悪役令嬢は半鐘を鳴らす【1】
ミュラー辺境領からの復路は往路から一転、悪天候となった。
大粒の雨に加え、横殴りの強い風がマルクスと、マルクスが騎乗する馬へと吹きつける。耐水加工の外套に雨を弾き、前方に展開させた流線型の盾に風を流す。風雨相手、もちろん完全とはいかない。濡れた前髪は額に張りつき、外套の隙間から入りこんだ水滴に身体は重く、体温と体力を奪う。ただでさえ狭いゴーグル越しの視界は猛る雨に遮られる。
だが揺らがない。巨大な馬体は湯気を立ちのぼらせながら、ぬかるんだ街道を駈ける。そこが芝を敷いた競馬の走路、ターフコースであるかのように。暗闇すらも恐れずに。
魔獣との交配種だ。通常種であれば競走馬としてのレース生涯をかけて一生に一度成せるか否かの走り。
父の手配により、宿駅へあらかじめ手配されたミュラーの軍馬に乗り換えること二度目に雨を振り切る。
「メテオール」
最後に、俺の帰りを待っていた栗毛に跨った。
「頼むぞ」
残りわずかの距離まで帰って来た。見慣れた街道の景色。もう少しだと、芽生えた余裕に安堵が混じる。無理を押しつけた愛馬を労わり、そろそろスピードを落とすことを思案した。そうして緩んだ主人の手綱を自ら引いて、栗毛が加速する。
「っはは」
驚きに、歓声のような笑い声をあげてしまう。眠気や疲労はあったけれども、気分だけは爽快だった。
いい馬だ。賢く、情が深い。たまに、こちらが話しかける言葉を本当に理解しているのではないかと感じることすらある。
ここまで来て歩を緩めるとは何事かと叱責された気分だ。そういえばコイツの親もプライドの高いヤツだった。祖父はマーロウ・ミュラー以外を乗せない暴れ馬として有名だった。名馬はことごとく悍馬より生ずるとも言う。
(気遣い無用だと?)
喉に笑い、前傾姿勢をとる。
(まったくだ)
ここまで来ての労わり、油断、横着など、画龍点晴を欠くというもの。愛馬からの叱咤激励に手綱を握りしめる。
宣言どおりの8日目早朝。皇都の、開いたばかりの正門をくぐった。
軍厩舎に栗毛を預け、官舎に帰営し着替えを済ませる。まずは軍令部へ登営。陸軍魔道士部隊の待機所へ。執務室机に積まれているだろう書類を想像しながら入室する。
二十弱の机と椅子、壁沿いにはびっしりとファイルが詰め込まれた棚が並ぶ雑然とした室内に居たのはシュタイン中尉一人だけだ。ペンを持つ手をとめ、頭を上げる。
「戻った」
「おかえりなさい。早かったですね」
「ああ。親の七光りとはありがたいものだな」
宿駅という宿駅に、街道を守るミュラー騎士団の威光は放たれていた。最高の軍馬が用意され、手順を省き、すべてに最優先されながら戻って来たのだ。マルクスがやるべきことは駈けることだけ。早くてあたりまえだ。
「こちらはどうだ」
早暁とまでは言わないが、家庭のテーブルに朝食が並ぶ時間帯だ。なのに街中では、警ら隊の姿がやけに目についた。
「悪いニュースが二つあります」
「そこはいいニュースと悪いニュースじゃないのか?」
コートを脱いでハンガーにかける。
「ええ、残念ながら。最低と最悪です。どちらから聞きますか」
「最悪から頼む」
最悪とは文字通り、もっとも悪い状態であることを指す。
マルクスは食事中、嫌いな食べ物ほど先に口にする派だった。
定位置の事務椅子に腰をおろす。机には決裁待ちの書類とは別に、アイズオンリーの赤文字が躍る茶封筒が鎮座していた。手に取るよりも、シュタインが報告が早い。
「ブレン少尉が騎士団に拘束されました。営倉にて検束中ですので、迎えに行かなくてはなりません」
「どうしてそうなった」
営倉とは軍律違反などを犯した下士官を収容する兵営内の懲罰房だ。違反行為には遅刻や喧嘩も含まれる。窃盗や脱走、兵器の破損など重篤な瑕疵は憲兵に身柄が拘束され、軍法会議にかけられる。
「王立学園に幻獣種グリフォンが現出、居合わせたブレン少尉が応戦し、制圧しました。その際、皇都治安維持法違反である戦闘用の第一級魔石を秘密裏に所持、学園へと持込。魔石を使用した攻撃術式で校舎に火災を発生させたことが問題視されています。……まぁ、いつかはやると思っていました」
物憂げ、やや芝居がかった仕草にシュタインがゆるく頭をふる。
