみ、貸借対照表と損益計算書の精査を行う必要がある。管理者としてミュラーの人間を置く必要も出てくる。
それでは俺とアーデルハイト隊長との間に上下関係が生まれてしまう。俺は第五王子の二の舞は演じない。恋人が、夫婦が喧嘩もできなくなってしまう状態は健全ではない。俺は妻に里帰りを禁じるような狭量な夫にはならないし、里帰りをイコールで魔獣討伐として妻に命じるような暴君にはならない。彼女と仲良く暮らしたい。足枷としては考えなくもないが、それらは気づかせないように嵌めなくては意味がない。花嫁のベールをかぶせるように、ガラスの靴をはかせるように、そっと。
性分として、俺はできれば自分の能力の範囲内ですべてを管理していたい。アーデルハイトのことは自身の庇護下においておきたい。(まぁ、)無理だろうな、とは思う。檻に閉じこめられたと気づいた野性の獣はどう動く? それが答えだ。ならば俺は彼女のもっとも強く大きな盾になる。
義兄殿には是非とも頑張ってもらいたい。
俺と、アーデルハイトの幸せのために。
アルバンが兄としての意地を張りたいと言うのなら、慰謝料などアーデルハイトの個人資産とすればよい。
カジノデートでアーデルハイトが手にした勝ち金を取り上げるなど、俺は今まで考えたこともなかった。
「残念ですが、伝わっていません」
「隊長は頷いてくれたぞ?」
「社交辞令と受け取られたのではないでしょうか。まぁ一般的に男性側がそう言ったところで、嫁ぎ先に肩身の狭い思いをするのは女性側ですから。借金をしてでも持参金を用意しようとする親もいるぐらいですから」
「ミュラーが相手でか?」
「マルクス。僕らは領主様が立て直したミュラーしか知りません。今や飛ぶ鳥を落とす勢いとなったミュラーでしか暮らしていません。持参金など不要、名誉だけでよいと僕らが言えるのは今だからです」
「それもブレンか」
「クラウゼ領から持ちこまれた持参金について話したようです」
マーロウ・ミュラーとクラウディア・クラウゼの婚姻は特別な、…特殊な時期だった。
帝国随一の穀倉地帯であったはずのミュラーですら、小麦と城が交換されるほどの飢餓に襲われていた。
被害の深刻さはまだら模様とはいえ、欧州全土が飢饉に喘いでいた。穀倉地帯であったが故に、販売ではなく購入の流通ルートを持たないミュラーはクラウゼ領から持ちこまれた持参金、穀物によって持ち直した。腹を満たした騎士団は息を吹き返した。食料と引き替えに手放した武器魔石への援助もあり、人里へ下りてきた魔獣討伐へと動きだすことができた。
嫁いできたクラウディアの死があってなお。あるいはだからこそ。クラウゼはミュラーのもっとも大切な同盟領だ。
「……ハ。たしかに最悪だな」
「アーデルハイト隊長が尋ねました。ブレンはただ、知っていたことを話しただけです。隊長に聞かれたから。嘘はつけません。嘘をつく必要も感じなかったんでしょう。彼はただ、自分が隊長に教えてあげられることに喜んで、知っている限りを話しただけです」
俺の表情を見たシュタインはブレンを庇った。ブレンを責めるなと言っている。若い少尉の首に伸びかねない俺の手を言葉に制止している。
マルクスの祖父や父は屋敷の使用人たちと同じ粗食を口にしながらも彼らの雇用を切ろうとはしなかったし、最も苦しい時期を抜けてからはミュラー領内で作られた衣服や装飾品を買い入れ、褒美として与えるようにしていた。それを浪費、見栄だと見る者もいるだろう。しかし一度途絶え、失われた技術を再び同レベルにまで引き上げるためには長い時間がかかる。
今日、生きているだけでは駄目だ。よりよい明日のために今、できることを。
まずは身の回りからだ。手の届くところからだ。高みを見上げて嘆くよりも、できることからコツコツと。
企画書に地図と時刻表を添えて手にした専制君主の号令下、最悪の貸借対照表、最低の損益計算書であったミュラーの連結決算書はそうして改善されていった。
ミュラーとアルニムが根本的に違うのは領地が持つ潜在的な体力と、領地民の気風だ。ミュラーは基本的に戦闘民族なので、「貧乏と戦うぞ!」と領主が宣言すれば野太い雄叫びがそれに応じる。水や食料にすら事欠く有様であってなお、戦う。貧困に伴う病魔や、教育の機会逸失、そして生まれる格差の助長、権利の侵害と戦うのだという意味合いを真に理解しているのは一部だろうけれども。
