悪役令嬢不在の作戦会議【3】
「あっ、あー…。実家です。書類の作成者は侯爵家で契約してる公証人でした。たぶんやりとりは互いの家の弁護士を通して…ああ、そうか、それで…、『性格の不一致』が解消理由になったんですね…」
「無難だな」
協議離婚では『価値観の相違』と並び多く挙げられる理由だった。婚約者に対してあまりにも不義理が過ぎるだとか、心変わりをしただとか。そういう互いの非を突く喧々囂々としたやり取りがあったのかどうかは知らないし興味もないが、両家の落としどころを探る作業を想像すれば同情もする。なにしろ目の前にいる当事者の片割れに、当事者意識があまりにも薄い。
帰省を気が重いなんぞと言っているあたり、まだまだ認識が甘いのではないだろうか。
「婚約が解消される原因が双方にあるなら相殺だ。実質的な慰謝料の支払いも発生しないからな。ブレン少尉。貴様、家からの手紙も無視していたんじゃないか?」
「えっ、…まぁ、はい。最後の方はもう、いいや知るかって投げやりになっちゃって…」
「おっまえなぁ…」
嫁いだとはいえ、二人の娘を持つオスカーが眉間に深いシワを刻む。
「手放したくないもんならもっと大事にしとけ。面倒とか言ってんな。恋人でも婚約者でもなくなっちまったら、他の男といちゃいちゃおっぱじめられても文句も言えなくなるんだぞ。これから先の、カノジョの人生にかかわる権利ぜんぶを失くしちまうってことだぞ?」
まったくだ。隊長を手放したフランツ王子にも聞かせてやりたい。
気分よく滑りが良くなった唇に助言を加えてやる。
「それに、士業連中からの呼び出しを無視するのは致命的な愚行だぞ? 戦わずに武器を手放して降参した状態だ。無条件降伏だな。しかも撃たれない保証はない。せめて連絡はいれろ。魔獣のスタンピートへ対峙中とでも返信しておけば時間は稼げる」
「次からはそうします。えっと、じゃあアルニム伯爵は? これから婚約破棄の手続きに入るってことですか?」
「どうでしょうな…。このまま日付をまたぎ、主役が軒並み不在のパーティに居座るようなら、破棄の撤回に動くやもしれません」
フランツ王子を殴って足蹴に会場を出て行けとまでは言わないが、ヘラヘラと笑ってあの場に留まる厚顔ぶりはもはや尊敬に値する。
(いや、)
外交官としては有能なのか?
あるいは婚約によってアルニム伯爵家にもたらされた王家からの援助はそれほど手放しがたいものなのか?
カップを弄るオスカーがため息をつく。
「……昔なぁ、隊長といっしょに手紙を書いたことがあるんだわ。俺が娘に絵葉書作ってるところを見てな、自分も書くつってな? 几帳面な、キレーな字だったぜ。十四の頃だったか? 万年筆の使い方がまた様になっててなぁ。背筋を伸ばしてスラスラ書くんだ。頭ぁ撫でてやりたくなったな」
思い出す。
靴紐を結ぶ当時の彼女の背中を見て密かに驚いたことを。あまりの小ささに。反面、背負ったものの大きさに。
「父親宛てと、王宮宛てだ。婚約者殿には絵葉書でな。色鉛筆でこう、ピンクの花を描いて…。ふ、ふはっ、隊長、絵心はないな」
元婚約者だろ?とは内心に訂正しながら片頬に笑い返してやる。
「ああ。手遊びの、犬の絵は見たことがある。犬か、猫か、馬だったのかはわからんが」
「あれは魔獣だったのでは?」
「ずいぶんと前衛的な画風だったんですね」
フリードリヒはどうやら本気でそう思っていたようだ。ブレンは感心めかした相槌をうった。
「花は、まぁ、花に見えなくもなかったな。南の戦線だった。居住地も比較的近くて、日用品も手に入れやすかった。副長に色鉛筆を借りて、道端の花をスケッチしていた」
