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悪役令嬢は戻らない【1】

エピソードタイトル手直ししてきました。


 舗装された道を走る子豚がいた。アーデルハイトが生まれ育ったアルニム領ならば珍しくもない光景だ。けれどここは皇都の中央、目抜き通り。まぁ肉屋から必死の逃亡を図っていると言われれば納得もしそうだ。蛍光ピンクの体色に、ぎょろつく目玉を両手の数では足りないほど貼りつけた子豚でなければ。鋭い牙をむき、低く獰猛な唸り声をあげた凶悪な面相をしていなければ。

 雷撃術式を放つ。一撃に仕留める。

 雷は炎や氷と違い、燃やす、凍らせるといった副次的な効果はないが、とにかく速い。直線であり、対象物以外、周りへの被害が少ないという利点がある。

「さすがアーデルハイト隊長」

 エメット准尉がそう言って褒めてくれる。

 上官への社交辞令には頷いて返す。

「どうして気づいたんですか」

 不思議なことをきかれた。どうしてもなにも。保護色の概念に真っ向から殴りかかるピンクゴールドラメ色のキメラだ。さらに言うなら敵個体は昼日中の大通りを疾走中である。見逃せ、と言われるほうが難しい。アーデルハイトが探索術式を起動していなくても、見落としたりはしなかっただろう。

「おまえだって見えていただろう」

「いいえ。隊長。俺の目には、顔を上げた隊長が突然雷撃を放ったように見えました。その先にいきなり魔獣が現れ、こんがり焼き豚になって、いい匂いが漂って初めて全体像に気がつきました」

「食用には推奨しないぞ?」

 未知のキメラである。外観は豚に似ているが、魔獣と同様、肉の器は瘴気で満たされていることだろう。毒の有無も不明なのだ。補給が途絶えた前線でもなし。飲食店の立ち並ぶ皇都であえて危険を冒す必要はないだろう。

 たしかにそろそろ昼食の交代時間ではある。注意力も散漫になるこの時間帯に接敵するのはいやなものだが…。

「さすがにそこまでチャレンジャーではないですね」

「そうか。なによりだ」

 はい、隊長、いいえ。ではなく。否定から入る返答に対し、眉をしかめる上官はきっと多い。出世したくないんですとぼやく准尉の年齢はマルクスと同じだ。軍歴はじつのところマルクスよりも長い。15歳で入隊し、訓練を施される二等兵からのスタート。軍階級の階段を上り、降格も経験している。ワークライフバランスを追求した結果らしい。魔道士部隊タリスマンが結成される前から、戦闘魔道士のパイオニアとして苦労してきた兵士だ。

 軽口をたたきあいながら、周囲を警戒。変則的な勤務日程に、常日頃のバディ以外とも組むようになっている。連携には注意が必要だ。もっともタリスマンは総勢で12名の部隊に過ぎない。得意分野に加え、気心だって知れたものだ。

「認識阻害が発動している可能性もあるか」

「デニスとリュデガーの二人が発見できないなら、おそらく。なんらかの欺瞞術式が展開している確度は高いかと。アーデルハイト隊長は何故わかったんです」

「天幕の内側から外側にいる人間が感じ取れるのと同じようなものだろう」

「気配を感じると?」

「山のなかで水場を探すのと似ている」

「遭難した場合はもと来た道を辿るか、ちょっと高い場所にある尾根に上ることを意識したほうがいいですよ。水場は、大きな山の下流域にある、なるべくたくさんの谷がぶつかっている場所を探すんでしたか。川がある可能性が高かった気がします」

「ああ。山と川の関係を知っていることが前提だ。豚や猪は体重の10%近い量の水を毎日飲む。周辺に残っている足跡、爪痕などから水源を辿ることもできるだろう」

「それは野性の猪に遭遇する可能性も高いということでは?」

「そうだな。熊や狼もやってくるだろう」

「俺たちはともかく、趣味の登山家なんかは命の危険を感じる場面では?」

「そんな軽装備で山に登るのか?」

「そこに山があるから登る。それが登山家だそうです」

「我々以上のチャレンジャーだな」

「ええ。まったく」

 ようやく駆けつけた皇都衛兵隊へ現場を引き渡した。

 たっぷりと食べて眠って明けた月曜日だ。気力、体力はフルチャージ済みと胸をはりたいところだが、成長痛は続いていた。背が伸びるときはそんなものだと軍医は言っていた。頭痛の種は他にもあった。

