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「待て、と命令してくれたこと自体は嬉しいんですよ。やっと私を飼ってくれる気になったんですよね?次はおすわりですか?それともお手?」
『アレ』がそんなことを言っているのを他所に僕は危ないから一度コンロの火を止めた。
そして生暖かい彼女の体を無理やり振り払って叫んだ。
「飼うなんて言ってないだろ。なんであんたが、マルはどうしたんだ。」
責め立てるように、雑念を払うみたいに叫んだ。
すると彼女は悲しそうにこちらを見てきて、少し心が詰まる。マルに関しても言えることだが、この女の見た目は本当に可愛らしい見た目をしていて童顔で子供っぽい感じがあるのが一層庇護欲を誘うんだ。
こんなものを傷つけてしまって本当にいいのだろうか、と思える程に。
ただ、ここは心を鬼にしなければいけない場面だ。尊敬する友人の体がおかしなことになっているんだ。これ以上に怒る理由があるのだろうか。
僕は彼女に詰め寄って、返答を待つ。
「私は出てきただけですよ。外されたから。」
しゅん、とした表情のまま彼女は話した。一瞬、なんのことかわからなかったけどよく見ると首輪が着いてなくて多分そのことなんだろうなと僕は察した。
「私のもう片方の人格が外したんです。ご主人様の素晴らしい考察を無視して。少し迷ったみたいではあるんですけど、シャワーを浴びるには邪魔だからって。
ちょっとお馬鹿ですよね。」
「…やっぱり首輪が入れ替わりのスイッチなのか?」
「多分そうです。」
「多分ってなんだよ」と小声で呟くと彼女はそれに反応して、
「私もこの体について全部知っているわけではないですからね。」と言葉を付け加えた。
なんというか、ちゃんと会話が出来ていることに僕は内心驚いていた。最初の様子から彼女は全く話が通じないものだと勝手に決めつけていたが、こちらが態度を変えてからは冷静にしっかりと会話が出来ている。
これならばマルが知らないようなことまで彼女から聞き出せるかもしれない。
「あんたはなんなんだ?」
「なにって。ちょっと難しい質問ですね。」
僕の質問が抽象的すぎたせいか彼女はうんうんと唸りながら考え始める。埒が明かないように思えたので聞き方を変える。
「なんでマルが女の子になっているかとか、なんで二重人格になっているかとか。なんでもいい。知っていることを教えて欲しい。」
彼女は“あ~”なんて何に対してか納得したような声をあげたあと、こちらに向けて人差し指を一本立てて見せた。
「条件が1つあります。」
どうせまた「飼ってください」なんだろうなと思った。というかそれ以外に思いつかない。
僕は呆れ半分でその要求に対して首を縦に振った。彼女が言ってるだけとはいえ人間の飼い主となるのは精神的にくるところがあるだろうが、また首輪をつけてしまえばマルに戻るのだから正直どうってことない。
しかし彼女は何も言わずこっちを見つめたり俯いたり、挙動不審な様子を見せるのみだった。恥ずかしがっているような、照れているような、言葉を出すのに苦労している感じだ。
今更何かを恥ずかしがることがあるのだろうか、とも思ったが目の前の奇人がこうなるということはとんでもないことをいいだすのではないかとも思った。
急かすように「どうした?」と声をかけると、ようやく彼女は口を開いた。
「名前、を付けて欲しいです。…私に。」
「そんなことでいいの?」
「そんなことって何ですか。」
「ごめん。」
思わず声に出るくらいには拍子抜けした。
今までの奇行の方が恥ずかしいだろうと、何を恥ずかしがっているんだと。
奇人の感覚は多分僕じゃ理解できないものなのだと諦める。
「名前決めればいいんだろ?”バツ”で。」
我ながら安直だなと思った。
「安直ですね~」
実際そうだから何とも言えない。付けられた本人は安直といいつつ口元がにやけてて嬉しそうなので、まぁ良いだろう別に。