しゃがんだ後ろ頭に、一つくくりにした黒髪が揺れていた。邪魔でしかない長髪を維持するのは王子の婚約者としての務めを果たすためだと聞いた。年に一度の王族とのご挨拶のとき、髪を結い上げる必要があるからと、そんな理由で。
当時のマルクスは近くの町まで足を伸ばし、自分自身には必要もない12色の色鉛筆セットを購入した。6色や8色では駄目だった。マルクスが欲しかった、あげたかった色鉛筆は12色のセットにしか入っていなかったからだ。
「手紙はな、それぞれ二回出したぜ。返信は、どちらからもこなかった」
知っている。覚えているとも。ピンクの色で描かれた花は年相応の絵だった。
遠くて近いテーブルで広がった酔っ払いの爆笑を背に、通夜会場のような沈黙が落ちた。
酒場にあるまじき、しんみりとした空気がマルクスたちに漂った。
一時期の隊長は手紙の束を持った俺の手元を気にしていた。珍しく浮き足立つような、上ずった調子だった。それでも早くしろと催促するような真似はしなかった。家族からの、恋人からの手紙を待つのは誰もが同じだ。自分の分を優先させろと迫ることもないが、ちらちらと寄越される視線は微笑ましかった。そう感じられたのは、ひと月余りだ。
そこから先はただ居心地の悪さがあった。
南の魔獣討伐から帰還し休暇と再編に入る前に。12色の色鉛筆はオスカーにくれてやった。新品だ。ただ、「やる」と素っ気なく手渡した。躊躇する様子に、娘への土産にすればいいと言えば苦笑まじり「ありがとよ」と受け取られた。
マルクスの記憶にある限り、アーデルハイトの名前が宛先となった郵便物を見たことはない。……いや、一度だけあったか。三ヶ月前。年を越える前。町へ戻るたび、彼女が送金小切手を送っていた乳母の名前で、その家族から届いた訃報だった。それきりだ。6年間で、それだけ。
二番目の娘よりも幼いアーデルハイトの生育環境について、オスカーは男親のように気にかけていた。だから忌々しそうに吐き捨てるのだ。
「あの伯爵に父親としての役割を期待するのは危険だろうよ」
「むしろ敵にまわると考えていた方が対処しやすい」
「こうなってくると、婚約破棄の申し出が隊長が18歳を迎えたあとだったのは僥倖ですな。成人してしまえば親権者が持つ養育および監護義務からは解放されます」
「ああ。父親が出てこずとも、軍令部の法務官で事足りる」
「婚約関連の手続きはだいぶ畑違いじゃねぇか?」
「法務部門の伝手があるだろ。あれだけの過失があるんだ。どうとでもなる」
「アルニム伯爵は事実確認にも、意思のすりあわせにすら追ってこなかったのですな?」
フリードリヒの確認に、ブレンが小首をかしげた。
「即時、全力で引きとめにかかるべき案件では?」
「まともな知性があるならな」
俺ならそうする。膝に縋りついて、あの馬鹿王子は捨ててもいいから伯爵領に帰って来てくれと頭を下げる。情緒の問題ではない。契約の不履行に対する懸念でもない。
娘がいなければ、アルニム伯爵領における領地運営自体がもはや覚束ないからだ。
「隊長が王宮に召し上げられたのは10歳です。入隊が12歳ですから、父親側の時間はそこで停止しているのかもしれません。容姿自体、私が初めてお会いしたときからさほど変わっておりませんし…。小娘一人の意思などどうとでもなると驕っているのかもしれませんな」
「かもな」
腹立たしいが、おそらくは事実だろう。ダンスホールでの父娘のやり取りを見れば想像はつく。あの男は、娘が自分に逆らうなんて想像もしていないに違いない。
