ウェルカム・トゥ・ブラック・パレード【5】
奥の寝室へ続くドアを開ける手続きは自然と乱暴になる。
こちらは隠蔽に時間をかける余裕がなかったのだろう。開きっぱなしのクローゼット、床に散った着替え。当座の食料は持てるだけ、詰めこめるだけを持ったか。テーブル上の藤籠にはワックスペーパーに包まれたパンが残されていた。
ドアこそ開けていないが、夫人の寝室も似たようなものだったのかもしれない。主人が不在とはいえ、女性の寝室ドアを許可なく開けるのはアルバンの常識では失礼を通り越して無礼な行為だった。が、紳士としての礼儀の云々を気にしていられる状況ではなくなった。
怒りも露わ、眉間にシワを寄せた主人の姿に、フットマンがドア横に背を震わせた。武器代わり、手にした杖を両手に握りしめる。
「その、ジモーネはアロイス様と付き合っていて…わ、私はやめろと言ったんですが…」
「うん。それで?」
そうだろう。協力者がいる。周りにとけこみながら厨房への出入りができて、彼ら親子に代わって質屋に足を運ぶことができる人物だ。これは昨日今日に始めた逃亡の準備ではない。
「そ、それで、」
言葉を濁し、視線を合わせようとしない従僕に向き直る。
ジモーネ。たしかメイドの一人だ。次期領主としてのアルバンは屋敷の従僕たち全員の名前ぐらいは把握している。ただ、そこまでだ。どのような容貌をしていて、どのような経歴の持ち主か。特技と性格。それらは家令や執事の頭に入っていればよかった。母の代から仕えている者たちは別として、今のアルニムの屋敷は使用人の入れ替わりが激しすぎた。
「いつからだ?」
「っ……わかりません。ジモーネは奥様付きのメイドとして雇われていたはずだったんですが…いつのまにか、アロイス様付きになっていて…。お二人が可哀想だと…そう言っていました」
「…なるほど」
僕たち領主の一族が領民である君たちよりもいい物を食べて、柔らかなスプリングのベッドに眠れるのは、特権に見合う責任があるからだよ。
そう教えてやりたいところだ。諭してやってもいいくらいだ。
少なくともアロイスらが衣食住に不自由したことはないはずだ。老家令の職務への忠実さをアルバンは知っている。
「その彼女は?」
「昨日から姿が見えません」
もはや隠す気力もないのだろう。次期領主、だった者から発せられた問いへの答えに偽りは見えなかった。
「アロイスと夫人も同じタイミングで姿を現さなくなった?」
「はい…」
昨日か。
(最大でも二日未満)
追える。夫人は乗馬ができなかった。移動は馬車か徒歩。女性が二人もいるのだ。軍馬を駆れば十分に追いつける。馬での追っ手を避けて獣道を走ったのだとしても、偵察に慣れた騎士に追わせれば発見、捕縛は可能だろう。普段ならば、という注釈はつく。
今は無理だ。
余力がない。
むろん、このまま見逃してやるつもりはない。追いつめる方法ならばいくらでも。だが。
そもそもこれは偶然なのか?
スタンピートに合わせて事前の逃亡とは!
