ドアをノックするのは誰だ?【2】
月が中天に近づく夜空を、トレビュシェットおよびバリスタから放たれた投石物が横切る。着弾する破裂音が耳をつんざく。
重なる怒声、蛮声、絶叫。脆弱な人間が夜闇に恐怖を打ち払い、前に出て戦う勇気をふりしぼるための雄叫びだった。
そんな兵士たちを嘲笑うかの如く。大地を覆う黒炎が激しく波打ち、魔方陣が輝く。複雑な紋様に流しこまれる赤、橙、黄、緑、青のレインボーカラー。
(来る)
中心部、マルクスを含めた魔道士部隊の総員が身構える。
同時に。祈りにも似た切望を持って見つめた扉は沈黙したまま。
地面が隆起する。揺らぐ空間に巻きこまれ、物理と精神にグラリと傾ぐ頭。足元が定まらない。認知が歪む。
パラダイムがシフトする。
ようこそ! アリス・イン・ワンダーランド。
「でかいぞ! 下がれ!」
「後退! 距離を取れ!」
鏡の国のゲートが開く。無音、破滅の色を振り撒きながら。
白い頭頂部が現れた。触覚のように跳ねた一筋の体毛のみが赤い。
閉じられていた瞳が、翼がゆっくりと開く。爛々と燃える金瞳が姿を現す。
極楽鳥、ジャバウォック。
期待した相手ではない、予想どおり。伝説どおり。扉ではなく門からの出現。ニワトリにも似た純白の胸部から伸びるのは蝶の四枚羽。ああ、想定内の最悪だ。内側、輝く五つの色に撒き散らされる燐粉は毒を含む。ただひとたびの飛翔にこの場の部隊全員を飲みこむに違いない。瘴気と混じり、強い風に乗った燐粉は中庭のみならず、王宮、皇都のすべてを。
夢見るように極楽へと、天ノ国へと誘うに違いない。
「Burble!」
細い顎を持ちあげ、一声を鳴いて飛び立つ。つもりだったのだろう。
「お呼びじゃない」
エメットの呟き。
「おまえじゃない」
続いたのは誰の声だったか。
渦を巻く黒炎より虹色をまとって上昇しようとする幻獣種を冷たく見つめたマルクスだって心から同意する。
アイコンタクトによるゴーサイン。躊躇などない。あらかじめ部隊内に話し合っていたことだ。
万が一にも。もう一度ドラゴンが現れた場合。大型であり、飛行タイプの幻獣種が現れた場合の対処について。
「“わたしはあなたに命じたではないか”」
ここに至るまで、魔力と体力を温存してきた魔道准尉エメット・エクヴィルツによる詠唱の開始。ゲートより浮かびあがり具現化する巨体を囲む円柱の杭が現れる。目標物と並行しながら直立、ともに天へと向かって伸びる。
「“強く、また雄々しくあれ”」
大地より立ち上がる無数の縦格子は無骨な鈍色。杭同士の間隔は1メートルほど。獲物を中心に正方形を描く。一本一本は俺の腕よりも太い。まさしく大型の獣を閉じこめるための檻が、虹色の毒にも瘴気の闇にも負けず強く、雄々しく立ち上がる。
「“あなたがどこへ行くにも、あなたの片翼、天使が共におられるゆえ、恐れてはならない”」
本格的な耐久戦が始まり、エメットが最初にしたこと。それは障壁による領域展開。魔石の助けを借り、扉の周辺、おおよそ百メートル四方の空間を掌握した。地に伏せた罠。幻獣種を閉じこめるための檻を仕込んだ。
出入り口がわかっているからこそ可能な芸当。むろん、ぶっつけ本番。だが。
「“おののいてはならない”」
「「「慄いてはならない」」」
本番に直面しながら練習不足を嘆く時間などあるものか。
詠唱の終了と同時、フリードリヒとシュタインが祝福の鐘を鳴らす。
リュデガーによる空間把握。デニスによる領域固定。コマンドデータリンクによって総員の魔力を抽出。
盤面、エメットによって維持されてきた伏せカードが露わとなる。障壁臥篭。直接的な攻撃力はない。捕獲、あるいは防御のための術式。
戦闘魔道士とて脚光を浴びるのはブレンの火炎のような派手に見栄えのよいものが大半だった。付与と強化を得意としたばかりに不遇をかこい、称賛を受けることなく部隊を放逐された男の真骨頂。オリジナルの術式である。
閉じこめられたジャバウォックの反応は鈍い。世界に喚ばれた歓喜の産声をあげたばかり。戸惑うように周囲を見渡し、羽の一振りによってさらに上昇。まぁそうだろう。天井は閉じられていない。
(もっとも?)
