アンノウン・マザーグース【4】
ヒット、ヒット、スタンド、スタンド。
勝負の数をこなすにつれ、プレイヤー前に積まれたチップに差が出始める。
俺はチップを増やした。対して、アルニム伯の手持ちは減らしてはいないが増えてもいない。
アーデルハイトの手持ちが大幅に増えているのは、サイドベットを当てたからだ。
ブラックジャックの基本配当は2倍だ。幸運にも最初から21の手札がそろうナチュラル・ブラックジャックが舞いこんでも2.5倍である。
しかし最初にプレイヤーの手元に配られる2枚のカード、あるいはディーラーの表向きカードを加えた3枚の数字や絵柄、組み合わせを予想して賭けるサイドベットの配当は最大賭け金額の250倍の配当が得られることもある。何故か。
当たりにくいからだ。ハイリスク・ハイリターンであるからだ。的中率が低いから、配当が高い。天秤は釣りあっている。そして間違っても初心者向けではない。…はずなのだが?
サイドベッドにパーフェクトペアと呼ばれるのは、プレイヤーへ配られる2枚のカードの数字と絵柄が同じ場合だ。数字と絵柄の色だけが同じカラーペア、数字だけが同じであればよいミックスペアよりも、当然ながら出現率は低い。配当はなんと30倍である。
アーデルハイトはスペードのAにパーフェクトペアを成立させた。
1枚のピンクチップはあっという間に黒チップ3枚へと変身を遂げる。さらにAの2枚はスプリットした上での勝負。双方の手に勝利という快進撃。
250ライヒマルクで交換できる緑チップでちまちまと遊んでいたはずの娘の博打ぶりに目を剥いたのはアルニム伯だ。
そこだけは同意しよう。
(何しているんです、隊長)
いや、…いや?
言うまでもないな。
カジノにギャンブルを楽しんでいるのだ。
とても、正しい。
背後からは押し殺せなかったギャラリーたちの歓声が聞こえる。当てたところを初めて見た、と興奮気味だ。
(そうだろうな)
確率を計算しかけて、やめる。そんな真似をせずとも、ギャラリーの反応、30倍の配当がすべてを物語っている。
せっかくカジノに足を運んだのだ。ルールを覚えたのだ。サイドベットだって一度は冒険してみたいだろう。
負けた時にも賭け金の半分が返ってくる保険、損失を抑えるためのインシュアランスの手法を試行するよりは、積極果敢な戦法を試してみたいと考えるのは自然なことだ。と言うよりも通常のインシュアランスは確率的に見ても損だ。負けたあとに保険をかけておけばよかったと後悔することは多々あるだろうけれども。
彼女の表情はあまり変わっていない。だが手探りの感触を楽しんでいるのはなんとなくわかる。
(…たしかに)
俺たちはディーラーとの勝負には負けてもいい。アルニム伯との勝負に勝てばいいだけだ。
俺の視線に気づいたアーデルハイトが振りむく。援護射撃への感謝をこめて笑いかければ笑い返される。
金を稼ぐことが目的ならば、アーデルハイトはここで席を立ってもいい。ブラックジャックのテーブルは好きなときに腰かけて好きなときに席を立つことができる。1度きりの勝負に勝って、そのまま勝ち逃げすることだって可能なのだ。
だが、しない。席に留まっている。
父親との、アルニム伯との勝負のためだ。
いつ、どこで、誰が、なにを、どうする。
それを、招待状には明記した。大事なことだからだ。
今夜。クラブ・バーデンで。我々と。ブラックジャックをプレイしましょう、と。
お誘いをかけた。
ディーラーのシャッフルから始まる2回の勝負で。オレンジチップ1枚分の賭け金をどこまで増やせるか。
そういう勝負だ。
いつからいつまで、という線引きを設けておかなければ「まだ終わっていない」と駄々をこねられる可能性もあった。
夜が明けるまで。賭け金が尽きるまでなど、とても付き合っていられない。どんな人間でも起床後12時間から13時間で作業効率が落ち始める。15時間も経てば頭は酒を飲んだ状態とほぼ変わらない。集中力のみならず、思考能力、判断力を燃えるゴミとして処分し始める段階である。体力や根性の問題ではない。しかし万全の体調で挑みたいというこちらの都合など、アルコールを片手、オールで賭け事を楽しんでいる伯爵には理解しがたい理屈に違いない。
