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マルが女になってから二週間。本音を打ち明けて少し気が楽になったのか、無理に笑顔を見せて強がるようなことはなくなった。以前のようにコロコロと表情が変わると言うか、よくも悪くも感情を隠さなくなった。
それはもちろん今現在もで、マルは光の無い絶望が混ざった眼で虚空を見つめている。
「元気出せよ」
僕がそう言うとマルは首をフルフルと横に振って
「へこむよなぁ。ここまでくると。」
と独り言のように言った。ここ一週間、病院に行ってみたり、ネットで情報を集めたり、とにかくマルの女体化した体の手がかりを探し続けた。
しかし結果は散々で、病院へ行くと鼻で笑われるか精神科を勧められ、ネットでは都市伝説程度の情報しかなかった。いやまあ、バツの件に関したら精神科案件なのかもしれないけどそこら辺は混ざると事態がややこしくなりそうなので伏せておいた。
それで何も成果を上げられず手詰まりだからマルはこんなにも生気がない顔でぼーっとしているわけだ。
「俺はさ、良かったと思ってるよ。国の実験台にされなくて。俺、まだ死にたくないから」
マルは何を言っているんだろうか。そんなSFじみたことになるわけがないだろう。いや、あながちありえなくもないのか。実際に都市伝説やフィクション程度でしか出会えないような現象が目の前で起きたわけだし、実験とまではいかなくても拘束されて観察や調査されることはないとは言い切れない。
はぁ。
ため息をつく。陰鬱な雰囲気をさらに濃くすることはわかっていたが止めることはできず無意識的にそれが出てしまう。
「お前こそ元気出せよ。俺は見た目ほど落ち込んでるわけじゃないぜ。」
マルがそんな僕を見て言った。10分もそうしていたのにか?、と言おうとしたがそれを遮るようにマルが立ち上がる。あまりの勢いに体がビクンと反応してしまったがそんなのお構いなしにこちらに指をさしてくる。
「俺には協力してくれる心の友がいるからな」
そう自信満々に言い放った。少し動揺はしたものの元々のテンションが低かったこともあって、僕はどちらかというと呆れ半分で
「ちょっとクサいかな。それは。」
と思ったことをそのままに伝えた。するとマルはいつものように口を尖らせて不満そうにこちらを見つめ続ける。
こちらとしてもそう言ってくれるのは嬉しくないわけではないんだけどそれをそのまま伝えるのも癪だという気持ちもあってすこしぶっきらぼうな感じになってしまっていたのかもしれない。そうやって内省してもそれが相手に伝わるわけもないのでマルは
「そんなんだから友達いないんだよお前」
と、負け惜しみのように言った。実際負け惜しみではなく事実でしかないんだけど。ただ、こうもコンプレックスに石直球を投げつけられては流石の僕でも多少は頭にくる。
「関係ないだろ。」
「いーや、あるね。なんなら彼女いない歴にも関係してるね。大地。お前には相手を慮る気持ちというのが足りてない。」
「マルと僕は気遣い合うような浅い関係じゃないだろ。」
「そ、そうだけど」
マルは僕の言葉に一瞬驚いたような顔をして口ごもる。何を思ったのかわからないが気まずそうに目を逸らしている。
「そもそも真の友情、愛情とは自分の本当の姿を相手に見せることから始まるんだ。そんな相手に媚びへつらうようなことはあってはいけない。本当の姿で付き合ってこそ健全で素晴らしい真実の愛をもった関係をつくることができるんだよ。」
動揺したマルにとどめをさすために、ここぞとばかりに僕は持論を語る。尊い人と人との関係というものを。恥ずかしいから今まで人に対して語ることはなかったがひたすら独りで考え続けた完璧な持論。満員の日本武道館で講演を開けば拍手喝采、感動のあまり涙の雨が降ること間違いなしだと確信できるほどに完成された論理だ。