「小火だろうが大火だろうが、次にやったらタリスマンの全員で包囲撃滅戦を仕掛けると忠告しておいただろ。薄く剥いで魚のソテーにするからなって太い釘を刺しておいただろ? いくらブレンでもそこまで軽率じゃないだろう」
魔道士塔からの推薦状を片手、ぴかぴかの新任准尉としてやってきたブレン・ブラートフィッシュは初陣に森を焼いて自身が包囲されるという失態を犯している。
にも係わらず以後も地形も天候もおかまいなく、火炎系の術式ばかりを好む傾向が見られた。推薦状には50年に一度の逸材とあったが…、一人前なのは魔力素養と魔道に対する情熱だけだ。一撃必殺の大技を偏向するきらいもあった。対人戦闘は素人もよいところ。おそらく殴り合いの喧嘩ひとつしたことがない。質量による突貫に炎の壁を突き崩し、肉弾戦の距離に持ちこんでしまえばいい。俺たちから見れば陸揚げされた雑魚が一匹、ぴちぴちと跳ねているようなものだ。檻のごとく周りを囲んで追い詰めてなお、黒豹に手を伸ばす緊張感が必要な、たとえば隊長のような相手ではない。
高火力、広範囲術式の使い手と言うのは貴重だが、ブレン少尉は使いどころが難しい魔道士でもあった。
「被害状況は?」
「火災によって発生した煙によって目や喉をいためたと申告する者が数人います。グリフォンは校舎のなかから現れたとの証言もあり、煉瓦造りの壁や屋根が吹き飛んでいました。通風性は抜群ですよ。おかげで一酸化炭素中毒や窒息の症状は免れたんでしょう。割れたガラスで怪我をした者はいましたが、重傷者はなし。避難中、凍った校舎の廊下、校舎前の噴水跡に転んで軽傷を負った者たちも含め、神殿からは治癒師たちが派遣されています」
「なんだ、上出来じゃないか」
「結果オーライで押し通したいところです」
「街に警ら隊の制服が多いのはこのせいか」
「学園の事件もありますが、キメラの目撃情報が複数あがっています」
「キメラだと?」
キメラは幻獣種の現出に伴い現れる随獣だ。衛士のように幻獣を守るとされ、キマイラとも呼ぶ。クリスチャン・エラに最盛期を迎えたバイオテクノロジーが生み出した異質同体、合成の獣だとも言う。
「通報によれば、犬のような、猫のような、豚のような、鳥のような姿をしていて、蛇の尻尾が付いていたとも。混ざり合ってなにがなんだかわからない生き物だそうです。目が一つだった、手足が六本あったと言う者もいます。パン屋の横だとか、公園の植木の間だとか。本当にそこらの道端で目撃されているんですよ。こちらの姿を見れば逃げていくそうで、攻撃性は低いようです。小型で、今のところ特殊能力も見受けられませんが、斑のピンクや蛍光グリーンの体色は僕らの知る生態系からは明らかに外れています。魔獣ではなく随獣の可能性もあるため、魔道士部隊に対しても治安維持の協力要請がきました」
「まぁ、妥当か」
学生の通う王立学園から壁を吹飛ばして幻獣種が飛びだすわ、火事がおこるわ、騎士と衛兵隊の連中がどかどか走り回って騒いでいる。不安になっていたところに街中でのキメラ出現である。戦火からはもっとも遠かった王家のお膝元、皇都で突如身近になった物騒だ。続くのはあいまいな情報や憶測にもとずく流言飛語の類だろう。
大発生に成果をあげた魔道士部隊の制服を目抜き通りの街角に配置することで、うっすらと漂い始めた不穏を押さえ込みたいという意図は見える。
(たった数人でどこまでも効果があるかはわからんが…)
「第一小隊と第二小隊が交互に警備にあたり、今はオスカー副長が指揮をとっています」
狙いは理解できる。納得もしよう。超過任務ではないかという不満は飲みこむ。しかたがない。
見張りの交代時間、硬い寝床とはいえ暖かい眠りにようやく飛びこめると安堵した瞬間に「こんばんは」してくるのが魔獣という災厄である。
「わかった。ブレンは俺と隊長で迎えに行ってくる」
「ここで最低のニュースです」
「おい待て」
最低、とは。高さや位置、程度がもっとも低いことだ。つまり物事の状態がもっとも望ましくないことを言う。
隊長の名詞が出たとたんの反応は、嫌な予感しかしない。
「アーデルハイト隊長は王妃のご招待に王宮へ向かい、現在軟禁中です」
「どうしてそうなった……?」
(心底わからんのだが?)