時間、および金額について。強制的な区切りは必要だった。
オレンジチップは遊ぶカネとしては高額だが、アルニム領の規模からして散財できない額ではない。このあたりなら乗ってくるだろうと踏んだ。第五王子から見放された現状。財布の紐を締めて生活のダウンサイジングを行わなければならないという危機感はあるだろうが…。なにしろ今までの豪遊っぷりに金銭感覚が狂っている。
それに、オレンジチップとてアルニム伯爵領の魔獣平定のために本腰をいれるとなれば到底足りない。となれば、娘を連れ戻すためにテーブルへと着くだろう。わかりやすい解決策がそこにいるのだ。戦場に、官舎に、王宮に、手の届かなかった便利な道具が姿を見せたのだから。
軍事力の維持はとにかくカネがかかる。生産性は皆無、命すらも消費するだけの集団である。魔獣の残骸を売り飛ばしたところで、よほどの貴重種や安定した供給が見込めない限りはたいした収入にはならない。輸送のコストも馬鹿にならない。商売を始めるなら、利益を生み出す体系だったシステムの構築が必要だ。が。
アルニム領ではそういった根本的な改革を試みた形跡がない。
アルニム伯爵夫人が亡くなって9年。よくもまぁここまで持ったものだが、夫人が雇い、ともに領地運営を担った官吏たちはここ数年で次々と辞表をだして数を減らしている。メイドから始まって、公認会計士の入れ替わりも激しい。ひとが居つかなくなっているのだ。
アーデルハイトと言うカンフル剤も、根腐れの原因を取り除かない限りそろそろ限界だ。
「寒くないですか?」
隣に座ったアーデルハイトの、むきだしになった肩へと手をのばす。バストしたアルニム伯にはわざと目を向けずに問う。
「ありがとうございます。暑いくらいです」
やさしく笑いあうのは、仲のよさを周囲に見せつけるためでもある。
新たに現れるであろう、求婚者どもへの牽制でもある。若い連中がアーデルハイトの容姿に目を輝かせているのは不快だが、アーデルハイトの手元に積み重なったチップに欲望丸出しの視線を注いでいるのはなおさら不愉快だった。
(甲斐性もない連中が)
ちらっと後ろのギャラリーを振りかえり、彼女のチップを熱っぽく見つめる若い男に対して鼻に嗤ってやる。バツ悪げ、視線を逸らす程度の羞恥心が残っているようで結構だ。
子爵、男爵などの下位貴族からの求婚書がアルニム伯爵のもとへ、ぽつぽつ届きはじめているとのリークはギュンターより受け取っている。おそらく高位の家格持ちからの依頼を受けた探偵気取りからの接触は、メイドたちにあったそうだ。あくまでも噂話としての態を成しながら、第五王子との婚約破棄の顛末を聞きだそうと仕掛けてきているそうだ。
義兄となるアルバンの意を受けた執事はまったくもって協力的だった。幼い頃から見守ったお嬢様に心底惚れ抜いている俺に好意的だった。
テーブルへと向きなおる。
アルニム伯はおそらく自分の手を21に近付けることに固執している。そういうプレイスタイルだ。悪いとは言わないが、あまり意味がない。だからバストが多い。だから負ける。
プレイヤーとディーラーの双方がバストすれば、それはプレイヤー側の敗北となる。
何故ならディーラーはプレイヤーがすべてのアクションを終えてから、伏せていたカードを開く。17を超えるまではカードを引き続ける─── その前に。バストしたプレイヤーの前から賭け金を回収してしまうからだ。
数字の引き分けはあっても、22以上のバストに引き分けはないのである。
ブラックジャックにおいて、たいていのルールはプレイヤー側にとって有利である。たった一つ、不利なルールがこれだ。ブラックジャックというゲームがカジノで成立し、収入源とできる理由だ。
プレイヤーとディーラーの双方がバストすれば、それは無条件でカジノ側の勝利となるのだ。