しかし、マルの反応は僕の描いたものとは全くと言っていいほどに異なっていて、興奮や感動の最初の一文字も含まれていないような冷めた目をしていた。馬鹿にするような半笑いがまた、僕の心の炎に薪を入れていくようだった。
「絶対今の大地の方がクサいこと言ってる。ピュアな中学生みたいな価値観しやがって。」
「なんだと」
「ごめんね。大地君のプライド傷つけちゃったね。大丈夫だよ。大地君は立派な大人の価値観を持ってるよ。そのまま汚れなく生きてね。」
「あー怒らせた。遂に温厚な僕をキレさせてしまったな。覚悟しろよクソ陽キャ。てめえの三半規管を頭から取り出して動物園に畜生の餌として寄付してやるからな?」
「いやーんFPSが出来なくなっちゃうわぁ。」
マルがそう言って振り回したクッションが僕に数回当たる。痛くはないけど衝撃で体の軸がブレて鬱陶しい。
僕が無言で睨み続けると、マルはその動作をピタリと止めて“ごめんって”と少し申し訳なさそうに言った。
「まあ、俺が言いたいことはお前がいてくれれば気持ち的に楽だしそんな気負わなくていいってこと。」
「そんな楽観的な」
「焦ったっていいことないしな。それにある日いきなり戻るってこともあるかもしれないし。楽観的でいいんだよ。」
ニコニコとした笑顔でマルはそう言い切る。
本人がそう言うならいいんだけど、また強がりが入ってるんじゃないだろうかと心配になる。黙っておくとそう思っていることが覚られそうなので僕がとりあえず頷くと、今度はマルの方からため息が聞こえる。
「大地も大概わかりやすいよな。表情に出すぎ。
俺たちは変な気遣いするような仲じゃないって言ったのお前だろ。前みたいに我慢しないから。心配すんなって」
「…わかった。」
こう穏やかな表情で、しかも自分の言った言葉をそのまま跳ね返されるとこちらとしてはぐうの音も出ない。
少し過保護的になりすぎていたのかもしれない。前のマルは少し危ういところがあってそうせざるを得なかったが今のマルに対してむしろそういうのは不必要なものだということになんとなく気づいた。
「ということでさ、することもないし気晴らしにどっかいこう。」
僕がマルに感心しかけたところで、彼はいきなりそんなことを言いだす。いかにも「今思いついた」という風に人差し指をピーンとたてているが、なんというかあからさますぎて僕が大人しくなったタイミングを狙っていたのではないかとすら思える。
そもそも何が「ということで」なんだ。前後の話が全く繋がっていないじゃないか。
「俺、温泉に行きたいです。」
そんな風に思っていることをまた勘付かれたのか僕が反論する前にマルは付け加える。そういう小癪なところだよなぁと思いつつも、最近なにかと疲れが溜まっている気がするのでそれも悪くないとも感じていて、思わず僕は「温泉?」と聞き返してしまう。
狙い通りというようにいたずらっぽい表情をしたマルは「そう、温泉。」とさらに強調する。
「俺この半年間忙しくて行けてなかったんだよね。だから行きたいなあって。日帰りで行けるし」
「そんな温泉好きだっけ?」
僕が聞くとマルは身を乗り出して
「好き好き」
と言ったがどうにも胡散臭く感じる。こうやってあからさまにこっちに身を乗り出してくる感じが本当に胡散臭い。そもそもの話マルから温泉の話題なんて聞いたことがない。
「いやほんとに下心なんてないから」
「僕何も言ってないんだけど。お前女湯入りたいだけだろ。」
「なわけ」
目を逸らされる。これは100%クロだ。
「なんか前よりアホになってない?前はもっと切実に戻りたそうだったじゃん。」
「色々とぶっちゃけて多少ストレスから解放されたからな。少し余裕ができた。」
「それにしてもさぁ…そもそもの話首輪つけたまま温泉入るつもりだったの?」
「あ~首輪。」
忌々しそうにそう言うとマルは首輪を握る。しかし数秒後明るい顔をして彼はこう言った。
「あいつと記憶共有されるから首輪外してあいつに任せればよくね?」
「いやバツは主導権渡されたら女湯行かなさそうじゃない?」
「それもそうか。不便すぎる。」