壁にかけられた任務表とカレンダー、時計を確認する。
「俺が皇都を離れてまだ八日だぞ?」
「人生において重要な決断は制限時間付き、かつ、皆さまお誘い合わせのうえ、並んでやってくるそうですよ」
「並んでないだろ。我先に押しよせてるじゃないか。アポイントをとりなおしてから、一人ずつ来てくれ」
「銀狼の群れにまじった灰色熊だって勝手に押しよせてきますし。なんなら挨拶の口上すらなく夜討ち朝駆けに天幕ごと押し潰す勢いですよ」
「二足歩行の人間には、吠え声じゃなく言語を喋る口と、日程を調整する頭がついてるはずだろ」
「要望は自己主張の強い相手方へ直接どうぞ。アーデルハイト隊長は詫びの茶会という名目に呼び出されたそうです。婚約破棄の今後について話しがしたいと。進捗を確認してくると出かけた隊長自身はおそらく日帰りのつもりでした。あなたが皇都を発って六日目です。接触したフリードリヒ小隊長によれば、手続き担当の士業連中の都合が悪い、第五王子の体調が悪いで滞在を引き伸ばされているようです」
「ハッ。どこの弁護士が王族との約束を反故にすると? 信用商売だぞ? そいつは明日から帝国での仕事ができなくなるだろうな」
(そもそも、)
「なにをいまさら、第五王子と顔を合わせる必要があるんだ?」
「お詫びとのことでしたから、今まですみませんでしたぐらいは直接言いたいのかもしれませんよ」
「本気か?」
浮かべた薄笑いにシュタインの否定は明らかだった。
「フリードリヒ小隊長が王太子殿下に宣誓してきたそうです。真面目に一生懸命お仕事をやるから僕たちの部隊に横槍は入れないでね、と」
「脅迫では?」
(鎮火どころか、ガソリンをまいて焚きつけたのでは?)
「僕もそう思います。王位継承権を放棄済みの第四王子を担ぎ上げようとする連中もいるそうですから」
主流に乗り損ねた三流どもが身勝手な不平不満を吐いてるだけだと、なによりフリードリヒの野郎が理解していないはずがない。
「それで、あなたの爵位継承の件はどうです」
爵位。ミュラー。そしてブラートフィッシュ。繋がる点にああそうかと、得心する。
不動の天秤を、かすかなりとも揺らしたのは帝国最強騎士団を率いるミュラー辺境領の次代任命か。
「俺に決まった。とんぼ返りの俺を追って、必要な書類が貴族院に提出されるはずだ」
「そうですか…。マルクス。僕、じつはミュラーの内通者だったんです」
「は?」
「あなたの動向を、僕の家族を通じて領主様に報告していました」
数秒の沈黙。
「……シュタイン」
おまえ、もしかして。
「隠しているつもりだったのか?」
ぱちぱちと目を瞬く友人との付き合いは十数年に及ぶ。
「気づかれていないと思っていたのか?」
15歳の少年が、いくら親しいとはいえ友人のために特に問題のない家を、家族を、故郷を捨てて遠く離れた皇都まで共に行こうとはすまい。ましてシュタインの生まれたシュミット家は代々優秀な魔道士を輩出してきたミュラーの重鎮だ。金銭的に困窮しているわけでもなく、家族仲が悪いという話しもきいたことがない。シュタインの服は常に清潔だったし、髪や肌を見る限り、手をかけられた子どもと言う印象だった。反抗期を迎えてはいたが、一人暮らしどころか単独遠征すらもまだ経験したことがなかったはずだ。口調は丁寧で、慇懃無礼。そこは脳筋一族側ではなく、こいつの母親の影響も大きいかもしれない。辺境領に輿入れしたクラウディア・クラウゼの侍女としてミュラーにやって来て、シュタインの父と恋に落ちて根を下ろした女性だと言うから。
義母であるクラウディアの死は魔道士塔に、そして義母兄の死の報は戦場に。宛て先不明ともならず正確に、そして遅滞なく届いていた。三年前には俺の昇進祝いを名目としてミュラーの馬が、流星の名を冠した栗毛がミュラーから贈られていた。
「……まぁ、そうですよねぇ……」
本気で密偵の役目を果たしたいならばこんな露骨な真似はすまい。
戸惑いを浮かべたシュタインの目が泳ぐ。
「騙された、裏切られたって怒らないんですか」
「家族と連絡をとってなにが問題だ。近況報告ぐらいいれるだろ。それに、おまえが連絡しなくても、父なら俺の居場所を把握するのは難しくなかっただろうよ。軍に入れば特に。マーロウ・ミュラーに取り入ろうと、聞かれてもないことまでご注進する連中もいただろうさ。あの男の支持者の多さ、深さは体感している」