戦える相手がいるというだけで揮い立てる。
「マルクス。愛と、お金。あなたはどちらが大切だと思いますか」
「擦り切れるほどに使い古された質問だな」
陳腐にもほどがある。
「独身は前者を選び、既婚は後者を選ぶ者が多いそうです」
「そうだな。結婚は生活だからな」
「金の切れ目が縁の切れ目とも言うぐらいです」
「そうか。選ばなくて済むよう、肝に銘じよう」
翌朝、日曜。俺は婚約者である伯爵令嬢に軍馬を贈った。
美しい白馬はアーデルハイトが好む『強い』生き物だ。戸惑いながらも受け取られた。
あらかじめ用意させていたものだ。好意を伝えるためには言葉だけでは駄目だ。彼女の耳を素通りしてしまう。行動しなくてはならないという確信はより大きくなっていた。選りすぐったミュラーの軍馬を呼び寄せ婚約者に譲ったという事実に、一部の騎士が不満顔を見せていたからだ。
持参金など不要と俺が彼女に伝えていたことを、彼らは甘いと感じていたに違いない。
俺が、彼女を望んでいるのだと。
それを見せつける必要があった。
誰に対しても、だ。
王妃からのコンタクト、茶会の招待状はアーデルハイトに見せてもらった。貴婦人が扇に乗せて寄越すような上質の紙に、香水でも吹きかけているのか。ピンクペッパー、ジャスミン、パチュリの香りは嗅ぎ分けることができた。
逆に、アーデルハイトが書いた返信は軍机に常備されている便箋と封筒を使った無骨な軍用文書だ。しかも。
『軍務に多忙であるため、欠席します』
いや、…いや?
(さすがに簡潔に過ぎないか?)
むろん、お断りは大前提だ。忙しいのも事実だが。
電報ではあるまいし。軍報告書の一文でもあるまいし。仮にも王族相手だ。貴族の手紙であればもう少し、冗長にレトリック豊かに書かれているものでは?
背筋を伸ばして俺のプルーフリーディングを待っている隊長に校正の手を入れるのは憚られたが…。
「少々、素っ気ないような気もしますね」
「そうですか?」
「いつもこのように?」
「出欠の回答がわかればよいとのことでした」
「王妃陛下がそのように?」
「第五王子殿下です。余計な報告は不要と。嘘つきとは言われましたが…王妃様もそれでよいと仰ってくださいました」
「嘘つき、ですか?」
「はい。軍務での遠征中に開催された茶会への招待状が官舎に届いていました。帰還後も軍病院へ入院していたため、気がつくのが遅くなりました。『職務中につき、許されたし』と返答したところ、次にお会いした際、そのように」
あのボンクラ王子は。
「婚約者の勤務地も把握していなかったんですか…」
「私の任務日程表は軍部より王室に送られていたそうです」
なるほど。つまり興味がない。あるいは直視するのが怖い。自分の身代わりに戦場へ出た伯爵令嬢という現実が恐ろしくて耳目に蓋をしていた。どちらだろうか。…どちらもだな。
マルクスの脳裏に浮かんだのは一枚の絵葉書だ。
ピンク色をした、花。彼女が描いた絵。遠方から、自分を想って送られたもの。
(俺なら額縁にいれて寝室に飾っておくな)
その前に。会いに行く。自分の足で。馬を駆って。胸には手紙を忍ばせ、彼女のもとへ。剣を携え、魔石を身につけ。戦えばいい。なんて単純明快な解決方法だ。俺ならばそうする。
王妃も王妃だ。それでよい、じゃないだろう。そこは息子を叱りつけるところだろうに。一言でも添えられていれば嬉しいとアーデルハイトの手を握るべきだったろうに。
「一文を加えておきましょう。『お誘い、ありがとうございました』と。礼儀正しくしておきましょう」
それ以上の手間暇をかける義理は皇都中を探し回っても見当たらない。社交辞令には十分だろう。嫌味が伝われば幸いだ。どうせ来週には爵位授与式で顔を合わせる。『お会いできるのを楽しみにしています』とは世辞でも言わん。軍部に唾を吐いた謹慎処分中の王子が顔を見せる可能性は限りなく低いが、王妃にも遠慮いただきたいものだ。
「婚約者とも相談して、との言葉も添えておきましょうね?」
「はい」
連名を受け入れたアーデルハイトが頷く。