さらに言うなら不用意に肩をつかんだ幼げな容貌の娘そのひとが己の首を一瞬で斬りおとせる危険な生物だと認識していないのだろう。素手にパンツ一枚の装備で雪豹の檻に入ろうとしているにも等しい危機感のなさには恐れ入る。檻のなかの猛獣に共存の意思があることを天使に祈るべき場面だろうに。
彼ら親子の表情に肉親の情は見えなかった。隊長は規律と儀礼を守っただけだ。『どうとでもなる』のはじつのところお互い様なのだ。なにしろアーデルハイトはすでにアルニム伯爵家の庇護を必要としていない。そんな時期はとうに過ぎ去った。もはや頭を撫でる親の手を待ち望む子どもではない。当人だって言っていたではないか。ここに立つのは帝国陸軍少佐としてだと…。
マルクスの思考を遮ったのはブレンの爆弾発言だった。
「あの、いっそのこと第四王子が隊長を娶るって言うのはどうです?」
「隊長は隊長です。私の女王様ですので。跪くならともかく、娶るのはいささか無理があります」
ボール球を力技、場外ホームランに撃ち返す性癖をしらっと吐き出したフリードリヒ第四王子に、与えられた情報を噛み砕けなかったのだろうブレンが動きを止めた。
オスカーが額を押さえる。こめかみを引きつらせる。
「……それ、外では言うなよ?」
「頭痛が痛いというお顔ですな。気をつけます。副長、お大事に」
ため息を一つつきコーヒーの残りをあおったオスカーがブレンに視線を寄越す。
「まぁソッチは…隊長の嫁入り先に問題はねぇよ…。すぐカタがつく。心配すんな。な?」
最後の「な?」に同意を求められた俺が頷くのは当然だった。底の現れたコーヒーカップをソーサーに戻す。
「俺は、婚約を解消する旨の契約書の作成には一週間はかかると踏んでいる」
「妥当でしょう。事前の調整がなされていたとは考えづらい以上、王宮側が状況を把握整理するだけでもその程度の時間がかかるのでは?」
「そこは軍令部の尻を叩く。タリスマンのマルクス・ミュラーとして今夜の弾劾に対する抗議文を提出する」
「待て待て。抗議は文字面が強すぎる。上書の態にした方がよくねぇか? その方が上も受け取りやすいだろ」
「上書はナンバリングされる。回答が必要になる。どう対応したかを残す必要が出てくる。どうせ握りつぶされるんだ。軍功に粋がった下士官が文句をつけた形にしておけばいい。フランツ王子が隊長の非としてあげつらったのは本来軍法会議で取り扱われる罪状だ。印象操作を狙ったんだろうが、婚約破棄の理由とすべきではなかったな。陸軍どころか国防軍最高司令部でも看過はできない。人事部、総務部あたりは優先的に議題のテーブルに乗せるだろう」
いや、乗せさせる。
法務部は呆れるかもしれんが、放置できる事案ではない。
「でも握りつぶされるのは前提なんですねぇ」
ブレンのぼやきには肩をすくめる。
「情報局が担当することになるかもしれんな」
色々あるんだ、社会人には。
そして学園の学生とは違い、軍社会は許容できる範囲とできない範囲の線引きが明確だ。
「明日には緘口令も出されるでしょう。実効がどこまでかは怪しいですが」
軍人に対しては命令の一言に効力を発揮できても、今夜のパーティ会場にはその家族と、あたりまえだが従業員たちがいた。俺たちには好都合だ。囀り、拡散を行うお喋り雀どもの確保には困らない。更衣室、厨房ではひそひそと仲間内に。家に帰れば家族に向けて、『ここだけの話し』をさぞや好き勝手と語ってくれるに違いない。
都合よく『なかったこと』になぞ、けしてさせるものか。
「同時進行で情報収集を進める。オスカー副長は軍令部を。フリードリヒ小隊長は王宮サイドを。ブレン少尉は王子たちが通っている王立学園を探ってくれ」
三人が三様にうなずく。
「あっちのテーブルで酔いつぶれてる連中の配置は、オスカー、任せた。俺は明日の朝一に陸軍総司令部に顔を出す」