少々遅いが?
息を吐ききるように最後の魔力を注ぎこむエメットの術式が完成するほうが速い。
杭は高さにして800メートルを超えた時点で停止した。デニスが地属性の術式に固定。ランドロック、鍵をかける。伸びてゆくパワーグリッドを追い、当然のように飛び超えようとしていたジャバウォックが動きをとめる。ゆらり、逡巡に羽をひらめかせる。
「…ふん」
さすがに自滅とはいかないか。
ジャバウォックの体長は尻尾を含めれば15メートルを超えている。この巨体から見れば片手を伸ばした人間が容易に通れるような杭ですら千本格子も同然。
だからといって開けた天頂を目指せば?
目を細めた月の女神が、弓に矢をつがえ待ち構えている。
「よくやった」
「思ったほど伸びませんでした」
はっ、はっ、と荒い息をついているエメットは悔しそうだ。顎を伝う汗を拭う手付きはいつになく乱暴だった。どうやら1000メートル、1キロメートルのギリギリを狙うつもりだったらしい。目指した場所に届かなかったことが不満らしい。小さく悪態をこぼしている。
「十分だ」
本心に褒める。リュデガーによって計測される距離、高さは並の観測兵など及ばぬ精度を誇るが、女神は気紛れだ。俺たちが安全圏と考える800のラインを超えれば、じつのところアルテミスの矢はいつ放たれてもおかしくない。
静止衛星の軌道高度、女神の眼から見下ろせば200メートルなど誤差の範囲内。杭そのものが標的になる可能性もあった。この場の中心には扉がある。アーデルハイト隊長につながる道までもが破壊される恐れがでてくる。
燐粉による毒の散布を防いだだけでなく、目標の移動を阻止できたのだ。焦ったジャバウォックが不用意にも上昇するかもしれないとは考えていた。が、ジャバウォックの行動は想定の範囲内。ブルードラゴンの動きから予想できたことだ。幻獣種たちの記憶、本能にはけして踏み入ってはならないテリトリーが刻まれている。
「……見事だ、エメット准尉」
敬意をこめて、もう一度。素直な称賛を言葉にした。と、いうのに。
「祭壇の前で、本人不在の誕生会をやるようなものです」
「おまえが駄目なのはそういうところだ」
「マチソワ、全通できずに担当は名乗れませんよ」
「会話を成り立たせる努力ぐらいはしろと言っている」
「同担拒否過激派くん相手は難しいと思います」
「俺は貴様の上官だが?」
言語が違っても、悪口であるということは理解できる。
軽口を叩きあいながら、俺も風の矢をつがえる。カーブを描いた軌道は低空より飛来する扉向こうの単騎を貫通。
「後方腕組み彼氏面からの卒業おめでとうございます」
「表に出るか?」
「副官、ここもうお外ですよ」
水筒の水を口に含んだエメットはケロリとしている。
…こいつといい、フリードリヒといい。
言葉尻を捕まえ、相手の揚げ足をとるだけの機転があるのは結構なことだ。
天才と称賛されるよりもオタクと呼ばれるほうが嬉しいとヌかすのがエメット准尉である。最上位の褒め言葉が限界オタクとは?