時計回り、一人ずつ、ヒットとステイを始めとしたアクションを終え、ディーラーとの勝負を終えてゆく。
配当、そしてカードが回収、される前に。
「お客様?」
ディーラーからの声がかかったのは、右端に座った男に対してだ。びくり。わかりやすく肩を震わせた男が、カードから手を離す。
「カードに傷をつけませんよう」
「…あぁ、爪が引っかかってしまって、」
ベスト姿のディラーが眉をしかめるが、言い訳を口にしたプレイヤーに退席を求めるほどの確証もないのだろう。男が、ゲームがスタートしてこちら、指になにかを数える様子を見せたり、時折なにかを呟き、記憶しようとする姿を見せてはいても。わかりやすくメモを取っているわけではない。怪しんでいても、カードカウンティングの確証が得られているわけではない。
なにしろ。
右端の男。
ミュラーの騎士に。
カウンティングの素振りだけで良いと指示したのは他ならぬマルクスなのだ。
『寒くないですか?』
あらかじめ定めておいた台詞に、カードを損なうよう合図を送ったのも、また。
「カードを取り替えます」
「ああ。規則どおりに頼むよ」
ブルクハルトが鷹揚にうなずく。
疑惑は置いても、傷のついたカードをそのまま使い続けるわけにはいかない。目印となってしまう。ディーラーの対応は正当である。
「っおい、待て。勝負はどうなる」
カジノディーラーが答える。
「申し訳ありません。シャッフル後に再開いたします」
客が勝負を望む限り、カジノ側は永遠にカードを繰り続けなければならない。
「違う。私たちの勝負のことだ」
「1ラウンドが終了しただけですよ。我々の勝負はシャッフル後に。2ラウンド目を始めましょう。……ああ、君、彼女に冷たいアップルジュースを頼む」
通りがかった制服のウェイターを手を上げて呼び止め、ソフトドリンクを頼む。カラになったグラスが乗ったトレイを手に、ウェイターが軽くうなずく。バーへと身を翻す。
その間も、勝負の機会が減ったことにアルニム伯は憤っている。
「まだ半分以上残っていただろう」
「それでは無理を承知で傷のついたカードでゲームを再開させてくださいと頼んでみますか?」
その行為を、ひとはクレーマーと呼ぶのだ。
俺が有利な戦況で1ラウンドが突然切り上げられたことは伯爵の焦りを煽っている。挽回のチャンスが潰されたと感じているのだ。
もちろん延長戦などない。交渉は無駄だと、切り捨てる。
「シャッフル後の2回勝負。ルールはポケットにしまった娘からの手紙に読み返してみてはいかがです?」
シューケースのカットカードに辿り着くまでとはどこにも書いていない。
俺やアーデルハイトを飛び越え、右端の男をアルニム伯が睨みつける。さすがに居心地は悪そうだが、声にだして退席を求められたわけでもない。背筋を伸ばして席に着いている男は、麦わら色の髪の毛に、青い目をしている。
名前はまだ聞いていない。チームプレイを疑われるとボロが出やすいので、とシュタインに釘をさされたため、互い、自己紹介すら交わしていない。男爵位持ちとのみ聞いている。演技はあまり上手くないが、ミュラー辺境領の騎士だけあって肝は据わっている。
半分が残っていたシューケースのカードおよびディスカードラックのカードが回収される。
規定通り、新しいカードの封が切られる。ジョーカーとエキストラジョーカーが取り除かれる。8箱分のシャッフルが開始。
シャッフルの技法はディーラーの腕の魅せどころでもある。物珍しさなど失って久しいアルニム伯は興味なさげだが、アーデルハイトはきらきらした眼にプロの動きを追っている。
そこへ。
「アーデルハイト。おまえが殿下のお心を惹きとめておけないからこんなことになるんだ」
反省しろ、と言わんばかり。明後日の叱責が父親より娘へと飛ぶ。間に入った俺が反論する。
「年に一度や二度会う程度の婚約者をどう引きとめろとアルニム伯爵は仰るのでしょう」
まさかあの泥棒猫のように身体を使って篭絡しろとでも?
