誰がための牙と呼ぶのか【5】
ボウル部分の飲み口以外すべてにハンドカットによる飾りが施された硝子の器には余白がほとんどない。職人の手間と拘りをこれでもかと見せつけてくれるグラスだ。シャンパンクープとしても充分に役目を果たせるだろう。
オレンジの果肉、果汁に砂糖、香料、卵白などが加えられたシャーベットの役割は次のメインディッシュに備え口中をリセットすること。
楚々とした動きにスプーンを動かすアーデルハイトは無言だ。
口のなかに食べ物が入っている状態で話してはいけません、なんてフルコース料理に限った話ではない。どこのご家庭、集団でも教えるであろう基本的な食事のルールだ。
「ですから、こちらから無理を言って婚約者であるマイヤー子爵に足を運んでもらったのです」
王妃に向かって諫言するフェルディナント王子も若干の苛立ちを隠しきれていない。何度も何度も同じ話を繰りかえす上位者との交渉は精神を梳るものだ。ただでさえ義理の母親という難しい関係性、かつ帝国の王妃相手でもある。やかましいと一言に切り捨てることも、自身が席を立つことも、力尽くに押さえつけることもできないストレスは相当のものだろう。
「そうですな。そもそもアルニム伯爵令嬢はすでに成人しております。己のことは己で判断できる御年です」
己のことを己で判断できない息子と同一視するのはやめてさしあげろと第四王子、フリードリヒは突き放している。
「二人の婚約をなにより喜んでおったのは伯爵じゃ。アデルの父親なのじゃ。了承を得るのが筋であろう?」
(そりゃあ喜ぶだろうよ)
上昇志向の高い伯爵だ。
能力に見合わない野心をお持ちなのだから。
ただし得心はそこまでだ。
「承服いたしかねます」
登場すれば話がこじれて長引くだけだ。
「保護者とは保護を与えるもの。伯爵が令嬢に保護を与えていたとはとうてい感じられません」
スプーンを皿に置いて、ナプキンに口元を拭う。
「犬として上官に媚を売っていた貴官が言うならそうなのだろうな」
発言の内容はともかく。食事の所作はさすがに美しく、第五王子もスプーンをシャーベット用のスプーンを置く。アルニム伯爵を呼ぶという一点に関しては賛成のようだ。反対の声をあげようとはしない。味方を増やしたいという単純な打算もあるのだろう。婚約破棄の路線そのものは維持しつつ、慰謝料の減額交渉あたりを目論んでいるのかもしれない。
公式に、法をもって、この国の最高権力者を前に結んだ契約を覆す力が自分たちのなかに眠っていると無邪気にも信じられる親子の気持ちは俺にはわからない。
条件闘争かと身構えているこちらをよそに、具体的な、物質的な交渉のカードは未だきられていない。
もっとも、マルクスだってアーデルハイトの兄であるアルバン令息のカードをきるのはまだ早いと判断している。伏せている。彼らがアルニム『伯爵』に拘るならば、義兄の簒奪を手助けすればいい。…いや、いっそ主導すればよいと考えている。伯爵位を継いだ義兄を横に「アルニム伯爵をお連れしましたよ」と強弁すればいい。嘘や偽りは言っていない。
今テーブルに提示される計画書がないからと言って、相手が無策であると結論付けるのは早計だろう。
そういった、計算上の行動であれば耐えられる。慣れた思考回路、環境だ。生きるためには戦わなければならない。戦って勝ち取ったものは真実だ。第五王子が語ったという真実の愛もそうだろう。返せ、戻せと手を伸ばす者は剣をもって薙ぎ払おう。だが。
「アデル…」
優しさを装った白い手がアーデルハイトにしがみつこうとしている。
この期に及んで、まだ。少女の情に縋ろうとする女の姿に拳を握る。
王妃のシャーベットは融けかけていた。
そうまでして時間を稼ごうとしている。
相手が自分を気遣ってくれるのを待っている。
(虫酸が走る)
子ども好きだと?