しかし何故かアーデルハイト隊長とは気が合っていた。休憩時間中、謎の言語を普段の二割増しの早口にまくしたてるエメットの横で、アーデルハイトは鷹揚に微笑んでいた。社交辞令というわけでもなく、ダンジョンへの挑戦やオークションへの参加等、部下の活発な勤務時間外活動について興味を持っていたようだ。
マルクスが「エメット准尉に好感を持っているか?」と問われれば真顔、「そう見えるか?」と問い返す。相手も同じだろう。
遅刻に無断欠勤、持ち場の放棄。上司を上司とも思わない前評判に聞いていたそれらが実行されていれば、「ふざけているのか、舐めているのか、どっちだ?」と鳩尾を蹴飛ばし、地面に転がしたあとに問うている。排除にかかっている。
けれどエメットはアーデルハイトには忠実だった。背筋を伸ばし、敬語を使い、任務の確実な遂行。
つまり。今までの飼い主に能力がなかった。俺を含め。こいつを使いこなす度量がなかった。それだけのことだ。
そびえたつ杭は長大だ。瘴気の海の真上に打ち立てた。俺たち全員の魔力を抽出したとはいえ。魔術への深い造詣と想像力、偏執なまでの拘りがなければ実用に足るオリジナルの術式など作れない。
桜は花に顕る。極東の諺だ。補助術式に特化した才能はアーデルハイト隊長に見出され、俺たち魔道士部隊のなかで花ひらいた。
エメットを手放した歩兵部隊連中の気持ちがわからない。とは、さすがに言わない。
だが近視眼的な行動にもほどがある。好悪を優先し、損得計算すらもできなかったのかと想像すれば解体されてしかるべき集団だった。
奴らがやっていたのは、今夜のような冬の夜空の下、明かりが灯され、暖められた天幕で椅子にふんぞり返り、ひとり慌しくシチューを配るエメットの背中にスプーンがないぞと怒鳴りつけるような行動だ。
部隊全員の頭上にランプを掲げ、雨には傘を広げた魔道士を失い、凍える無明はさぞや身体の芯を冷やしたことだろう。追いつめられ、震える手にかじるシリアルバーは絶望の味がしたことだろう。魔道士部隊の控え室ドアを乱暴に叩き、恥知らずにも「うちの隊員を返せ」と怒鳴りこんできたあちらの部隊長相手には我らが部隊長アーデルハイトが「いやです」とバッサリだ。不在だった本人の意思を確認する素振りもない。即時即断のお断りだった。
交渉相手を女と侮ったか? 高圧的な態度で挑めば押し通せるとでも考えたか? 馬鹿め。貴様の目の前にいる少女は古代神聖語で書かれた神学の原書を読み解き、軍法を熟知、指揮官としての旗を振りながら灰色熊をワンパンに沈める俺の隊長だぞ?