念入りに準備された計画であるならば、追っ手も計算のうちだろう。邸内と騎士団の混乱を突いた。犠牲に怒り狂った領民たちの報復からも逃げおおせるつもりだろう。
魔獣被害の増加。妹が第五王子に婚約を破棄されたタイミングといい…偶然とは思えない。何かが水面下に動いている。表れた変化は大きく連なり、急速だ。それだけでなく、形の見えない終わりへ向かって収束しようとしている。
問題は、暴走する車輪の手綱を握っているのが誰なのか。あるいは誰の手からも離れた暴走機関車と化しているのか。
「アロイス様はジモーネとの交際を領主様に願いでてくださったんです…っ」
「父が許すわけがないな」
想像はつく。だからか。
アロイスは恋人と母親を連れて逃げた。
まだ子どもだと甘く見ていた。母親の背中に隠れる、弱々しい印象が強かった。けれど生まれた日はアーデルハイトと四ヶ月しか違わない。家財道具を売り払っての逃亡資金作り。恋人であるメイドに唆されてのことであったとしても、ずいぶんと強かだ。どこへ、どこまで行くつもりかは知らないが、やろうとさえ思えばやれるだろう。妹を見ればわかる。
意志は道を通す。暗闇に、道なき道とて切り開く。
跡取りであるアルバンの婚姻ですら高く売ろうとしていた父親だ。次男といえど、メイドとの交際など許すわけがない。
隣領の令嬢と結ばれていたアルバンの婚約は、アーデルハイトが王子の婚約者となった時点でアルニムの側から解消されていた。王家の姻戚となるのだ。もっと高位の家格を持った令嬢とも婚姻を結べるはずだとランベルト・アルニム伯爵は考えた。
アルバン自身に恋愛経験がないわけではない。王立学園在学中には相思相愛の先輩もいた。学生の恋とはいえ、二人は真剣だった。だが家同士の話し合いは折り合いがつかず、別れることになった。それも、父が無茶を押しつけた一面があった。
結果はこの年までの独り身だ。それでよかった。父親からの爵位簒奪も視野に入っていた身だ。妹の件にカタがつくまで、これ以上大切なものは持たないと決めていた。
「…君、名前は?」
「パウルです」
「ああ…、ジモーネとは同期だったね」
「ぁ、ぇ、ご存知だったんですか」
「屋敷で働いている者の名前くらいはね。…新しい者たちの顔は頭に入っていなかった。すまない」
「っいえ、いいえ、あの、…ありがとうございます」
恐縮する従僕より目を離し、見回した室内。白い箱が残っていた。クローゼットと天井の隙間だ。隠しているような、見つけて欲しいような場所。
椅子を台座にしたパウルが手を伸ばして引き寄せた。30センチ弱の幅があって、高さはその半分ほどか。小奇麗な状態の紙の箱だった。
テーブルに置くよう命じ、蓋を開けたのはアルバンだ。
中身は、靴。
丸みのあるパンプスだった。女性物だ。履いた形跡はない。真新しく、傷どころかシワ一つない。
身構えていたぶん、拍子抜けした。けれどパウルは息を飲んだ。
「どうした」
「ア、ロイス様は、靴職人になりたいと仰っていました」
「靴職人?」
「はい。身分を隠し、街の工房に出入りしていて…弟子入りした、と以前ジモーネが、」
「……弟子入り?」
驚いた。意外でもあった。そこまで本格的に計画していたのか。具体的な身の処し方までも考えていたのか。世間知らずの夫人と坊ちゃんがただ逃げたのではなかったのか?
パウルが顔色を変えたのは、貴族の酔狂や同僚の軽口ではなかったと悟ったからだろう。
手元に視線をおとす。
ならばこれは、この靴はまさかアロイスが作ったのか?
素人の手作り感はない。靴屋の店先に展示されていてもおかしくない出来栄えだ。
手にとろうとして同梱されたカードに気づいた。皮肉に唇を歪める。
「恋人へのプレゼントか」
「いえ、それは…、ジモーネは私と変わらないくらいの上背がありますので…。あの、これ、子ども用のサイズです。その、…おそらく、お嬢様くらいの」
パウルは一昨年と昨年、帰省したアーデルハイトの姿を目にしていた。
年の離れた姉の子と同じぐらいの体格だった。随分と小柄な方なんだなと清掃用のモップを動かしながら窓越しに眺めた。
魔獣の討伐を一手に担う、アルニムの守護神にはとても見ないなとも思った。ただそんな令嬢の様子を屈強な騎士たちが窺っていた。雇い主の娘の機嫌をとろうとして、というよりは…指揮官の指示を待つように。
兵役についていた頃のパウルが、上官の命令を聞き逃すまいと必死に耳をすませていたようにだ。
「…パウル」
「っはい」
「一人にしてくれるだろうか」
問いかけのようではあるが、次期領主からの命令だ。カードに目を走らせながらだとしても。アルニムがなくなると聞かされたって実感などわかない。
アルバンの声には有無を言わせぬ圧があり、年若いフットマンは素直に従った。
「ドアの前にいます。なにかありましたらお声をかけてください」
扉が閉まるのを待ち、アルバンは二つ折りのメッセージカードに再び目を通した。
“親愛なるアーデルハイトへ。
婚約おめでとう。
君が新たなトーナメントを勝ちぬく幸運を祈っている。
アロイスより。”
定型句の挨拶から始まり、たった二行で終わる手紙だった。
謝罪の一つもあるかと思えば。
(よくもまぁぬけぬけと)
思って、考えて。すうっと血が冷える。一拍をおいて汗が噴きだした。
(…婚約?)