 兄、アルバンからの手紙だ。他の誰にも託すことなく、兄の執事であるギュンターが直接官舎へ、私のもとへ運んできた。

 マルクスとの婚約をまず言祝いできた。王宮への迎えをマルクスに任せたことを謝罪し、次いで領地に帰ること。フランツ殿下からの慰謝料およびこれからの時間は自分のために使いなさいと結ばれていた。

 少なくとも一ヶ月、長ければ三ヶ月程度は皇都から離れるというアルバンへの返信は不要だと、一礼したギュンターはセカンドハウスへと戻って行った。執事もまた、マルクスとの婚約を喜んでくれていた。そして眉根を下げ、ミュラー伯爵家との婚姻のための持参金についてをそれとなく仄めかしていた。私が憂いなく嫁げるように、と言ってくれたけれども。


 アーデルハイトだって知っている。

 現状、アルニム伯爵領の経済状態はあまりよろしくない。


 カジノでの父の散財っぷりを見るにそうとは感じられない。けれど魔獣を狩るために帰る領地は少しずつ荒れ始めていた。煉瓦がはがれた主要街道沿い、手入れされていない家屋が増えてきている。伸び放題になった草木は野盗や獣の隠れ蓑になる。危険だといくら訴えたところで父は聞く耳を持たなかった。

 すでに流通も滞り始めているのか、通りに並ぶ店先の商品が減っていた。特に青果は目に見えて少なくなっていた。朝市では箱のすみっこに申し訳程度、小さなじゃがいも、やせ細った人参が転がっていた。肉屋だけは棚がいっぱいだった。アルニムは畜産で成り立っている。だからこそ交易によって他の物資を手に入れなければならないのは世間知らずと言われるアーデルハイトにだってわかる。補給線の運用保守は重要な課題だ。


 帰省したアーデルハイトは領民が住む生活区をほぼ素通りし、装備品とコンバットレーションが詰まった行李を担いで魔獣と対峙する地域にこもっていた。基本は野営。街に下りることは稀だった。

 武器と食料補充のために伯爵邸に戻ったとしても、アーデルハイトが本宅に足を踏み入れる回数は多くない。ドアを開いて、…母がいないことを実感する。それだけの行動だ。

 屋敷には後妻と腹違いの弟が住んでいる。彼女たちの前に姿を見せるなとは父からの命令だ。

 アルニム騎士団の駐屯地へ直行、そこで騎士団の数人と情報交換を交わす程度のやり取りしか行っていない。皇都への帰還前には湯をつかわせてもらい、兵士の一室を借りて眠る。

 騎士団の詰め所も傷んできている。ドアの蝶番ががたつき、テーブルがきしむ程度であれば我慢もできる。けれど襲撃を受けたとき、真っ先に起動すべき防御膜すら常時展開できていない。なんと主導による立ち上げが必要な状態だ。維持には高価な魔石が必要だからだ。補強や建て替え行われる様子はない。装備も同様だ。職人たちによって加工技術がしのぎを削るはずの、戦闘用魔石の品質が年々落ちている。

 予算がないのだ。

 人員の補充すら覚束おぼつかない状態だ。

 ない袖はふれないと言うが、カジノ・バーデンの黒チップがあれば神殿にて祝福を受けた剣と盾が胸甲きょうこうとセットで買えるだろう。2枚あれば魔道被膜加工が施された重装騎兵のウーツ鋼甲冑一式が軍馬付きで揃えられる。3枚あれば雨漏りがする駐屯地の修繕強化だって可能なはずだ。

 日常の買い物に経験はなくとも、軍人としての職務上に動かす金銭の価値であればアーデルハイトは知っている。それはつまり命の値段だ。

 穴の開いていない丈夫な手袋に握る剣は歩兵に安定感を与える。騎兵は鞍と鐙に馬上での踏ん張りが違ってくる。魔石の性能で魔道士の命運は決まる。

 見栄をはることも仕事のうちだと父は言いたいのかも知れないが、お金をかける場所を間違っているとしか思えない。


 店や商人と直接やりとりをしたことがない私とは違い、兄ならもっと現場を理解しているはずだ。


 手紙の意図は、実家では相手の家格に見合った持参金を準備できそうにないから、前婚約者から受け取った慰謝料をミュラーへ持って行けということだ。


(……うっかりしていたわ……)