向こうの隊長も、今まであれば貴族としての位階を持ち出せたのだろうが、アーデルハイトとて伯爵令嬢。そして当時は第五王子の婚約者だった。タリスマンの最古参メンバーには第四王子本人もいる。根拠のない言いがかりなど服の埃を払うように振り払える。権力とは理不尽な権力に対抗すべきときにこそ使うものだ。
なにをトチ狂ってやがったのか。部隊の半数を超える人員を失ったからだ。壊滅と評してよい被害状況だったからだ。一時的といえども正気を手放す理由には十分だ。
けれど王族に代わって戦場に立つ幼い少女から盾を奪う? ましてやいちどは役立たずの戦力外と自ら追いだしておきながら? なんて無能だ。恥知らずめ。それを口にできた度胸だけは買ってやろう。そういう俺やオスカーたち魔道士部隊からの威圧と嘲笑に耐えきれず、すごすごと退散したわけだ。そいつは降格され、どこぞの激戦区に飛ばされたとは伝え聞いた。今までのやらかしも響いたようだ。あとのことは知らん。
なお、打診があったことすらエメット本人には言っていない。なにかの折にオスカーが伝えていたようだけれども。俺は言わなかった。なんだか悔しかったので。
たとえば魔塔から。あるいは、…あるいはミュラーから。マルクス・ミュラーを「返せ」と迫られた隊長が、俺の時もそんなふうに「いやです」と。交渉の余地もなく「手放しません」と言ってくれるだろうかと想像し…エメットよりも俺の方が有能だ!と叫びたくなったので。
体力と魔力を温存しろと命じられても、それを実行するためには経験とある種の諦観、あるいは図太さが必要だ。
歴戦の古参兵であるオスカー副長が持つようなそれ。後半戦に備え、くるかどうかもわならない盤面に備え、傷つく仲間たちを目にしながら自身の状態を保全維持しろというのはモーリッツたちにはまだ難しいだろう。それらの新兵たちを配置し、配分を考えるのは現場指揮官の仕事である。
「ブレン少尉。インフェルノで仕留めるぞ」
「了解です!」
嬉々と応じる新品少尉はまだまだ元気だ。回復に専念させた甲斐がある。なにしろブレン・ブラートフィッシュは温存を命じられた場合の行動がまったく読めない。アーデルハイト隊長の命令どおり、死んだフリができれば上出来な部類だ。余計なことをやらかす未来しか見えない。
「シュタイン。周囲の歩兵大隊へ極大術式使用の伝令を。ミュラー騎士団の連中を走らせろ」
地獄の業火に燃やすべき標的は鋭い鉤爪の四本足、二足歩行のニワトリもどき。蝶の羽をもつ極楽鳥はドラゴンほどの機動力を持ってはいない。もっとも恐るべき攻撃手段は毒。それも人間の手が届かない上空からの散布。スーパーフォートレスとも呼ばれた長距離大型戦略爆撃機に向かって竹槍を突きだした古代戦闘のごとく哀れで滑稽な抵抗をみせたところで、転がるのは矮小な人の亡骸のみ。
同じ轍を踏む気はない。まずは移動を封じた。縦にも横にもだ。自由な飛行を許し、毒を受けながら、扉を守りながらなどどうあがいても捉えきれなくなる。幸い、ふわふわとした浮遊を続ける蝶の羽は檻を突破できないようだ。波打つ尻尾はドラゴンの竜燐とは違い、檻を叩き折る強度の持ち合わせはないらしい。
ジャバウォックは今も格子の中央、500メートルの付近から上昇しようとしていない。女神の矢の射程範囲外、余裕をもった安全圏に留まっている。
古代神聖語におけるInferunoは『下の場所』を意味する。冷たい空気は上から下へと降り、暖かい空気は下から上へと昇ってゆく。インフェルノ。地獄の如き光景。烈火は地より天を焦がし燃え盛るのだ。
「炙ってやる。ローストチキンだ」
連立極大術式の現出高度、連携を計算。やれる。王城および仲間への飛び火なく。制御可能な範囲内。コマンドデータリンクを切り替え、意識を共有する。エメットからブレンへ。主導権を移行。けれど今度はジャバウォックが速い。
「Burbleeeee!」
天を引き裂く咆哮。
不満の呼号であり。
それは随獣を呼ぶ声もあった。
早く来い。檻を壊せ。私をここから出せ?