素直で愛らしい姿だ。頭を撫でてやりたくなる。手を伸ばしかけ…、職場だった。我慢する。タリスマンの待機所くんだりまでやってきた王宮からの従者に返事を託す。今日は返信をいただけるまで帰りません、何時間でも待ちますと宣言させられる使用人も気の毒なことだ。目立つ儀礼服は、今や軍令部には針の筵だろうに。アーデルハイトの名が記入された封書を俺の手から受け取り、安堵した従者は即座に踵を返した。出席の可否どころか。内容などどうでもいいと言わんばかりだ。これが少々気の利いた執事やファースト・フットマンであれば主の意を汲んで動こうとするもの。王妃の求心力低下も順調と見てよいだろう。
なにしろ今朝の新聞には未成年である第五王子の飲酒疑惑が載った。載せた、とも言う。王立学園の生徒会室の写真付だ。学園現場はグリフォン出現の混乱から受けたダメージコントロールに失敗している。
ゆったりとした口調を心がけながら、アーデルハイトに話しかける。水差しの水を差しだす。
「体調はどうですか?」
「筋肉痛と同様の痛みはありますが、骨折し、入院していたときほどの苦痛ではありません」
礼を言って受けとったアーデルハイトがグラスの縁に口をつける。
「今夜の会食はいかがなさいますか?」
父も同席の食事会はこれで三度目になる。早く休ませてやりたいとも思うが、ミュラー伯爵が皇都に滞在する時間は限られている。
「お誘いありがとうございます。喜んで。出席します」
「ありがとうございます。ご無理はなさらず。なにかあればすぐに声をかけてくださいね。離れず、隣にいます。テーブルの下で袖を引っ張ってくださっても結構ですから」
茶化してはみた。が。我ながら硬い。もっと踏みこんで、もっとこう、恋人らしい会話がしたいと思うが難しい。仕事中の報告連絡相談の方がまだ軽口が叩けるというものだ。
彼女と同い年の元婚約者の気持ちとやらはまぁ想像がつく。同情もする。スプーン半分にも満たない同情心だが。いまだ学生をやっている自分と違い、社会にでて軍功を積み、着実に昇進し、周囲からの評価を得ている婚約者にそんな手紙をよこされてみろ?
なにも言えないに決まっている。
婚約者のスカートに隠れた王子様がアーデルハイトからの書面を受け取るために勇気は必要だったろう。泣き言の一つも書かれていれば申し訳なさ、己の不甲斐なさに胸にかきむしる羽目になる。だから『高慢』だと思いこむことにした。余計なことは書くなと釘を刺した。職務中と言われれば引き下がらざるを得ないし、茶会などやっている場合かと責められている被害者意識を勝手に募らせていたのかもしれない。
フランツ・フォン・フォルクヴァルツ第五王子は傷病によって兵役が免除されるような特段の事情もない健康体だ。義務を果たせばよい。1+1の答えが2であるように簡単な解決策を、母親が許さない。そういう言い訳に、楽な方へ流れた甘っちょろいお子様だ。
それが婚約破棄?
新しい婚約者だと?
まるでいっぱしの男のようなツラをしてなにをほざくのやら。
午後からの勤務に再度、中央通りへと出る。魔道士部隊の制服を見せつける、治安維持の意味合いも含まれている。
「アイシクル・ランス!」
別動隊、魔塔のローブをまとった若いのが詠唱し、術式が発動。すれ違う部隊の至近距離に着弾。…頑張ってはいる。それはわかる。しかし集中、からの発現までが遅すぎて見ちゃいられないし、古き良き時代の呪文合戦のような詠唱は気恥ずかしすぎて聞いちゃいられないが。戦闘系ではない。彼らは必死に喰らいついてこようとしている。
ただ、そう。
「目は開けて唱えろっ」
思わず怒鳴りつけたのは致し方あるまい。
「ひゃ、ひゃい!」
……噛むな。頼むから。
引率者である皇都衛兵隊の年配者が『しょうがないんですよ』と言わんばかりに肩をすくめた。目標にヒットしたのは運がよかった。
随獣に対処すべく、人手をかきあつめた現場はこのようなもの。
学徒動員の是非はともかく。素人は下手な玄人よりもよほど恐ろしい。戦列の向こう側に並んでいてくれれば良いカモなのだが、同じ列に並ぶとなれば話は別だ。後ろから誤射されるなど、誰だって御免被る。
尉官の一員としてため息をこらえた代わり。
見上げた冬の空は昼間なのに薄暗かった。
世間はお盆に突入しましたね。お盆休みってなにそれ美味しい?私はなんならカレンダー上の休日も出勤でしたけれども。
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