それはマルクス・ミュラー・マイヤー子爵と結ばれた二度目のものを指している。真新しい靴と新品のカード。破棄された第五王子との婚約を、今さら言祝いでいるわけではない。
新たな…、
(トーナメント?)
アロイスは言っている。アーデルハイトに。競え、戦えと、そう言っている。トーナメントを勝ちあがるように。戦って─── 勝ちとれ。生きぬけ。幸運を祈ると。─── 何を言っている。何を、知っている。
不意に浮かんだのは妹との結婚を望んだ男の言葉だ。
『アルニム令息。俺はねぇ、彼女に剣と魔石は持たせても、モップやフライパンを握らせるつもりは一切ないんですよ』
蘇る会話は、このうえなく誠実な求婚だった。
『貴女はなにもしなくてよい、そこにいてくれればよい、と。婚姻を申しこむ無責任な男の言葉が信じられますか?』
カードを握りつぶした。
─── そのとおり。信じられるわけがない。
だって時間は戻らない。あの子の背に埋まった魔石は消えない。第五王子の婚約者という肩書きから解放されたとしても。過去がなかったことにはならない。
わかっている。アルバンにだって、本当はわかっている!
鳥籠にとじこめるように、手のひらに包むように、アーデルハイトを守ることはできない。
片翼の天使再臨計画は幼い妹をズタズタに引き裂いた。アーデルハイトは戻らない。こちら側へは戻れない。それでも生きてゆく。生きてゆくためには戦うしかない。誰と、なにを? 人生と、運命をひっくるめ。戦うのだ。生存するために。自らの居場所を自らの努力で勝ち取るしかない。
そのときあの子が手にするのはモップやフライパンではない。剣であり、魔石なのだ。必勝を期すならば慣れた方法で。得意とするフィールドに立つ。
ミュラー伯爵が皇都のセカンドハウスによこした手紙には、アーデルハイトが飲んでいた薬の正体が書かれていた。ミュラーの息がかかった軍医が分析した結果だと言う。よければ専門医を派遣するとまで提案されていた。だから父親を切り捨てろ。こちらと手を組み、今すぐ起て。手遅れになるまえに。譲渡を待つのではなく簒奪しろと促がしていた。
(悪魔が手のひらを見せて誘いをかけている)
そんな気持ちになった。だが引けない。アルバンだって、もう引けはしない。父親が脅迫していたのはアーデルハイトだけではなかった。あの子の乳母の家族だけでもない。
アーデルハイトが飲み続けなければならないという薬をもって後継者である息子すら意のままに操ろうとしていたのがランベルト・アルニム伯爵だった。
もはや父とは思うまい。引きずり下ろす。あの男はアルニムの民にとって害悪にしかならない。切り捨てるのだ。必要ならば、最後の手段も躊躇はしないと決めた。
だがアーデルハイトの婚姻は話が違う。アルニムのため、一度は生贄となった妹だ。命を捨てたも同然。ならば二度目はない。ミュラーの助力が得られずとも。もとより己がやるべきことなのだ。
魔道士部隊マルクス・ミュラー大尉宛。軍官舎に向け招待状を書いた。相手は子爵だ。アーデルハイトとの婚姻に向け、こちらからの好意を得たいと考えているのか。あるいは居丈高、一官吏からの呼び出しを不快を感じるか。果たしてどちらだろうか。腹に力をいれての面談だった。
予想は、いい意味で裏切られた。
伯爵令嬢でありながら、伯爵夫人としての役割について教育されていない小娘を妻にと乞う男は、噂通り。目を見張るほどの美丈夫だった。これで魔道大尉とくれば、異性からの誘いは引きも切らず。事実、マルクス・ミュラーの女性遍歴は華やかだ。やっかみ混じり、色男のうえに頭も切れると評判だった。第五王子がアーデルハイトを批判したことで再度注目の集まった北方戦線では若い部隊長を忠実に支え、祖国と戦友に誠実だった。仲間を救って重傷を負いながら、最短での原隊復帰を果たした。魔道士部隊の主要な戦闘にはすべて参加し、粘り強い防衛線構築の末、隊長の隣に鐙を並べて勝ち鬨をあげた。
正直、羨ましいほどの男ぶりだ。
けれど私生活は女性をとっかえひっかえしているスキャンダラスな男、とも。恐ろしい陰口もあった。言葉を選んだ同僚がそう言うくらいだ。女性関係はきっともっと酷いのだと覚悟した。
だが握手を求める挨拶は礼儀正しく、社会性にも不足はない。隙のない立ち居振る舞いに不信感はより増した。
なぜ、これほどの男がうちの妹を?