助けを求める態度にはとても見えないが。ジャバウォックの随獣たちはそうと受け取ったようだ。
幻獣種の主張はもっともである。己一人に打破できぬ状況であれば仲間の力を借りればよい。
迫るキメラたちは東に陣取る投石器とそれを繰りだす歩兵部隊に群がった。犠牲を恐れず。連携を始めた。個としての我が身を省みない突撃に防衛線の一角が崩れる。王たる幻獣種の号令下、物量による突破。
…凶暴性が増してやがる。ドラゴンの随獣よりもスマートな姿形をした奴らは飛行スピードも速い。被弾に怯むことなく檻へと取り付く。爪と牙、体当たりに破壊を目論む。
「杭はどれほど持つ!?」
「強度テストは未実施です!」
「だろうな!」
だがこれはリハーサルでも訓練でもない。リテイクなどない。やり直しのきかない、一度きりの本番だ。
「いっちゃっていいですか!?」
「待て! 待てブレン! 燃やすなら一気だ!」
うずうずっと肩を揺らしたブレンの赤い瞳が危険に揺らぐ。
炎への誘惑に恍惚の表情を浮かべる少尉の息が荒い。
疲弊した歩兵隊隊の隙間をぬって低空飛行の随獣が接近。否応もなく、個別戦闘となる。
「ミュラー騎士団! 方陣を作れ! 術式現出の時間を持たせろ!」
指示を飛ばし、混戦を仕切りなおす。杭の一本が倒れた。エッと空を見上げたのはミヒャエルだ。
高さ800メートルを超える杭はぐらりと傾ぎ…粉塵を巻き上げ地へと倒れる。前に。魔力の供給が途絶れ、かき消えた。
「うわ、うわぁ」
真下に居たモーリッツは呻いた。ぽかんと口を開いていた。素直さは新兵の美点であり、欠点である。
「リュデガー少尉! デニス准尉! 座標の固定はあとどのくらいだ!?」
「二分、っいや」
「100秒でやります!」
ここが瘴気の真上であることを加味すれば称賛すべきスピード。けれど長い。
コマンドデータリンクの換装に思ったよりも時間をとられた。
(今まではどうしていた!?)
換装の、必要がなかった。
それに尽きる。
アーデルハイト隊長は全属性に適性を持つ魔道士で、前線指揮官として過不足のない判断力を有している。つまり頭を挿げ替える必要がなかった。そこに違和感などはなく、統率されたいくつもの滑車は平滑に回り続けていた。コマンドデータリンクの成果は人員の数、そして一人ひとりの集中力の掛け算によって如実に現れる。タイミングがずれれば力は乗せられない。
リュデガーたち観測班に向かったキメラに向けて風の矢を放つ。見上げた先に、ジャバウォックの毒はまだ漏れていない。隙間と隙間を魔力の膜が埋める。だが二本目の杭が傾ぐ。物理的な攻撃のみならず、足元、そして取りついた随獣から発せられる瘴気の侵食が拍車をかける。暗闇に羽ばたきの音が増す。敵の援軍だ。猶予はない。
炎が分散しないように、フレンドリーファイアが起こらぬように、一息に仕留める。
マルクスは宣言したのだ。居並ぶ軍のお偉い方の前で。堂々と。
『ゲートから現れるすべての魔獣を屠ってごらんにいれましょう』
我々魔道士部隊が守ってやる。だから待てと。アーデルハイト隊長の帰還までの72時間を勝ち取った。
アーデルハイト隊長は俺に、守れと命じた。それはむろん、隊長自身だって含むはずだ。
ドォン!
轟音が響く。
杭が倒れた音ではなかった。ジャバウォックの体当たりによるものでもない。
俺たちと同じ目線の高さ。ドアが叩かれた。ここにいると叫ぶ。
扉の向こう側から。
ドアをノックするのは誰だ?
「座標固定完了!」
「ブレン! ぶちかませ!」
黄金の炎が夜空を焦がした。レイジング・インフェルノ。噴きあがるように爆発する。3500度を超える業火を一点集中。火力をあげるのがブレンの役目であるように、制御は俺の役割だ。たとえ俺の魔力がまだ回復していなくても。際限なく広がろうとする炎の舌を踏みつけるように誘導する。コマンドデータリンクの繋がりを通し、脳みその血管がブチブチと千切れるような感覚が視界と内臓を揺さぶる。
(集中しろ)
奇跡を前に足踏み、怯む暇などあるものか。
扉は杭のなかにある。毒燐粉のなかにある。ドアが開く前に焼き尽くす。アーデルハイトが帰ってくる前に!