 そういえば通常の貴族間では嫁入りのための持参金、婿入りのための結納金なる金銭のやりとりが存在していた。

 前回は貰う立場だった。王家への嫁入りだが、支払いを求められることはなく、逆に品格維持費を受け取っていた。王子に代わって戦場に立つ対価だった。私は戦えばよかった。今度は違う。伯爵様、公爵様相手に啖呵をきった一昨日おとといの自分が恥ずかしくなった。

 結婚後の展望について、ああも何度も聞かれたのはそういう懐事情を見透かされていたのかもしれない。アルニムがいくら用意できるのかを尋ねられていたのかもしれない。あるいは今後の予定を立てるために、自ら減額を申し出てくることを期待されていたのかもしれない。

 どのくらいの金額を用意すればいいのかは知らないが、私の銀行預金口座の残高で足りないことぐらいは想像がつく。


 ちょうどよく、と言えばいいのか。兄からの手紙とほとんど同じタイミングで王宮から届けられた書面は慰謝料の目録だった。決定したらしい。現金と魔石加工品、美術品など。そのなかには第五王子の直轄地である土地も含まれていた。アルニム領に面している。だからこそ、目録に含まれたのだろうが。受け渡しは来週以降。こちらの都合のよいときでかまわないらしい。しかし長くお待たせするわけにもいかないだろう。

 困る。迷う。どうすればいいのかわからない。

 帝国に共通の価値を持つライヒマルクや魔石はともかく。


 …著名な画家の描いた名画…?

 …こんなに離れた場所の領地で許されるのかしら…?


 お兄様、これらはむしろ管理にお手間をかけるのでは…?


 持参金だとしても。額縁に入った絵画や土地の権利書をこのままミュラー伯爵に手渡してよいものなのかどうか。


 エッ、いつ。どうやって。

 誰に、どのタイミングで?

 

 婚約式はやると言っていたから、その時かもかもしれない。

 フランツ殿下と婚約したときも、色々な書面や謎の進物を取り交わしていたはず。


(……マルクスに渡せばいいということかしら……)


 けれどそれまでどうやって管理すればよいのか。見当もつかない。兄は領地へと帰省してしまった。皇都にアルニム家が保有するセカンドハウスの持ち主はアルニム伯爵で、父だ。持ちこめば取り上げられるのは目に見えている。カジノでの軍資金にとけてしまうのは避けたい。

 やはり官舎だろうか。狭い部屋だが、絵の数枚ぐらいは壁に立てかけておける。温度、明度、湿度の管理? 朝陽も夕陽もうすいカーテン越しの窓から毎日さしこんでいますが、何か? 一介の軍人に美術館レベルの管理保存を求めるのはやめていただきたい。

 現金は給与と同じ口座へ振りこんでもらえばいいだろう。土地の権利書は紙の一枚。机の引き出しに納まるだろう。インゴットは換金しておくにしても、彫刻の形になった造形物は場所をとりそうだ。魔石は…、タリスマン待機所、鍵のかかるキャビネットが一番安全な気もする。

 もっとも軍隊が常駐する敷地内の、しかも女性官舎に窃盗を目論んで侵入するほど豪胆な盗人はなかなかいない。そんな度胸があって金銭に困っているなら、むしろ入隊を勧めたい。

 部下の結婚にいくら包めばよいのかはオスカーに聞けば教えてもらえるだろう。しかし世間知の副長とて貴族間の、しかも伯爵家同士の婚姻における持参金相場までもを把握しているとは思えない。それにオスカーに尋ねれればマルクスに筒抜けになる可能性がある。それはいやだ。私が願えばオスカーはきっと誰にも言わないでいてくれるだろうけれども。

 こんな迷いを抱えたままではだめだ。

 だって私は、この土地があれば兄は助かるかもしれないと考えている。領地経営のたてなおしに使えるかもしれない。なにしろアルニム領の隣なのだし。畜産に広さは必要なのだし。山岳部が大半を占めているようだが…正確な地形はまだわからない。ささやかだがウーツ鋼が採れる鉱山も含まれている。故に国営だった。もっとも廃鉱は目前。だから下げ渡された。ミュラーだって貰っても困るかもしれない。…いや、売ってしまえばいいのか。現金化してしまえば邪魔にならない。遠方だから、面倒だから、は言い訳にならない。