『貴方であれば、美女だろうが美少女だろうが、喜んで手をとるでしょうに』
こちらは王家からの婚約破棄を突きつけられた身だ。もっと条件のよいお相手はいくらでもいるだろう。
見目の幼い者が好みというならば、それとて。ミュラーならば喜んで娘をさしだすという家は多いだろう。本人の美貌をもって口説けば、あどけない少女の陥落など赤子の手をひねるようなものだろうに。
ちくりとした嫌味を混ぜ、煽ることで反応を見た。招待しておきながら、茶の一杯すら勧めもせずに。
なにしろ本心から釣りあわないとは考えていない。アーデルハイトとて伯爵令嬢だ。利発で美しい、自慢の妹である。王子妃候補として選出されたくらいだ。
しかし黒髪と紅茶色の瞳の組み合わせは目立つものではない。兄妹して母に似た容貌である事実は自覚はしている。そのアルバン自身が『よく見ればハンサム』という、ありがたくもない評価を同僚女性からいただいている。母の存命中、身のうちから溢れる生命力に輝いていた頃のアーデルハイトであればともかく。無口に、無表情になった彼女の魅力は、それこそよく見なければ気づけない。あるいはその生命力が部隊長としての資質に変換される戦場でもなければ。
街中、すれ違った十人のうち九人は振りかえりそうな艶麗さを持つ男とは違う。特徴的なアッシュ系プラチナブロンド。深いグリーンアイズ。美貌の長身は、周囲の視線を集めるには充分だ。
ならば求められる理由は一つしかない。
─── 戦闘能力。
その一点において、アーデルハイト・アルニムは他者の追随を許さない。妙齢の令嬢に限って言えば、帝国どころか欧州大陸においても破格。
個人の武勇。前線指揮官としての統率力。双方の能力を併せ持つのは規格外もよいところ。
アルバンからすれば、父が、元婚約者であった第五王子が妹をあれほど見くびっていたことがむしろ理解不能だった。
帝国最強を冠した騎士団からのヘッドハンティング。ミュラーに返り咲く次期伯爵として求める相手ということだろう。
太鼓持ちならばさすが御目が高いと手を揉んだに違いない。あいにく、アルバンは妹をトロフィーワイフ扱いされて喜べるほど品性を磨耗させていない。
アーデルハイトの胎よりミュラーの次々代として産まれてくる子は、戦闘民族として名高い一族を満足させる公算が高い。軍馬と魔獣を番わせ、魔馬を生み出した戦闘狂たちだ。最強伯の血統にかけあわせる強者を望んでも何ら不思議ではない。貴族院で調べたように、ミュラー伯爵の長子が落馬事故に亡くなっていることも関係しているかもしれない。
原始的ではあるけれども、生命力の強さは魅力の一つだ。常に魔獣の脅威にさらされる時代であるからこそ。
今代の辺境伯は爵位を継ぐにあたり、財力を必要とした。次代は強さを望んだ。足りないものを相手に求める。それが家門同士の婚姻と言う契約だ。互いを利用するのだ。貴族の一員として、アルバンも理解はしている。
フランツ殿下と同じモノを望んだ子爵が、同じようにアーデルハイトを使い潰さない保証はなかった。
けれどマルクス“大尉”としてであれば…、副官として何年も妹の背を守りつづけた男からの求婚であれば、まだ。信頼ができた。長い付き合いに、アデルの長所と短所も知ってのことだろうから。
……だいたい妹の容姿はとても十八には見えない。肉感的とも言いがたく、よく言えばスレンダー。本人が真顔で語るには低燃費。散々に遊んできた二十五の男から見れば物足りないものだろう。
戦場帰りの高揚、部隊の連帯感。目先の損得に一時的な熱を上げている可能性もある。