「そんなに接触がなかったのかい?」
ブルクハルト様さえ、静かに驚かれている。
「ええ。軍務に、領地の魔獣退治にと。おかげさまで、アーデルハイト嬢の仕事はよりどりみどりでしたから」
おかげさま、とは娘を戦場に送り、魔獣退治に引き戻す日々を遅らせた父親に対する嫌味だが。同時に。
おかげさまで、あの王子とアーデルハイトは握手すらろくすっぽ交わさずに済んだわけだ。
「……その貴重な機会にも、ずけずけとした物言いの娘でしたので……」
俺には強く言えても、ブルクハルト様にはへりくだる。わかりやすい権威主義の男だ。
「言い切らねば、言葉は伝わりません。特に軍隊では、過誤が生まれないよう簡潔ではっきりとした物言いが好まれます。環境が今の彼女を作りました。生き残るための適応を迫りました。送りこんだ伯爵に責められる筋合いはないでしょう」
「男を立てることも知らん。しかも食事をとっていたと言うではないか」
「……食べますよ?」
ちょっと意味がわからず、思考が停止した返事をしてしまった。
納得顔にふりかえったアーデルハイトが口を開く。
「淑女は、あまり食べないものです」
「食べましょう。運動量が違います」
攻撃術式の起動をはじめ、乗馬、肉弾戦は小鳥のエサ程度の食事で賄える熱エネルギー量ではない。
……いや、そうじゃない。
「アルニム伯爵領では、まだそんな教育をしているのかい」
呆れ顔のブルクハルト様に指摘されるまでもなく。それはコルセットが貴婦人の嗜みとされた頃の美徳だ。
「ミュラー伯爵領では、アーデルハイト嬢、あなた専用のパティシエを雇用する予定で、人選を進めております」
一括りに製菓職人と言っても、細分化すれば様々な分野がある。できればフルーツを使ったケーキやタルトを得意とする職人が望ましい。
「素晴らしい福利厚生ですね。楽しみです」
「はい。南方では果物の種類も豊富です。ぜひ、期待していてください」
(福利厚生?)
言い回しは少々引っかかったが、手を胸にあてて胸を張る。
「…ミュラー伯爵領?」
怪訝そうなアルニム伯には誰も答えず。
「そうだね。僕の感想としては、マルクス大尉は頑張ってアルニム伯爵令嬢とお話しようねって応援したいかな」
どういう意味だ。
聞きかえす前に、ウェイターへと頼んだソフトドリンクが到着する。
「どうぞ。ご令嬢」
「ありがとうございます」
ウェイターが笑いかけたのは、アーデルハイトがカジノでは珍しい少女だったからだろう。かわいらしいお客様だ。しかし手首には神具での魔力封じ。ひそひそと囁かれている噂の悪役令嬢相手、年齢確認など余計なことはなにも聞かない。
ウェイターへのチップは、俺が彼のポケットにねじこんだ。俺が頼んだのだから当然である。
目礼に受け取ったアーデルハイトはグラスを傾けた。暑いほど、というアドリブは存外本気だったらしく、素直に喉を鳴らす。
一枚ではなく数枚の紙幣、気前の良いチップにウェイターがニヤリと笑う。
「幸運を祈ります」
「ありがとう」
言われるまでもない。
ここから、俺は勝ちにいくのだから。