 それでもぐるぐると考えてしまうのは、全力を尽くしたという納得が欲しいからだ。生まれて10年を過ごした故郷だ。父への復讐を目論んだとしても。乳母ばあやとブランコをこいだ日々を覚えている。リッターと駆けた山道はそこにある。暖炉のまえ、兄と私に母は絵本を読んでくれた。屋敷のみんな。冒険と称して遊んだ同じ年頃の子どもたち。そのすべてが魔獣に踏み躙られて欲しいわけではない。



 午後の警ら任務を終え、エメット准尉とともにタリスマン待機所に戻ってすぐ。

「黒髪、ヘイゼルの瞳をした、18歳の伯爵令嬢をさらうように依頼されたそうです」 

 帰還を待ちかねていたように報告はあがってきた。

 一昨日の馬車襲撃犯の供述らしい。皇都衛兵隊に同席したオスカー曹長からだ。

「王室の誰かが命じたというわけでもなさそうですな」

 フリードリヒ小隊長の言葉にブレンが小首をかしげる。

「なんでわかるんです?」

 オスカーは苦笑気味だ。

「なんでわからねぇと思う?」

「なんでって…隊長、黒髪だし、ヘイゼルだし、18歳の伯爵令嬢ですよ?」

「ブレン少尉。それは貴官が隊長を知ってるからです」

 フリードリヒから与えられた解答にもピンときていない18歳の少尉自身を形容するなら外貌通りの表現でよいだろう。けれども。

「ブレン少尉。私のとしはいくつに見える?」

「………あっ」

「そういうこった。面識のない人間に隊長の外見を説明するなら、13、14歳かそこら。18歳の伯爵令嬢を探してたんじゃ年齢が合わねぇよ」

「あっ、あー…」

「俺なら伯爵令嬢だけではなく、職業軍人とも説明しておくな。あのときはたまたまドレス姿だったが、軍服を着用していた可能性も高い」

 マルクスが付け加えれば、シュタインは考える素振りを見せる。

「まぁ、雑な人間なら馬車に乗っていた女性だからって攫おうとしたかもしれませんがね」

「雑な誘拐犯って最悪ですね」

「誘拐犯ってだけでも最悪だろうさ」

「隊長。犯人に心当たりってあります?」

「あるし、ない」

 ないと断言できない。そこまで厚顔にはなれない。

「……ブレン少尉。隊長が心当たりの誰かを答えれば『とりあえず焼いてきます』という顔はおやめなさい」

 シュタインは呆れまじり、ため息まじり、気だるげ後輩を制止してみせた。

「北方では大勢亡くなったからな」

 指揮官だった私を恨んでいる人間はたくさん居るだろう。祝賀パーティでの王族からの弾劾は、彼らの行動に理由とお墨付きを与えていてもおかしくはない。

 少しの間があって、オスカーは肩をすくめた。

「皇都衛兵隊と連携をとり、捜査は継続中です。よろしくありますか?」

「よろしくないわけでもあるか? オスカー副長。衛兵隊諸君の精勤に期待していると伝えてくれ」

 皇都の治安が乱れていてよいことなど一つもないのだから。




 

 アルバン・アルニムが退職届を直属の上司へと提出したとき。ありがたいことに、上司からは引きとめがあった。同僚からもだ。しかし数日でカタのつく問題ではなく。一ヶ月の時間があっても解決するとは思えなかった。

 けれどまさか父に謀反を起こしてきますとも言えず。

「こっちは任せろ」

「妹さんは大変なことになったよな」

「おまえも、あんまり気に病むなよ」

 心からの励ましには曖昧に微笑むしかない。

 アルバンは職場には恵まれた。それはひとえに彼自身の勤務態度の結果でもあった。

 とりあえず三ヶ月間、と。上司の手によって休職の手続きがとられることになった。

 マルクス・ミュラー・マイヤー子爵との面談を終えた水曜日の夜には抱えている案件の書類をまとめておいた。逸る気持ちを押さえつけ、三日をかけて引継ぎを行った。いつもどおり、領地までの護衛を雇い入れた。顔なじみの冒険者たちだ。日曜の午前には皇都を発った。父の動向は執事に見張りを頼んだ。妹の婚約者となったマルクスへの協力もだ。ミュラー騎士団が動いた場合は抵抗しないよう言い含めてもおいた。あとはギュンターがセカンドハウスの使用人たちをうまく采配するだろう。皇都が落ち着き次第、アルバンの腹心である執事もまたアルニムに向かい、合流する予定だった。

