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トン、トン。


何かが僕の肩を叩いたのがわかった。しかし、一度浮き上がりかけた意識は心地よさにガッチリと掴まれてまた沈んでいく。現実を拒否するように僕は何かが叩いてきた方向から背を向ける。


トン、トン、トン。


さっきより一回多く、今度は背中を叩かれる。意識が水面まで浮かび上がっていって僕は「うーん」と唸るように小さく声を上げた。


「あの、朝ですよご主人様。」


優しく語り掛けるような声が耳に入ってくる。

マルが僕より早く起きてるなんて珍しいな。眠気で半分くらい働いてない頭の中そんなことを考える。

僕がゆっくりと起き上がると横にいたマルと目が合った。


「大丈夫ですか?アラームが鳴っていても起きなかったので起こしちゃいましたけど。」


心配そうにマルはそう言った。いや、この話し方はバツか。覚醒しない脳のせいで思考があやふやだ。


「あ、今日は仕事の日なので。マー君は朝ご飯作って食べたら私に代わっちゃいました。」


と、僕の心を見透かすように事情の説明までしてくれた。適当に相槌をうつとバツはとてとてとキッチンの方へ向かう。僕は眠気をあくびで吐き出すと少しずつ頭が起きてきて、とりあえず洗面所に顔を洗いに行く。

なんというか、慣れないなあ。この部屋に同居人がいるというのは。


マルは当初の予定通りあのあとすぐこちらに引っ越してきた。そして約束通り家事をしてくれるわけだけど、僕が元々あまり熱心に家事をしていたわけではなかったのもあって少しだけ生活の質が上がった気がする。というのもマルは意外にも丁寧に家事をする性分だったみたいで、僕がどうせ一人暮らしだしどうでもいいと適当にしていた部分まできっちりこなしていく。こういった生活的部分は根拠もなくマルより僕の方がしっかりしていると思っていたが間違いだったようだ。


バツは近くのスーパーでバイトとして雇ってもらえることになった。記憶を共有しているマル曰く普通に働けているようではあるらしい。まだ一週間も経っていないからどうとでも言えるが今のところは問題はないとのことだ。


「ご飯の準備出来ましたよ。」


後ろの扉から顔を出してバツがそう言った。鏡越しでそれが見えていた僕は振り返らず礼を言ってから乳液を顔につける。


居間のローテーブルには既にご飯、みそ汁、そして目玉焼きなどが用意されていた。

座って手を合わせた後僕はそれらを一口ずつ口に入れていく。

ふと、正面に座っているバツと目が合った。ニコニコとこちらを眺めていて見ているだけで楽しいと言うような感じだ。


「マー君早起きしたはいいんですけどね、ご主人様が寝たままなのですることがなかったらしくて私に代わっちゃったんですよね。おかげで自由時間が出来ちゃいました。

まあ私もすぐ行かなきゃいけないからゆっくりは出来ないんですけど」


そういってバツは苦笑した。


「だから嬉しそうなのか」

「いやまあそれもあるんですけどね。こうやってご主人様の食べるところじっくり見られる機会なんてないですから嬉しくもなりますよ」

「なんだそれ」


僕も思わず笑ってしまう。明かるげな雰囲気が食卓を包む。なんの心配もない楽しいもの。一見そう見えるはずだ。


だが実際は違う。僕はバツが人間的な弱さを晒して以降、彼女への接し方をどうすればいいかわからずにいた。これはそんな僕が一定の距離を保って作っている、そして彼女もそれを理解してその中に踏み込んでこないからこそ出来ているハリボテでしかない。


僕はこの現状を放置していたいわけではない。ただ、具体的にどうすればいいかわからない。

だって僕はマルのためならバツは消えるべきだと思っている。そして異常な行動で隠されていたがしっかりと人間的な感性をもつバツにそんな仕打ちをするなんて非人道的で、端的に言えば可哀想だと感じ始めていた。