とにかく、落ち着け。
ゆっくり考えてみろ。
副音声、再考を迫るアルバンに対し、マイヤー子爵は苦笑のように唇を歪めた。
そうして吐いた台詞がモップとフライパンの例えである。
妹本人からは、同じ墓に入ろうという約束すら取りつけ済みだと言う。
(……は?)
このイケメンは異性慣れしていないうちの妹を言いくるめたのか? 婚約の解消も成り立たぬうち、すでに誑かしたと言うのか?
─── 千人斬りのスケコマシめ。表にでろ。
あやうく言葉になるところだった。襟首に向かって手が伸びるところだった。
堪えたのは、隣にいたさらに体格のよい男の存在がこちらに向ける、気遣わしげな視線があったからだ。恐ろしいわけではない。アルバンとて、兵役期間中は『命知らず』と呼ばれた帝国兵だった。下がるから噛まれるのだ。突っこんで勢いを殺せばよいと積極果断な進言を行い、当時の上官からは頭を横にふりつつ『命を大事にしろ』と忠告されていた。
挨拶程度とはいえ、副長であるオーマン曹長とは面識があった。アーデルハイトが言うには、オスカー副長は妹に『鎖骨から下、膝から上に許可なくさわってくるのは殴っていい奴です。手加減も不要です』という助言を与えてくれた素晴らしい年配者である。なお『後始末はお任せください』と笑顔に胸を張ったのは副官だと聞いたときから、こちらは「…うん?」と引っかかっていた。
しかも墓とはなんだ。何故そこまですっ飛ばした。
その前に、もっとこう、人生いろいろあるだろう。
イラッとしたし、単純に腹がたった。
だから投げやりに近く。男からの問いにも率直、教えてやったのだ。
『アルニム伯爵はなぜ、娘にああも冷たく当たるのでしょうか』
『妹が賢くて可愛いからですよ』
答えは本当に思いがけないものだった。
『なるほど』
短く深い同意。単なる相槌や、追従ではなかった。それ以上の理由は必要ないと言わんばかりの力強さ。
『……いや。いやいやいや? なんでそれで納得してんだ!?』
僕もそう思う。
『隊長は賢い。かわいい。無能に妬まれるほどにな。なにが不思議だ?』
マルクス・ミュラー・マイヤー子爵の目は澄み渡っていた。一片の曇りもなかった。なんなら一点のくすみすらもなかった。心より、本心より口にしていた。
声にだして笑ってしまった。納得した。
この色男は、心底妹に惚れているのだ。
だからプロポーズした。自己申告するように、他の誰かに奪われるまえに。誰よりも早く飛びだした。
ハンサムでも、プレイボーイでも、恋はするのだな、というのは新鮮な驚きでもあった。しかも長い片想いの末の爆発らしい。腹をすかせた狼が目の前に差しだされた餌に喰いつくのは当然だった。鎖を引き千切る勢いに邪魔者を押しのけ、威圧し、待ち侘びた機会を逃さない彼が。
フランツ殿下より理不尽に責め立てられた妹を庇ったことは聞いていた。
ギュンターに命じ、茶を用意させた。初対面にここまで腹をわって話せるとは思わなかった。
まぁ事実。縁談の打診はすでにいくつか。アルニム伯爵宛に来ている。傷物になった妹を貰ってやるという上から目線を兄であるアルバンに直接かけてきた自称同僚もいた。
もちろん即座、お断りだ。名の知れた騎士団を抱える領地からの、アーデルハイトを名指しした茶会の招待状はつまるところ見合いの申し出と見てよい。手順を踏もうとするこちらはやはり軍閥関係が多い。魔獣の脅威にさらされた、皇都から距離のある地域からのものが多い。今すぐどうこうというわけではない。離婚は三ヶ月、婚約の解消からはせめて一ヶ月の時間を置くのが礼儀だ。一度お会いしてみませんか、程度のものだが。格下と考える相手からの申込みに激怒した父の手によって破り捨てられていた。