 アルニム領へは馬車、運河水路に乗り、再び馬車での移動だ。マルクスのような軍馬による強行軍ではない。暗闇に馬を走らせるなど素人には自殺行為も同然である。

 人馬の休憩をはさみつつ、街道沿いの宿場に泊まりつつ、馬を交替させつつだろうが、アルニム伯爵邸ならば五日で到着できる。これでも早いほうだ。運河による移動で距離が稼げることが大きな要因だ。そのうえ、馬車の車輪が回っている間は平均時速にして15キロ近いスピードが出ている。主要街道は整備されているし、馬車のサスペンションは改良が重ねられている。

 ただアルバンの妹は騎馬に比較すればのろのろと動くしかない馬車での移動を好んではいない。領地への往復はいつも宿場ごと、間断なく借りた騎馬を利用していた。馬車に乗るくらいなら徒歩の方が早いと真顔で言っちゃうような子だ。ただ優しい子なので、馬を使い潰すような走り方はしていなかった。…そうだ。昔からそうだった。あぶみに足がとどかないような小さな頃から。

 アルバンが知るアーデルハイトは馬に乗って木の枝を振りまわすようなお転婆だった。リッターと名付けた犬を従え、領地の子どもたちを引き連れ、よく笑う子だった。

新年のパーティで見かけるようになった、静かな無表情はしていなかった。アルバンが知るアーデルハイトには生命力とも言える力があった。「この子が男だったなら」とアルバンの家庭教師にすら無念がらせた少女だ。身内の贔屓目というだけでなく、この子のためになにかをしたいと思わせるアーデルハイトの魅力を、父は喜ぶどころか暗く妬んでいた。領主である自身よりも母に尊敬の目を向ける屋敷の人間たちを嫌い、皇都からほとんど戻ってこなかった。送られてくる請求書を前に、母がついていたため息を覚えている。

 後悔はあった。学園に入学する前のアルバンは早く大人になることこそがアーデルハイトを守る手段だと信じていた。父によって、たったひとりの妹が生贄に捧げられたことを知ったときにはすべてが手遅れだった。

 キラキラと輝く水面、運河水路の先を指差し。どこまで行けるのかとたずねた幼い笑顔を思いだすたび、胸が痛んだ。

 アルバンが鳥籠だと考えていた王宮は、アーデルハイトの居場所はもっと醜悪で、行われたのは腐肉をあさるような人為だった。

 ……順調だった短い旅に異変が起こったのは四日目だ。領地に入った。馬車の揺れ具合から舗装の悪化を体感する。ガクンとスピードが落ちた。

 小さな村だ。食事処の二階に宿泊できる部屋が一つだけ。少し時間帯は早いが距離的にはちょうどよい。当然ながら雇い主であるアルバンが宿泊施設を利用し、護衛たちは野営を行うつもりだった。準備を行うつもりだった。前回もそうしたように。


 街道のど真ん中。立ち塞がるソレがいなければ。


 四つ足。大きな胴体。短い首。一対の角。濃い茶の毛並み。唐突に現れた雄牛おうしだ。

 畜産を主産業とするアルニム領では珍しい光景ではない。それが、草をはむ、一般的な大きさの畜牛ちくぎゅうであるならば。野性のオーロックスもかくやと言わんばかりの鼻息の荒さでなければ。

 そいつはアルバンが知るアングラー種の雄牛の平均から二周りも大きく、三倍は大きな角を持っていた。


 魔獣だ。


 カッ!カッ!

 蹄に地面をかき。

 ブフォッ!

 大きくいななく。


「ぉ、おい」

「でかいぞ!」

「逃げろ!」


 突っ込んでくる巨体。馬車の外の冒険者たちからの警告に、向かい合って座っていた剣士がアルバンを抱えるように外へ飛び出した。英断だった。馬車と馬車を牽く馬がもつれあって吹っ飛ぶ。雄牛の突撃を避けた護衛たちを責める気にもなれない。

 とてもじゃないが正面きって戦える相手ではない。

 いちばん大きな標的。馬車を相手にしている間に逃げだした。

 馴染みの冒険者グループは依頼主を見捨ているような性分はしていなかった。剣士とアルバンをそれぞれが騎乗する馬に引き上げ、駈ける。その間にも、どこから湧いて出でもしたのか。魔獣は遭遇した雄牛だけではなかった。豚。猪。空を飛ぶ鶏のけづめに馬が目をやられた。