「やーれやれ。久しぶりの休暇だと思ったんだがなぁ」
「我々には緘口令だけではなく、待機令が出るかもしれませんなぁ」
「ああ。モーリッツ、ペーター、ミヒャエルの三人には軍令部からの呼び出し以外は断っていいと命じてある。貴族連中の横槍が入りそうならおまえかオスカー副長に指示を仰ぐよう言ってある。そちらも任せた」
「それでミュラー副官は博物館デートですか」
不平と呼べるほどのものではないが、ブレンが唇をとがらせる。おい。おまえ、いくつだ。第五王子と同じ18歳だ。だからこそ王立学園の内部を侯爵家の伝手を使って調べろとの面倒ごとを命じられているのだから、拗ねたくなる気持ちはわからんでもない。
しかも仕事を割り振った上司が呑気にデートとくれば、まぁ…。婚約破棄というショックを受けた令嬢の気晴らし相手と認識していても面白くはないだろう。
「俺は夜には首都を発つ。いちど実家に戻ってくる。馬を乗り継げは8日で戻れるはずだ」
「うっぉ、飛ばすな。……中休みは入れろよ。ムリして倒れてくれるなよ?」
「ここで無理を通せず、この先人生のどこで無茶をするんだ?」
なにを言っているのか、心底わからない。
「退くな怯むなと己を揮い立たせる場面だろ? おまえは戦友として俺に奮起を迫る局面だろう?」
例えば。討伐に向かった雷を呼ぶ大型魔獣が腹をだして眠りについている。あるいは不意の遭遇戦に足を引きずる銀狼が現れたとしよう。
あまりの幸運に罠を疑う?
様子を観察し、安全策に迂回を、撤退を選択する?
(馬鹿な)
高嶺の花が目の前、ゆらゆらと揺れている。
マルクスの手が届く距離だ。
強い風雨に晒されながら、折れず、曲がらず、そこに在る。
手を伸ばさないという選択肢はない。
「大尉、おまえさん、じつはめちゃくちゃ舞いあがってんな?」
「悪いお顔ですなぁ」
「だからどうした」
自分で自分は見えない。だがきっと、左右に座ったオスカーやフリードリヒと同じ、悪辣な表情なのだろう。怖いもの知らずの若人、ブレン少尉すらしょっぱいものを飲みこんだ表情に引いているくらいだ。
椅子を引いて立ち上がる。カトラリー横の魔道具をつかんでポケットへと仕舞う。
ブレンは慌ててコーヒーカップを傾けた。
隣のテーブルではザルを通り越してワクのウワバミが一人エールを傾けていた。痩せの大食い、スシュタイン・シュミット中尉だ。他の三人はすっかり酔いつぶれてテーブルに突っ伏している。
「終わりましたか」
「ああ」
「准尉。少尉。先輩方。起きてください。寝ちゃだめですよ」
「立てますかな」
声をかけあいながら、ガタガタと椅子と机を鳴らして立ち上がる。オスカーは会計へと向かった。全員のコートを回収するシュタインは顔を向けずに呟く。
「まぁ、せいぜい慰謝料をぶんどってやればいいでしょう。いくらだろうが、僕らの隊長の価値にはとうてい足りませんけどね」
「民間の相場は50万から200万てところだ。たしかに足りないな。だがいいこともある」
「なんです?」
「配偶者や婚約者の不貞によって発生した婚約破棄の慰謝料は非課税だ。心身に加えられた損害に対して支払われる金銭だからな。しかも相手は王族だ。分割払いはありえない。一括払いに縁が切れる」
シュタインが眉をしかめた。苦労して書き上げた報告書に飛んだインクの染みを見るような半眼をよこす。
「あなた本当に気持ち悪いですよね」
「なにがだ」
「こっそりネチネチ、何を調べていたのやら」
「やかましい」
「そういうところです。……せめて否定はしてください」
鼻を鳴らし、酔い潰れた部下に肩を貸した。