「僕、あなたが隊長にのぼせあがってやらかしたことも度々提出していますよ」
「絶対に許さん」
「ふ、…ふふふっ」
肩の荷がおりたように。軽やか、いっそ甘やか、シュタインが笑う。
なんだその笑いは。
(そういう顔は女の前でしてやれ)
「どんな内容を通知、……おい、まさか、」
「冬季遠征前ですと、あなたが菓子の製造を試み、材料をことごとく消し炭に変えて、厨房を汚損した行動でしょうか。……ああ、大丈夫です、ショコラティエを目指し、任務の合間、製菓衛生師と菓子製造技能士の資格を取ろうとして時間が足りず、渋々諦めたことまでは報告済みですから。食料品の無駄遣いは今後起こらないとなれば、領主様も安心されるでしょう」
「おい」
俺は諦めたわけではない。
一時的な戦略的撤退に過ぎない、と。言ってやろうかと思ってやめた。これ以上、報告のネタを増やしてたまるか。
「たんぽぽの根から焙煎するコーヒーの製造方法は早速役立ってよかったですね。こちらはまだ報告しておりませんが」
「せんでいい」
役に立ったのは事実だ。補給の遅滞に、嗜好品は真っ先底を尽いた。
代用のため、たんぽぽの根っこを掘り返し、洗い、切り刻み、天日干しに乾燥。煎って砕いて粉末状になれば完成だ。通常のコーヒーと同じようにペーパードリップで抽出して飲む。味は少し薄いが、苦味も色合いもまぁコーヒーと言えなくはないものが出来上がった。
空腹を白湯に誤魔化して哨戒任務を終えたアーデルハイト隊長に差し入れた。喜ばれた。褒められた。
焚き火の炎を挟んで二人、向かい合って飲んだ代用コーヒーは、砂糖も加えていないのに甘く苦かった。紅茶色の瞳に炎が映り、ゆらゆらと揺れる様子だけで。どうしてか、思考が横滑りを始めてしまう。
つまり─── 何事にも、準備と用意と支度が必要ということだ。
降ってわいた好機を逃さず掴むためには、常日頃の備えを怠っては駄目だ。
「尊敬できる上司に巡りあえるのは幸いです。ミュラー騎士団の誰もがそう思っています。自分たちが領主様に捧げた忠誠のように、あなたが少々奇行に走っていてもおかしいとは感じないでしょう。良くも悪くも脳筋の集団です。あんなことがあって領地を飛びだした“坊ちゃん”が外見ローティーンの小娘を恋愛対象として見つめて切ないため息をついているなんて想像をしている者はまだいないと思います。ただ、……」
「なんだ」
そこで言いよどむな。
「僕、隊長へ支給される品格維持費の流れを調べるって言いましたよね?」
「ああ。なにかわかったのか」
「真っ黒です。横領の手口自体はありきたりでした。商人側と第五王子側、普通なら被害者になるアルニム伯爵の三者がウィンウィンの関係を築いて帳簿上の数字を操作しているため、何年も発覚していなかったようなんですよね。それは予想の範囲内なんですが…どうやらアルニム伯爵領は数年前からミュラーに目をつけられています。…次期伯爵の忠義が向かう先として警戒しているだけならいいんですが…」
それは。
つまり。
数年前からすでに。
「俺が隊長を誘拐し、逐電する可能性が疑われていたと…?」
「誰もそんな恐ろしい想像はしていませんよ!? 心当たりがあるような顔をしないでください! っいえ、企むならせめて駆け落ちにしてください。隊長の同意はとってください。いいですね」
半分キレ気味のシュタインが釘を刺してくる。俺が、そういう衝動に駆られたことがなかったとは言わない。血と暴力に酔った夜には、人が人であるための理性なんかたやすく緩む。だが隊長は抵抗するだろう。そして彼女の抵抗に、俺が初志を貫徹できる可能性は限りなく低い。
失望、落胆、軽蔑。
それらを浮かべた彼女の瞳に睫毛が伏せられる様を想像するだけで息の根が止まる。
「誘拐なんぞ、やらかす前に俺が殺される方が早いだろ」
「……百万分の一の同意に賭けるという最終手段もありますけどね……」
「そうだな。俺は、賭けに勝ちつつある」
「プロポーズの前後が急展開すぎてなにがなんだか。そちらは落ち着いたあとにでも話を聞かせてください。…それから。最後の報告です」
「まだあるのか」
「吉報か凶報かはわかりませんがね。どうぞ」
差しだされたのは一通の手紙だった。麗しい封蝋。実利一辺倒の軍仕様とは紙質からして違う。
「アルバン・アルニム令息からの招待状です」
「アルバン・アルニム?」
それはアーデルハイト隊長の兄の名前だった。