ブルクハルトがよこした言葉が浮かぶ。閃く。─── これか。ブラートフィッシュ家の次男坊が言いたかったのは。彼女の婚約者候補としてあがった男が伝えたかったのは。これだったのか。
暴力ではない。脅迫でもない。取引すら成り立たない。愛をもって足枷をかける。
怒りに震えだしそうな手指を、よりきつく握りなおす。
名前を呼んで、褒めてやった。菓子を渡して、頭を撫でてやった。
たった、それだけで。
カーテンの陰に隠れて泣いていたような少女を死地へと送りだしたのか。
この世のすべてを怖がりながら。緊張に幼い身体を強張らせながら。貴女のために頑張りますとはにかんだ子どもの背を裂いて、バケモノの種を植えつけたのか。
ぐらりと頭がかしぐ。
(どうして)
どうしてそんな真似ができた。合理か。実利か。だが。だが…!
不意に。数年前に見た、しゃがんで靴紐を結ぶ彼女の小さな背中がフラッシュバックする。泥だらけだ。傷だらけだ。怪我だらけだ。なにもかも。なのにまだ引きとめるつもりか。努力を奪うつもりか。そうして未来までを潰すつもりなのか。
どこまで彼女を縛るつもりだ。蹂躙するつもりだ。
(ふざけるな)
腹に力をいれて両足をふんばる。ぐらつく頭を支える。違和感の正体がわかった。隊長は王子を見ていない。隊長が求めていたのは王妃だった。はじめから。少女が欲しかったのは婚約者ではなく母親だった。
「わかりました。他ならぬ王妃様の要望です。父からの許可を得てまいります」
ガタンッ。俺が座った椅子の足が音を鳴らした。
抗議の声をあげかけた。否定に言葉を差しはさもうとした。
「待、」
「書面にしてまいります」
「そうじゃ! そうじゃな! 伯爵ともよく話し合って、」
「血判でも、よろしいのでしょう?」
「…けっぱん…?」
アーデルハイトは笑っている。
「はい。王妃様」
マルクスが気づいたように。フリードリヒもまた、気づいた。
宣言を受けた当人。腰をあげて身を乗りだした王妃は気づいていない。
「血判、とは…?」
理解が追いついていない。
それは。とても。とても、危険な笑みだ。
無表情から目を細め、口角をあげる。柔靭で美しい野性の豹がヒトの形に笑えばきっとこうなる。優美でありながらむき出しの闘争本能。
マルクスら魔道士部隊にバレットの陣形を用意するよう命じ、有象無象の魔獣たちが待ち受ける激戦区へ突撃命令の号令をくだすときと同じ。荒れ狂う嵐を内包しながら、紅茶の瞳は微動だにしていない。
「帝国陸軍魔道士部隊への入隊にあたっての請文へ、請負契約書へ。私の署名は血判でした。けして違背しないことを誓いました。また、着用している軍用チョーカーの魔石には私自身の血が混じっております」
「っいや、伯爵令嬢! そこまでは!」
フェルディナントの声に小首をかしげる。動きに髪飾りが揺れる。
必要だと判断した。ならばアーデルハイトにとってそれは義務だ。
敵陣のただなかにあるゲート。無限に獣をうみだす本拠地を破壊しない限り地獄の釜は開きつづけ、魔獣は溢れつづける。どうすればよいのか、なんて幼児にだってわかる。蓋を閉じるのだ。ゲートを破壊する。ネバーエンディングの悪夢を終わらせるための行動を開始する。
─── なにもそこまで?
おまえが何を言っているんだ。非常時において判断の先送りは愚の骨頂。決断こそが指揮官の役割なのだから。
「問題ありません」
さらりと乾いたアーデルハイトの言葉は、なにか問題があるのかと問うたフランツへの意趣返しと受け取れなくもない。
「さっさと用意してくればいい」
舌打ちでもこぼしそうな第五王子は、投げやり、自身がゴーサインをだした行為がなにかを理解していない。いっそ幸せなことだ。
肩から力を抜いた俺もまた、追従する。
「そう、いたしましょう」
「ふ、っはは。ええ、我らが隊長殿の思うままに」
堪えきれなかったのだろう笑い声をこぼし、フリードリヒが追随する。
何かがおかしいが、何がおかしいのかわからない。そういう表情を浮かべた王妃がフェルディナント王子を見た。悲痛な面持ちの第二王子はこれから先に起こることがわかっている。予感している。だから言葉に制しようと試みる。
「無理を押しとおす必要はない。伯爵令嬢。伯爵が反対しようが抵抗しようが、フランツとの破談は成立した。我々王家は君の、……君たちの新たな婚約を祝福する」
そう告げて、俺と彼女を見た。答えたのはアーデルハイトだ。
「ありがとうございます。父にもそのように伝えます」
「血判は、やめて欲しい。帝国内に血を流して欲しくない」
暗喩や隠喩を用いての婉曲表現を投了し、絞りだされたフェルディナント王子の声は哀願めいている。
「鋭意努力いたします」
「そう、……そうじゃな? よろしく伝えてたもれ」
明後日に呑気な王妃の台詞へ、アーデルハイトが肯く。
フェルディナント王子が吐いた息は断末魔に近かった。
鼻に笑いかけて、すまし顔を装う。シャンパングラスの残りをあおり、テーブルへと戻す。足音を立てず近づいたウェイターが注いだのは赤ワインだった。メインディッシュにペアリングされたものだろう。
グラスの足を持った王妃が、白いテーブルクロスを背景にテイスティングを始めているシュールさときたら!