どっちつかずになってしまっていた。だからこそこのことを考える度にどうすればいいかわからなくなるんだ。


「あ、もう行かなきゃですね。」


バツがそう言ったので時計を見ると八時前だった。僕も少し急がなければいけない時間だ。

彼女は横に置いてあったバッグを持つと明るい声で「いってきます」と言いながら出ていった。

心にかかる靄の原因がはっきりとしているのにそれが解決できないことにイラつきながら一人朝ご飯を食べる。時間も心の余裕も足りていない気がした。




仕事を終え、自宅に戻るとバツが夕飯の準備をしていた。

なにもやましいことがないように僕に「おかえりなさい」とバツが声をかけてきて、家にいる美女がおかえりなさいを言ってくれることに感動さえ覚えてたんだけど、


「え?バツなの?」


そんなことは置いといてそこにいたのがマルではなくバツだったことを疑問に思って訊いてしまった。バイトを始めてからここ数日、僕が家に戻る前にはいつもマルに戻っていた。

当然今日もそうなるもんだと思っていたから僕は単純に驚いていた。


「…はい。本当は駄目だと思いますけど。ただのわがままですけど。」

「いや、まぁ。」


バツ本人としては代わりたくないのが本心なんだろうと前々から思っていた。当然のようにマルに戻っていたけどバツが自主的に首輪をつけなければマルにならないわけだしそれを強要するのは酷だと思う気持ちもないわけではなかった。


「ご飯作ってたんだよな?」

「え?あ、はい。出来てます」

「じゃあ食べながら話そうか。」


僕がそう言うとバツは顔を明るくしてキッチンの方に行った。その反対に僕は前から抱えていたバツへの悩みもあるというのにこの問題の着地点をどうするべきか考えていて足取りが少し重いまま居間へ向かった。


僕が部屋着に着替えて手洗いうがいを済ませる頃には朝のようにご飯やらおかずやらが並んでいてその匂いが疲れた体から食欲を引き出す。

手を合わせたあと僕ら二人は食事に手を付けていく。美味しいし、それ自体に不満はないんだけどいつ会話を切り出せばいいかわからなかった。

と、僕が話のタイミングや内容を考えている間にバツが箸を置いた。


「ご主人様は悩んでいますよね?多分、わたしのことで」


ピタっと体が止まる。そのあとギクシャクした動きで箸を置いて僕も返答する。


「よくわかったね」

「朝の態度が前と全然違ったので。あんな取り繕った顔でバレバレです。誰でも気づきますよ。」


口調は冗談のようだったが目は全く笑っていない。冷たく悲しそうな印象を与える目が僕をまっすぐに捉えている。

言っている内容が合わさると僕の心が隅々まで見抜かれているのではと思えてくる。それほどにハッタリっぽさだったり胡散臭さのない真剣な目つきだった。


「私、どうすればいいですか?」

「どうって?」

「私のことでご主人様が悩んで、苦しんでいるなら私も苦しいです。だから私なんかのことで悩んで欲しくないです。そのためには、私どうすればいいんですか?」


本心を言っている彼女の気持ちが伝わってくる。僕を苦しませたくないという彼女の本心が。

しかし僕はそんな彼女の気持ちに応えることはできず言い淀む。僕だって教えて欲しい。

どうすれば丸く収まってくれるのかを。


「いいんですよ。私はあなたの言うとおりにしますから。悩まないで、簡単に思ったことを言ってくれれば。」


簡単に、思ったことを。頭の中でその言葉が反響する。

バツのその言葉に後押され僕は今まで開けなかった口を開いて少しずつ思考を言葉にしていく。


「マルが一番大事なんだ。僕の友達で尊敬できて。最近はもっとマルのことがわかってきて。かけがえのない友達なんだ。マルのことを考えたらバツを消す方法を探すことが一番だと思うんだけど。

けど、この前のバツの強がった笑顔がどうにもマルと被って。同じようにしか見えなくて

最初はわかんなかったけどお前は思ったよりちゃんと人間で、感情を持ってて、そんなやつを消してしまったらもうそれは殺人と同じなんだよ。

だから、マルもバツも大切にしたい。バツが消えるとしてもそれを少しでも償えるように幸せにして、あげたいんだ。」


一度言葉が出始めると、つっかえていたものがとれたみたいに一気に全部が出てきて、僕の感情を言語化出来ていたんだと思う。

下らないプライドとか、どっちつかずでクズだなって思ったにしても全部吐き出せて少しスッキリしたような気持ちになる。バツは僕の言葉を聞くと俯いて声を震わしながら言う。