ランベルト・アルニム伯は第五王子との復縁を諦めていないからだ。
下手をすれば王子の不貞相手である男爵令嬢から寝取り返して来いと言いだしかねない。そうなったとき、実父の首を締めない自信はアルバンにもない。
気を取り直し、マイヤー子爵に自分が手助けできることを尋ねた。妹にやってくる縁談を断ってくれとの回答。
相手が王族だろうが、侯爵家だろうが。
どんな圧力にも屈しないでくれだと?
望むところだ。
目を伏せたのは、心を見透かされたのかと思ったからだ。落ち着くため、深く腰かけなおした。
前向きに検討してみれば、ミュラーからの申込みは悪くなかった。悪くないどころか、最良ではないかとすら考えた。
なにしろマルクス・ミュラーは、『勇敢で可憐で、頭脳明晰、果断な行動力を持った天才』である妹を尊敬し、そのうえで恋焦がれていると告げた男だ。見る目がある。並んだ墓を、と求婚に了承した妹も満更ではなかったのだろう。本来、うちのアデルならばそういう男が群がっていてもおかしくはなかった。父親と元婚約者からの評価がおかしかっただけだ。
だってあんなにも可愛くて賢いのだ。
軍服姿の二人に対し、披露した思い出の一つは邸宅の庭にブランコを漕いでいた妹だ。八つの年だ。微笑ましく眺めていた僕と乳母が「あれ、これ少し振りすぎじゃないかな?」と揺れ幅の危険水域に気づいた。「アデル!手を離すな!」叫び、制止した直後。
勢いを殺すのではなく、大きく振りきって一回転した。手を離し、くるんっとまわり。少し離れた場所に両足で着地した。慣性の法則に従うブランコの台も届かない位置だ。名前を叫び、駆け寄った僕は思わず叱責した。
「何故飛び降りたんだ!」
あの子ははにかむ笑顔で言いきった。着地した姿勢のまま、頬を紅潮させた顔だけをこちらに向けて。
「とめるほうがあぶないと思ったから」
「素晴らしい判断力ですね!」
「そうでしょう!?」
「優れた運動神経もまた称賛すべきです!」
「そうでしょう、そうでしょう!?」
あの日の感動を、ミュラー大尉ならばわかってくれると思った。
「ああ…子どもはこっちの予想もつかない行動をしますんで…ちゃんと見守っときましょうや…」
煤けた表情のオーマン曹長が述べた言葉は乳母の反省と同じだった。
企んでいるのはアルニム当主の座の簒奪。そして完全なる婚約解消を王族からもぎとり、今後の不干渉を勝ち取るための計画だ。深刻で、重かつ大な話題であるはずなのに、ひどく前向きな気分になった。時折は声にだした笑いすらももれた。
地獄の釜で踊るなら、ユーモアは正気を保つ大切な手段の一つ。
この二人は、こうやって妹の側にいてくれたのかと感じれば、心がくすぐったいほどに嬉しかった。
それに、ミュラーでならばアーデルハイト最大の長所が活かせる。年上の、義理の弟となる男と僕には共通の敵がいる。手を組むのは自然な流れだった。
皇都は危険だ。妹は王宮に軟禁され、直属の部下が皇都騎士団の営倉に放りこまれている。アルニムに帰ってきたとしても、当主である父がいる以上あの子にとっての安息の地とはならないだろう。
だが、ミュラーならば。最強の騎士団。最強の辺境伯が守る地だ。王族であっても迂闊に手をだすことはできない。
そしてなにより。マルクス・ミュラー大尉はアーデルハイトからの全幅の信頼を手にしていた。
リッター。