小さく円をまわすようにグラスを回したスワリング、一口を含んでの風味チェックを終えた主催者は満足そうだ。融けて崩れたシャーベットを残したまま、繊細で美しい硝子の器、ソルベの皿が下げられてゆく。
前線と銃後の意識の乖離、醜悪なまでの温度差に失笑がもれた。笑っている場合ではないとわかっている。今は目の前に集中すべきだと自身に言い聞かせる。
……隊長のことだ。己を売った父親相手とて、言葉を惜しみはしないだろう。会話への努力を払うだろう。言うまでもない。
だが最終的に。アルニム伯爵の同意は不要だ。なんなら意思すらもが無用だ。深々と頭を下げて、お父様どうかサインをお願いしますと彼女が懇願する必要はない。言われるまでもないことだ。
無理でも無茶でもない。白身魚の身をフィッシュナイフに切り分けたように押しとおす。真っ赤なワインの芳醇な香りよりも強く俺たちを酔わせるのは血の臭いだ。
右手があればいい。手首から先だけでもよい。
血判なのだから。血の流れる指先を押しつけるだけで事足りる。
(なんなら破談同意書代わり、指の一本でも贈りつけてやろうか)
贈り物の箱を開けた王妃は、王子は、悲鳴の一つもあげるだろうか。放りだすだろうか。くだらない妄想とわかっていても、想像に胸が躍った。さすが隊長だ。主導権を引き戻した。無数に広がった選択肢。保険をかけての、攻撃許可も取りつけ済みだ。素晴らしい。効果的な暴力の扱い方を心得ている。
初陣でもあるまいに、気恥ずかしいほど熱の篭もる息を吐く。
戦争を売った相手が誰なのか。答えは痛みと共に肺腑へと染み渡るだろう。
帝国陸軍魔道士部隊、部隊長。アーデルハイト・アルニム少佐。彼女の牙が魔獣にのみ向けられていた今の今までの僥倖を彼らは天に感謝すべきだ。
七品目は肉料理、アントレ。フルボディの赤ワインと共に。オーソドックスな牛肉のフィレ。シャトーブリアンのソテー。ようやく主役の登場だ。
復讐とはなんぞや?
敵を討つこと。仕返しをすること。報復の行為を指す。広辞苑に書かれた文字の羅列は抽象的だ。
憎い相手よりも幸せになることだと対象に背を向けて歩きだす人間がいるように。
憎む相手を直接的に、あるいは間接的に害し、地獄へ落とすことだと語る人間がいる。
無視し、恥をかかせ、打ち負かしたいと熱望する一方で、忘却こそが唯一の復讐だと物理的な距離をとる者もいる。
傾聴し、尊重しよう。その上で。マルクス・ミュラーは考える。
マルクスにとっての復讐とは相手が欲しいと願うものを奪ってやることだ。やれるところまで。己の腕が届く限りに奪いつくす。カネか、名誉か。命か、幸福か。なんだっていい。踏み躙るための労力を惜しむつもりはない。
(俺はしつこい男なんだ)
自覚はある。どれほど絶望的な戦況であっても、諦めることができない。彼女が居るから。アーデルハイトが思う誠実で、粘り強く、有能な己を捨てる勇気などない。だからこそ準備は調えた。けれど俺は、俺のためにしか頑張れない。アーデルハイトのためにとは言わない。義憤などと綺麗ごとをぬかすつもりはない。
尊敬、同情、憧憬。すべてを飲みこんで、俺は彼女の不幸に満たされた。仄暗い歓喜に包まれた。かわいそうに、打ち捨てられた彼女を喜んだのだ。これで彼女をさらいに行けると。
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