「では今日から私はバツです。これでマー君と区別が出来ます。」
「マー君ってマルのこと?」
「そうです。可愛いでしょう?」
その呼び方だったらあんたはバーちゃんになるけどいいのか?と思ったが心の奥にしまい込んでおくことにした。
「それで、本題に入るけど。」
そう僕が言うとバツは手に顎を置いて考えるような仕草を見せる。
「そうですね。私の知ってること。知ってることですか。残念ですけどこの体が女の子になった理由は知りませんね。マー君が言ってたこと以上の情報もないですし違う点もないです。」
「ほんとか?」
嘘を言ってるようには見えなかったが一応確認する。というのもあとはバツ以外の情報源もないのでここで原因がわからないとどうにもならない。本格的に原因不明の現象だ。
だから僕は縋るように、そう確認をするしかない。
「ほんとですよ。信じるか信じないかは別として私は本当のことしか言いません。
それとも嘘をついたら飼い主らしく躾やお仕置きをしてくれるんですか?」
「しない。」
「じゃあ信じてください。別にマー君にもご主人様にも悪意はありませんから。」
僕としては嘘をついているようには見えない。ここは信じるしかない。
しかしそれはもう本格的に原因への手がかりが0ということになって、ますます状況が悪化しているということでもある。
僕は少し気分が憂鬱になってため息をついた。
「なんですか。疑うくらいなら罰してください。さぁ。どうぞ」
「いや、信じるよ。信じる。それで、バツはなんで生まれたの?」
「随分な言い草ですね。」
「いや言い方が悪かった。どうしてマルとバツは二重人格になってしまったのかなって。やっぱりこっちもわからない?」
また顎に手を置いて考える仕草を見せる。少し長く考える彼女の姿を見て望みが薄いように思った。
フライパンの上の野菜炒めを少し見てみる。さっきまでもうもうと出ていた湯気がなくなっていて温めなおさなくてはいけないなと感じた。料理が冷めるとまではいかなくても多分ぬるくなるくらいには話していたらしい。
「わかるかもしれません。というより私はわかんなきゃおかしいかも。」
唐突にバツがそんなことを言った。いや勝手によそ見をしていた僕が悪いんだけど。
「おかしいって?」
「順を追って話しますね。マー君って結構人付き合いで演じちゃうタイプなんですよ。ペルソナって言うんですかね。社交的仮面をかぶってあまり素の自分を出さないと言うか。行き過ぎた気遣い上手というか。」
「は?」
僕の知っている稲城丸という人間は裏表がなく、こちらの懐にグイグイと入り込んでくるようなヤツだ。それでいてみんなに優しくて付き合いやすくて。僕とは出来が違う。尊敬できる人間のはずだ。
それが演技?素じゃない?なんだそれ。それこそ嘘だろ?いや絶対に嘘だ。
「ご主人様?」
バツが心配そうにこちらを見ている。僕はその言葉に我に返って“すまない”とだけ言った。
「信じられないですか?確かにガサツな人ですもんね。ご主人様の前では。」
「あぁ。僕には信じられない。」
「素を見せてるの基本ご主人様に対してだけでしたからね。」
「そうか。でも僕は…?待ってくれ。どういうことだ。」
「そのままの意味ですよ。」とバツは言ったが僕は意味がわからなかった。混乱をする僕の様子を見ておかしかったのかバツは少し微笑んだ。
「マー君は人に対して弱みを見せるのが極端に苦手なんですよ。素を見せてしまうようなことも恐れています。まあ端的に言えばカッコつけてるわけです。
けどご主人様にはほとんど素で接しています。カッコ悪いとこも見せてます。ご主人様のやさしさに甘えているんですよね。ご主人様なら大丈夫って。
まあそういう理由もあってマー君はご主人様を他の友達と会わせたがらなかったわけですね。素の自分を他に見せないために。」
少しほっと安心している自分がいることに気づいた。今まで見てきた友達の姿が演技だとか言われたら裏切られたような気もするので僕としては少し安心した。ほかのマルの友達は少し可哀想な感じがするがむしろマルにもそういう面があったんだなと親近感を覚えるような感じがする。