勇敢な騎士の話をした。無残な犬の遺体を引き取ったのはアルバンだ。当時、王立学園に通っていたアルバンは間に合わなかった。高熱に苦しみながら、迫る死と戦っていたアーデルハイトとの面会は叶わなかった。乳母と二人、勇敢な騎士の、傷だらけの躯を墓地の片隅に埋めた。
…されど犬の一匹。人ですらない。
くだらない昔話を。と感傷を取り繕ったアルバンを、マルクスは笑わなかった。たかが犬一匹。けれどそれによって救われた軽い命。親からも見捨てられ、裏切られた少女の心の芯を案じ、乞う男の顔をしていた。
アルニム伯爵領が失われたとき。妹の立場はどうなるだろう。
貴族としての立ち位置を失ったとしても、アーデルハイトは生きていける。そもそも彼女はアルニムからの権益を受けていない。とっくの昔に自立し、独り立ちを果たしていた。世間知らずの一面があるのは事実だ。尖りすぎた能力は時に周囲との摩擦となるだろう。それすらも乗り越えてゆける素直さを持った子だ。
心配なのはそんなことじゃない。具体的に言えば、元伯爵令嬢とマルクス・ミュラーの婚姻について。
くしゃくしゃになったカードを持つ拳から力が抜ける。ふっと笑えた。手放すわけがない。ミュラー大尉は押し通すだろう。意志によって道を切り開くのは、なにも妹だけの専売特許ではない。
控えめなノックの音。
後ろに控えたパウルではなく、騎士団長が顔を見せる。
「若君。よろしいですか」
「どうした」
「ミュラーからの援軍が到着しました」
「……早過ぎないか?」
「正確には伝令兵です。お嬢様と令息の婚約の挨拶という名目にこちらへ向かっていたそうです。十名足らずの部隊ですが…それにしては装備がよろしいようで」
「今なら正規兵の一人でも諸手をあげて歓迎するよ」
「はい。ありがたいことです」
ミュラー伯爵からの手紙にあった、手遅れになるまえに、とは。こうなることを見越したのだろうか。大型魔獣の発現率についてが引き合いに出されていた。
他領に踏みこむには装備がよすぎるという探る目つきには薄く笑ってかえす。よいに決まっている。それは、もう。アルニムの領主を暗殺できるくらいには。
「行こう。会わなくては。…ああ、夫人とアロイスは逃亡した」
「……いかがなさいますか」
「どうにもならないよ」
「保護は困難です」
「そうだね。追わなくていい。魔獣に喰われるか。逃げていることに気づいた領民に石を投げつけられるか。どうしようもない。彼らにもトーナメントを勝ち抜いてもらわなければ。…アロイス自身の剣の腕はどうだった?」
「後方以外では、難しいかと」
忠実で礼儀正しい騎士団長には精一杯の表現だった。へっぴり腰のヘッポコだった記憶はある。
「僕が剣をふっている姿を見かけたのは彼が14歳の頃だったかな。あれから成長していないわけだ」
「若君とお嬢様が突出しているのですよ」
「僕は平均だよ。でも、アロイスは靴職人としては生きていけそうだけどね」
視線に促がされたバルトルトがテーブルへと目をやった。ピンク色のパンプス。握りつぶされたカード。
それらに唇を引き結んだ騎士団長はそれ以上の一言も発することなく。仕えるべき主人のあとを追った。
GWが終わりますね。金曜日は「よーし毎日更新しちゃうぜ!」とか思っていたのに、なんだかんだで最終日になっていました。不思議ですよね。
いいねや評価、ブックマークなど、ありがとうございます。反応が本当に嬉しいです。書く気力になります。こんなにたくさんの小説がアップされる中で読んでくださり、ありがとうございます。