「いいんですか?私なんかを受け入れて。」

「わからない。けど僕はそうしたい。マルとも話し合ってバツを少しでも幸せにしてあげたい。」

「ペットとしてですか?」

「…それはどうだろう。だけど、だから、ワガママとやりたいこと言ってよ。僕にできることならなんでもするから。」


バツは顔を上げて笑って見せる。目に浮かんだ涙が、後から生まれた人格だとしても彼女が一人の人間であることを証明しているように見えた。


「じゃあ、1ついいですか。バイトの日は甘えさせてください。ご主人様に。」

「何すればいいんだ?」

「えっとじゃあ。膝枕を。お、お願いします。」


そう遠慮気味に言うと、バツはソファに座った。

僕が隣に座るとゆっくりと僕のふとももにゆっくりと頭を置いた。横を向いているから耳が見えてるんだけど、そこがほんのり赤に染まっているように見えた。「えへ」、と漫画でしか聞かないようなとろけた笑い声を出しているのがすこし面白かった。


「ちょっと硬いかもですね」

「やれって言っといてそんなこと言うのかよ。」

「いや想像通りですよ。そして想像通りすっごいドキドキしてます。

人格として成立する前の、抑圧されてマー君の一部だった時から、夢だったんです。こうやって大地に甘えるのが。マー君は自覚してないようでしたけど。」


バツはもう一度とろけた笑い声をあげる。少しそれが愛おしく見えてきて、僕は彼女の髪にそっと手を触れた。ピクっとバツがそれに反応して動いたが抵抗する様子もなかったので髪を流してみる。いつもながらさらさらで、綺麗な触り心地のいい髪だった。


「普通に名前で呼べるなら僕の事名前で呼んで欲しいんだけど。ご主人様って呼ばれるの抵抗感しかないし」

「これはこだわりですよ。こだわり。

それより、その、いつもみたいに…撫でてくださいよ。髪触って焦らす方が悪いんですからね。」


言われた通り撫でてやる。そこからバツは静かになってただそれをする時間が続いた。不思議と退屈ではなくて時間はあっという間に過ぎていった。何分か経つとバツは


「今日はこれぐらいで。マー君に嫉妬させるのも可哀想なので」


と言って起き上がった。


「マルはこんなことされたくないでしょ。そういうのはバツに分割されたらしいじゃんか。」

「…そうですよね。変なこと言ってすみません。じゃあマー君によろしくお願いします」


バツは首輪を取り出すと最後は笑顔でマルに代わっていったのだった。




「あんま変なことすんなよ」


マルの第一声がそれだった。僕が何かを言う前に間髪入れずマルは続ける。


「ほんとは嫌だけどお前が満足するならあいつがバイトしたあとぐらいは体貸すから。」

「あ、ありがとう」

「貸し1だからな。あとでなんか奢れよ。」


と、そこまで早口でまくし立てたところでマルは立ち上がっていそいそと僕から離れて正面にクッションを置いて座った。

少し表情が険しいのは僕がまた勝手に約束をしてしまったからだろう。さっきのバツも顔が赤かったのでそれが引き継がれてるのかもしれないけど、今のマルも大分顔が赤い。それも相まって相当怒っているように見える。


「俺も見てるんだからな。」

「え、なに?」

「俺も見てんのになに膝枕とかやってんだよ。気持ち悪い。」

「ごめん。」

「本当に変なことすんなよ。絶対だからな。

あのさ…大地は俺の、その、いや。やめた。」

「なんだよそれ。言いたいことあるなら言えよ。」

「使った皿あとで洗うから水につけといて。シャワー浴びてくる。」

「おい」


僕が呼び止めてもマルはそれに反応せず風呂場へさっさと行ってしまった。

もっと怒られるものだと思っていたが、思ったより何も言われなかったことを僕は疑問に思いつつ皿をシンクへ持っていった。





「おはよ」

「ん、おはよ。」


あれから数日後の朝、目が覚めるとキッチンの方から音がしたのでなんとなくそちらの方に行くとマルが朝ごはんの準備をしていた。確認するとしっかりと首輪がついているので間違いなくマルだった。