本当に残念だったみたいで、マルは悲しそうにしゃがみこんだ。理由から目を背ければ少し可哀想かもしれない。理由から目を背ければだが。
「けど正直さ、そんなことしてる暇ないと思うよ。」
「え?なんで?」
「ちょっとまた暗い話に戻る感じになるけど、会社二週間も休んでたらそろそろ家に人来そうじゃない?そうじゃなくても人が来るかもしれないし。そこで今のまま鉢合わせになったら不審者扱いだし。現実的に考えてマルは引っ越さなきゃいけないと思う。今のところ戻れる手がかりもないわけだし。」
「それは、まぁ、そうだな。」
歯切れの悪い感じでそう言ったマルはしゃがんだまま俯く。僕も一緒に見て見ぬふりをして気晴らしに協力してやることは簡単だが、やるべきことはやっておかないと取り返しのつかない事態に陥る可能性もある。なら僕は雰囲気に流されずそれを言うべきだと思った。
「けど引っ越し先はここでいいしそんな深刻な問題じゃねえよ。」
あっさりとそう言われて「そうか、それならいいか。」なんて僕もあっさりと返答する。
「いや待て。それは駄目だろ。」
すぐに訂正するんだけど。
「は?なんで?」
「いやマルいま女じゃん」
「そんなの気にしてんのかよ気持ち悪。男だし。」
心底軽蔑したような感じでこちらを見る。その声は少し震えていて怒りや動揺が見え隠れしているような気がした。
「当たり前だろ。童貞だし。」
「ほんとに気持ちわりーな。慣れろよ。今すぐ慣れろ。」
「そんなすぐは無理だって」
「…協力してくれるって言った。」
比較的静かに発せられた最後の一言が僕の中で木霊する。
自分から頼れ、協力するなんて甘い言葉を使っておいて友達を裏切るのか?僕は
そんな問いが頭の中を駆け巡った。ここで断るのはマルへの裏切りに近い行為だとも思えて、そんなことをしかけた自分が情けなかった。
マルは潤って今にも何か零れそうな上目遣いでこちらをみつめている。しゃがみこんだその姿もあいまってそれがものすごく小さく見えて。それに対応する自分の罪がますます大きく見えて。僕は今にも潰されそうになった。
「悪かった。よく考えればマルはマルだし。うん。大丈夫だよ。ここならいくらでも貸すよ」
「…チョロ過ぎだろ。俺が出れない間とかあの変態に騙されんなよ?」
上目遣いをあっさりとやめてマルはそう言った。マルの演技は基本大根役者並みだが、今の容姿と合わされば間違って信じ込んでしまうこともあるというのがよくわかる。
実際マルが言うように、バツが悲しそうにしていると心苦しくなることもあるから今のように騙されることはあるかもしれない。
それはそうと目の前で“やーいやーい”と小馬鹿にされるのは癪に触る。
“ごめんって”と謝るマルの姿にはデジャヴを感じたがいちいち気にしていては話が進まないので、僕はそれを振り切って話を続けた。
「まあいいよ。僕がここ貸せば解決するわけだし。」
「話がわかって助かるね。じゃ、家賃なんだけど」
「家賃はいいよ。今はマル収入源ないし社会人半年じゃ貯金もないでしょ?」
「それは住まわしてもらってる以上よくない。俺の気がすまない。」
「けど、金はどうするのさ。」
「それに関しては考えがある。バツに働かせよう。」
「え?」
マルからそんな言葉出たので驚く。僕の驚きようにマルも驚いたみたいで目を見開いていた。
「驚くことじゃねえだろ。あいつに定期的に主導権握らせるって約束あっただろ?その時間を全てバイトかなんかに使ってもらおう。お前の役にも立つわけだしペットなら本望だろ。」
お前はペットを奴隷かなんかと勘違いしているのか?と訊きたくなるような発言だ。
あっさり言ってるがあまりにもクズに振り切ったマルの考えに僕は心底引いていた。それを見たマルが慌てて付け加える。
「いや、俺もできればちゃんと働いて家賃出したいんだけど、さっき言ったみたいに首輪着けてちゃバイトでも雇ってくれるところなさそうだろ?苦肉の策だよ。」