「領民たちは!?」

「わかりません!」

「今はそれどころじゃ…っ」

 視界の端にとまったのはアルニム騎士団の青い隊服だ。腕をふった、見慣れたそれに誘導される。

 比較的大きな家屋。粗末な机と椅子、どこかの家屋から引っぺがされたのだろう扉で補強された、防衛拠点としての村長の家へ。

「こちらへ!」

 勢い良くドアを開けて駆けこんだ。

 とたん。詰め寄られた。アルバンが次期領主の肩書きを持っていなければ襟首ぐらいはつかまれていただろう。その理性すらもいつまで持つか。

 薄暗くなり始めた室内の全員がギラギラと目を光らせていた。 

「令嬢は? 妹君は!? ご一緒ではないのですか!?」

「……僕ひとりだ。なにがあった?」

「なにが、ですって!?」

 騎士団服をまとった若い男は話にならないと言わんばかり激しく頭をふった。

「見たでしょう! スタンピートですよ! しかも大型までいる!」

 次期領主に向かって怒鳴る騎士を制したのは騎士団長だ。

魔獣大発生スタンピートに該当するかどうかはまだわかりません。正確な規模は不明です。ですが有翼獅子グリフォンの目視情報もあがっています。軽視すべからざる事態であることは間違いありません」

 騎士団長は母が任命した男だ。学園に入学するまでのアルバンは彼から剣を学んでいた。実践的な訓練があったからこそ、アルバンは徴兵の二年間を前線に過ごすことができたと考えている。

 胸にわきあがった懐かしさは、けれど男が吐いた次の台詞にくしゃくしゃと丸まった。

「領主様からは魔獣制圧のため、令嬢を応援に送ると連絡をいただいております」

「アデルは皇都だ。あの子は国の軍人だ。アルニム騎士団に属しているわけじゃない。今までがおかしかったんだ。あの子ひとりにすべてを背負わせるのは間違っている」

「今さらそんな…っ」

 若い騎士が、重ねて声を荒げる。

「落ち着いてくれ。状況はそんなに悪いのか」

「人死にがでていないのが奇跡です。戦うよりも領民の避難を優先したためですが…、そろそろ死人がでていてもおかしくありません」

「騎士団長が言う台詞じゃないだろう」

「否定はしません。令嬢ひとりぶんの働きもできないと罵倒され、予算も人員も削られつづけた騎士団の団長ですがね」

「……父か」

「他に誰がいらっしゃると?」

 言葉をなくすとはこのことだ。あまりにも短絡的で、だからこそ根深い問題にこうも早く直面するとは。

「傭兵団は? 連携して討伐を行うことは可能か?」

「真っ先に逃げだしています。やつら、農耕馬まで奪っていきました。村には老人や病人、怪我人も残っています。足がなくては彼らは動かせません」

「あの火事場泥棒どもめ…!」

 憎々しげにうめいたのは村人だった。棒切れを持っていて…そんな、武器ともいえない武器で戦っていたのだろう。粗末な服は薄汚れ、肘には血が滲んでいた。

「待、ってくれ。軽騎兵で構成された騎士団が魔獣の監視、偵察を行い、情報を共有した傭兵団と協調しながら魔獣の殲滅にあたる手筈じゃなかったのか?」

「…ええ。奥様がいらっしゃった頃はそうでしたね」

 苦い笑みを浮かべた騎士団長の諦念に、怒りもあらわ、若い騎士が続く。

「若君。そんな火力を持った剣士や魔道士たちはとっくにいません。名の知れた連中を雇い続けるにはカネがかかるんです」

「だ、だが…そんなことをすれば、魔獣に対抗できない」

「今がまさにそうです」

 混乱するアルバンの後ろで。見えない場所で。誰かがぼそりと呟いた。


 タダでこきつかえる娘がいるのに、あの領主がそんな無駄金を払うわけがない。

 

 ふりかえる。見返す誰もが冷たく、さめた目付きをしていた。

 代表し、役場の役職持ちなのだろう男がアルバンに問う。責任を迫る。


「それで、令嬢はいつこちらに?」



いいねやブックマークなど、評価や反応が本当に嬉しいです。書く気力になります。もっとください(真顔)。こんなにたくさんの小説がアップされる中で読んでくださり、ありがとうございます。

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