「それでその話と二重人格になったこととで何の関係が?」
「そうですね。言うならばマー君のご主人様に甘えてるところが元になって私は生まれたんです。」
「甘えを元に?」
オウム返しのようになってしまったがそれほどに僕はバツの言っていることが理解出来ずにいた。彼女の話ではバツが元々マルの一部であるような言い草だが僕にはそう見えない。全く別物のように思える。それにバツのは人に対しての甘えというにはあまりにも違うように思える。彼女が幾度となく繰り返す『飼う』という行為に結び付かないように思えた。
目が合ったバツはまた穏やかに微笑んだ。けどさっきの微笑みとは何かが違っていて背筋をゾクリとさせるような表情だった。
「まあ、言いたいことはわかりますよ。甘えというには歪みすぎてる。けど私にとって信用できる人間なんてほとんどいないんですよ?甘えて素を出せる人間なんてものもほとんどいないんですよ?あなたは私にとって特別なんですよ。
そんな人間に全てを預けて、支配されて、飼われるなんて最高じゃないですか。
これはマー君の甘えの延長線上にある私だけの感覚。あぁ、あなたに支配されたい。」
そう語る目には間違いなく狂気が潜んでいる。本物の狂気が。それが言葉に真実味を帯びさせる。間違いなく今語った彼女の願望は真実であって、今までの奇妙な言動にも一貫性を持たせている。
「話、逸れちゃいましたね。」なんて彼女は言った。何かが僕の心の底で蠢いているような感覚に揺さぶられながらも、僕は平静を装って「続きを頼むよ」と答えた。
「マー君、この半年間は結構大変だったみたいです。仕事のような上辺だけでの人付き合いが辛かったとか、残業が多いとか、ご主人様に会えないこととか。まあ色々原因はあったみたいで、どんどんストレスが溜まっていったんですよね。
まあそこまではまだ許容範囲内だったんですけど、そんな状況で何故か女の子になってあれこれ考えちゃった結果、ストレスが限界に達した。
そしてそのストレスから逃げるために私が生まれたんです。可愛らしい女の子になって、もしかしたらご主人様に本当に飼ってもらえるんじゃないか?なんて楽観的な考えが出来る私が。」
なんとなく理解できたような気はする。多重人格は多大なストレスを受けたことが原因でそうなるというのも聞いたことがあるし、話の筋は通っているように思えた。
「まあ憶測というか、私の中での話でしかないんですけどね。」
最後にそう付け加えてバツの話は終わった。
あわよくば何か解決の糸口でも掴めればと思ったが、これは僕に何とか出来る問題なのだろうか。女になった件に関しては全く情報がないわけで。
元に戻すなんて諦めてしまった方がいいのかもしれない。そう思ってしまうほどゴールが遠いように思えた。
「そんなに難しく考えないでくださいよ。もっと楽しいことしません?お手の躾とか。」
バツは呑気にそう言った。自分のことを隅々まで僕に語ったあとだというのにブレないのはなにかマルに通ずるところもあるなあと感じた。
「そうだな。」
僕がそう言うとバツは目を輝かせながらこちらに近づいてくる。近づいてきたところにバツの肩をガッチリと掴んで逃げられないようにする。
普通、何かを感じて逃げようとする場面だとは思うが彼女は爛々とした両目で僕を見つめたまま動かない。
「まずは首輪をつけようか。」
「え?いやです。」
まずはバツが持っていた首輪を奪い取った。逃げようと抵抗はしているが今更遅いと言う感じで首輪を持った右手を彼女の首元まで差し掛かっている。
「虐待だ!ペット虐待反対!」
「最初は着けられたがってたろ。大人しくしなさい」
「あの時はこれで入れ替わるなんて知らなかったんです!」
そんな問答を続けながら数分、彼女の方の体力が尽きたみたいで
「待って、わかりましたから、ちょっと待って」