「最近ずっと僕より起きるの早くない?」

「まあな。」

「今日バツバイトの日じゃないっけ?」

「そうだけど別に行く前に代わればいいだけだからな。それより顔洗ったり準備しとけよ。」


マルはこちらを向かないままそんな注意を僕にして料理を続けた。なんというか少し元気のない感じがするけれど、朝だからこんなものなのかもしれない。


あれからバツがバイトの日は仕事終わりに甘えさせる日になっていた。マルはあんなもの見せられていい迷惑とよく言っているが、まあ実際迷惑なんだろうけど、バツがやって欲しいというのだから仕方ないだろう。


基本的にはそれ以外はほぼ変わらない生活を送れている。抱えていた不安を1つ解消できて晴れ晴れとした気分でここ数日を過ごせていた。


「いただきます。」


マルが用意した朝食を食べ始める。基本的にマルもバツも料理の腕は僕より上で、満足感がある。


「美味いか?」


マルが感情を込めず淡々と僕に聞くが、いつもはそんなことを聞いてこないのでどうしたのだろうと思いつつも僕は答える。


「美味しいよ。なんで?」

「俺はお前の役に立ててるかなって」

「え?どうしたんだよ突然。」

「…家賃分は働かないと追い出されそうだからな!今のうちに評価聞いておこうと思って」

「そんなことしないけど。鬼じゃないんだし。」


マルは苦笑してまたご飯を食べ始める。

実際僕が作るより美味しいからそんなこと気にしなくていいのに。マルはそういったところの筋を通す男ではあったけれど少し違和感を覚えつつ箸でご飯をかきこんだ。


朝食を食べて、外に出ると外は少し薄暗い曇り空だった。バッグの中に折り畳み傘を確認して、何か少し嫌な予感がしつつも僕は通勤路を歩き出した。




幸い、帰り際まで雨は降らず僕は濡れずに帰ることができた。家のドアを開けるといつものようにバツがやってきて


「お帰りなさいませ。ご主人様。」


と僕に声をかける。メイドにでもなるつもりなのだろうか、と思える出迎えだがいちいち気にしていては疲れるだけだ。

僕はいつものように部屋着に着替えいつものようにふたりで夕食を済ませた。


「今日はどうする?」

「そうですね。じゃあまずソファに座ってもらえます?」


ここはいつもとは違うな、と思いつつも僕はソファーに座る。すると、バツは僕のすぐ前に、僕を椅子にするように座った。


「これ一回やってみたかったんですよね」


とバツは嬉しそうに言うとテレビの電源を付けてテレビを見始めた。

今までより触れてる部分が多いのとすぐ近くに密着しているからいい匂いまでして僕の内心は穏やかではなかった。静まれ、静まれ、と念じてみても収まる気配はない。


「私、すごく幸せですよ。ご主人様。こんなに幸せでいいのかって思っちゃうぐらい幸せです。」


そんな僕をよそにバツが静かにそう言う。表情は見えないけれど本当に落ち着いたその口調がまたこれもいつもと違うように思えた。


「幸せすぎて多分調子に乗りすぎたんですかね。ちょっと今日失敗しちゃってお客さんに怒られちゃったんですよね。」

「そういうこともあるだろ。」

「みんなそう言うんです。」


少し強めた語気でバツはそう言った。


「みんな慰めてばかりです。私は、失敗したんですよ。駄目な私に必要なのは慰めではないと思うんです。」


いつのまにか僕の腕がバツに掴まれていた。バツはそれを自らの首までもっていって、僕の手に彼女の首筋が触れる。少し冷たくて、すべすべしていて、すこし擦るだけで傷つけてしまいそうなほど繊細な首筋と肌だ。


自分の息が荒くなり始めていることに気づく。バツは、振り返りこちらを見上げる。

妖艶。という一言が相応しい色づいた笑顔に僕はドキリとさせられる。


「今、ご主人様の手に触れているものを強く握れば、私に苦しみと罰を与えられます。私の生死はあなたの手の中。」


いつかに感じた心の底で何かが蠢くような感覚。それが少しずつ蘇ってくる。

それを否定しようとしても否定できない。目の前の彼女に少しずつそれが呼び起こされていく。


「やっぱりこんな私は受け入れられませんか?」


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