「Burble!」
障壁を展開したジャバウォックの癇声に呼ばれた随獣たちが集まってくる。火に飛びこむ蛾のようだ。焼かれると知っていて、奴らは自ら王のもとへ。火杭と化した檻に組みつき、王を救おうと決死だった。
だがそれは俺たちも同じこと。
リュデガーとデニスは宣言よりも8秒速く座標を固めた。そこへ極大術式の現出。過負荷は全員にかかっているはずだ。けれど誰も離脱しようとはしない。弱音を吐こうとはしない。もっと、もっとと自ら魔力をさしだす。隊長の帰還を迎えるために。
燃え盛る炎は空中に固定されたまま。周囲の酸素と魔力の結合。さらに温度を上げる。熱風に押しあげられて上昇するジャバウォックの羽に、とうとう火がついた。巨体が炎に包まれると同時。三本目の杭が倒された。炎を照り返し、輝く燐粉もまた熱風に乗り、檻の外側へとあふれ出そうとする。
もがきながら外への脱出を試みた幻獣を、白い刃が裂いた。音のない斬撃は真下より。馴染みのある魔力。黄金の炎すらも生ぬるいとばかりの一刀両断。
ジャバウォックは、羽ばたくことをやめた。動きを止めた。傾き、堕ちる。
足元が波打つ。瘴気の黒炎が伸びる。上へ。ジャバウォックを迎えるために。俺たちが踏みしめる大地はもはや不変のものでない。
『こちら』と『あちら』が入り混じる。
炭化したジャバウォックの肉体が粘体の瘴気へと姿を変える。落下する。ドアを飲みこもうとする。その向こう側で。なにかが光っている。鼓動している。
「近寄らせるな!」
王が堕ちたことが理解できないのか。理解したくないのか。あるいは理解していて殉じようとしているのか?
キメラである随獣たちの突撃速度は変わらない。
「エメット! 扉に向かって祝福! 繰り返せ! 俺がいいと言うまで止めるな!」
「誰に脅されてもやめません!」
頭上、祝福の鐘が鳴る。
シュタインの戦太鼓などなくとも、俺たちの士気は天元突破だ。
杭が縮む。気づけば半分ほどの高さになっている。大地に飲まれている。それも急速に。引きずりこもうとしている。
ドラゴンを、デュラハンを、ジャバウォックの帰還を迎えたように。
反転。あちら側から出て行こうとするモノを引きとめるように。
(帰ってくる!)
どうしてだか重い足を引きずり、扉へと近づく。我ながら動きが鈍い。気ばかりが急く。疲労の理由など考えるまでもない。コマンドデータリンクによる術式の連発。長時間の戦闘。緊張とストレス。
なにより彼女の無事がわからなかったから!
近づき、ようやく気づく。まだ、燐粉が残っている。瘴気のなかに目を凝らす。
杭がなくなれば外側へ。扉が開けば内側へ。毒はあふれるだろう。
杭が消え去る寸前に吹き飛ばすか。燃やすか。
(どうする)
一瞬の逡巡にドアを見つめた。目があった。
「……ぁーでるはいと、隊長……?」
扉の向こう側が透かして見えた。すべての感覚が開き、遮断される。
気のせいでなければ。俺の、願望でなければ。
彼女は笑った。俺を見つけて。俺を見つめて。嬉しそうに。
名前を呼ばれたことは何故かわかった。聞こえる声もないのに。マルクス、と。
細い四肢に黒い蔦が絡む。引きずり戻されようとしているアーデルハイトが。抵抗している。
カラドボルグの柄を握る。後先も考えずに魔力をこめた。好きなだけ持って行け。
「下がって!」
貫く刃で扉を横殴る。弾け飛ぶ。
生きてます…。
力尽きてイチャイチャまでいけませんでした…。
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