と言ったので僕は一度動きを止める。
「流石、優しい。ご主人さま。好き。」
ぜえ、ぜえ、と息を切らしながらバツはそう言った。
「大人しく首輪つけられるので、1つ約束してくれませんか?」
「内容によるけど」
「定期的に私のことも外に出して欲しいです。それだけ約束してもらえれば言われたらいつでも首輪自分からつけるので」
外に出すと言うのは首輪を外してバツに体の主導権をとらせるということなんだろうけど、これを約束したらマルは当然嫌がるだろう。
逆に一生バツをマルの中に閉じ込めるのも気の毒という感じはする。
少し出してあげるくらいなら許してもいいとは個人的に感じる。問題は本当に自分から首輪をつけるかどうかだ。
「…首輪を着ける前に頭なでなでしてくれたら嬉しいです。」
要求が1つ増えた。
無言で頭に手を置いてやるとこちらに首を差し出してきた。今のところは嘘ではないらしい。
「マルには言っておくから。またね。」
最後にそう言うとバツは嬉しそうに返事をした。そしてロックを閉めたらさっきのように彼女は倒れて、僕はその体を受け止めた
10秒も経たないうちにマルは目を覚ました。正直このまま眠ったままだったらどうしようかなんて考えていたが杞憂だったようだ。
「マル。あのな、まず言わなきゃいけないんだけど」
「全部聞いてたから知ってるよ。俺とバツで記憶共有できてるから。」
バツはぶっきらぼうにそう答えて、僕を押しのけるように立ち上がった。マルの顔を見ると眉間にしわが寄っていることに気づいた。もしかして、いや間違いなく怒っているようだった。
勝手に約束したせいだろうか。
「ごめん。勝手に約束しちゃって。」
「それはいいよ別に。ない方が良かったけど。
…それよりさ。その、勘違いしないでほしいんだけど。えっと」
マルは何か言い淀んでいる。約束の件がどうでもいいってじゃあ何が原因で怒っているというのか。
「あいつ、バツが言ってたことだけど。別にお前が特別とかじゃねえから。みんなにも素だし。」
「あ、あぁ。そうなんだ。」
「お前に会えなくて寂しかったとか思ってないし」
「そんなこと言ってたっけ?」
沈黙。黙りこくってマルは俯いた。
「照れてんの?」
「黙れ。」
怖い。顔は見えないけど、声に威圧感がある。
「甘えってなんだよ。クソが。俺は違う。俺はそんなんじゃない。」
「僕は別にそんな気にしてないよ。」
「本当に違うからな。てか言葉選びがキモ過ぎる。もう少しなんかこうあるだろ。」
マルはそう言うと壁に向かって歩き出したかと思うと、何かをぶつぶつと壁に向かって呟きだした。
正直今日一番精神的にキてるように見える。第三の人格が出来そうな勢いだ
「明日からどうしよ」
ぽつりとそんな言葉が聞こえてきた。確かにマルにとっては重要な問題だから気にせざるを得ないだろう。特に精神的に弱ってる今なら。
「大変だったんだろ?少し休んでもいいって」
「でも…」
マルは何かを言うのをやめてこちらに振り返った。
「そうだな一回休むか。…けど今日は帰るわ。ちょっと一人で考えたい」
「…大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。むしろここにいるとスケベな大地君に襲われそうで危険なんだわ。作らせておいて悪いけど一人で飯食ってくれや」
マルはそう言って笑ったが明らかに無理をしているのがわかった。ここで1人で行かせてはいけないような気もしたが僕に何かができるわけでもない。
そんな風に迷っていると、マルは玄関の方に歩き出した。
「そんなに心配すんなよ。俺は大丈夫だから。」
顔も見せずに出ていくマルを僕はただ見送ることしかできない。
バツはマルが僕に甘えているとか素を出しているとか言ったけれど、マルは僕をあまり頼ってくれない。それこそ甘えて頼ってくれていいのに。
助けを求めてくれないマルにも助けが必要な彼に手を差し伸べることすらできない僕にも嫌気がさした。