「まあ、それはそうか。けどバイトの長い時間バツに体貸すことになるけど…」
「それは嫌だけど仕方ねえよ。お前に家貸してもらうだけっていうのが俺としては許せねえし。あ、もちろん家事とかもやるぜ。こっちは俺がやるけど。」
そんなに頑張らなくていいのに、と思ったが逆の立場になった時に何もしなくていいと言われたらそれはそれで嫌だろうし仕方のないことなのかもしれない。
しかし、バツ本人がいない中で勝手に決めては彼女にも悪い気がしたので僕はマルに確認する。
「話は大体わかったけど無理強いはできないよ。なんならこっちとしては家事やってくれるだけで助かるし、バツが拒否した時は受け入れてくれ。それで追い出したりしないから」
「…お前がそう言うならいいよ。」
“頼むぞ”とだけ言い残してマルは首輪を外した。
「話は聞いてましたよご主人様。」
目を開けると同時にバツはそんなことを言って起き上がった。急に目をパッチリ開けて話すもんだから僕はそれがいつか見たホラー映画と被ったように見えてビックリした。
その様子を見てバツは首を傾げる。本人としては驚かせるつもりはなかったんだろうけどまだ僕の心臓はバクバクと音をたてていた
「どうかしましたか?」
「あ、ああ。いやなんでもない。それで聞いてたなら答えを聞きたいんだけど」
「もちろん良いにきまってるじゃないですか。ペットはご主人に尽くすものです。あなたに貢がせて下さい。」
そういってバツは両腕を広げて近づいてくる。まるでハグをしようとするみたいに。いや明らかにそのつもりだ。
あまりに急だったから僕は慌ててそれを避けた。
「なにするんですか」
「何するんだはこっちのセリフだろ。急になんだよ。」
「出てきたの久々だったので。ペットとしてスキンシップを。
けど元はといえばご主人様たちが悪いんですよ。一週間も私の事閉じ込めておくから。」
確かにマルが酔っ払って首輪を外して以降バツが表に出たことはなかった。僕としてはマルのことを優先するべきだと思っているし、ここ一週間は病院等を回ったりで忙しかったから時間がなかったともいえるがそれでも確かに惨いことをしてしまったと思う。
「お二人の気持ちを考えればこういう扱いをされるのは理解はできます。ご主人様にとってマー君は大切ですもんね。
けど同じように私はご主人様が大切で会いたくてなにより…」
そこでバツの言葉が止まる。ハッとしたような表情を見せてそこで言葉を止めた。
「こんなこと言いたかったわけじゃないのに。」
ぽつりとそんな言葉を漏らす。
そうか。そうなんだな。バツもちゃんと考えて、感じて、生きている。マルや僕となんら変わりのない人間なんだ。異常性ばかり見せるけど少し拗らせて、歪んでしまっただけの人間だった。思えばマルの時もそうだった。
僕は周りをよく見ることが出来ない自分本位の人間ということなのかもしれない。
「ごめんなさい。」
「いや謝るのは僕の方だ。約束破ってごめんな。許されないだろうけど」
「許すとか許さないとかないですよ。ご主人様ですから。何があっても信じます。妄信し続けます。だから頑張りますね。ご主人様に愛されるために。」
笑顔でそう言うバツの表情はとても見覚えがあるものだった。明らかにあの表情と同じだった。
そして今の僕にそれをどうにかすることは出来ないんだろうなとも確信した。
そもそもどうにか出来るのだろうか。だって僕はこれからもマルを優先し続けるだろう。
そんな僕が彼女に対して何をしてあげられるのだろうか。
「ご主人様?」
バツが僕を呼ぶ。彼女の顔はすっかりその表情から変わってしまったが、僕の脳裏からはそれが離れない。
多分僕はもうバツをあまり無下に扱うことはできない。僕の中の彼女の認識が理解できないものから変わりつつあるからだ。一時の同情でこんなになってしまう自分を呪いそうだ。
「最後に前みたいに撫でてもらえませんか?」
僕が言われた通りに撫でてやるとバツは静かに、けど嬉しそうに声を上げた。そんなバツとは対照的に僕は唇を噛み締め続けた