1話 雪とリコと休日
“良くないものを除いてくれますように”
“清い心の持ち主になってくれますように”
そんな祈りと願いが、私の名前には込められている。
※※※
ツェポネチカは海がある街だ。
気候は温暖で、大部分が山岳地帯を占めている。
都会とは言えないけど、豊かな自然は心を落ち着けてくれる。
蜜柑によく似た果実の生産が盛んであることが、私にとっては何よりも嬉しい点。
名前は確か、マリーダ、だった気がする。
「ユキ、起きてる?」
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
私は窓の外を見ながら返事をする。
魔術師たちが箒に乗ってどこかに向かっている。
近いような、遠いようなところにある海は、知らない場所に見えた。
「好い天気だね」
「うん。ねえ、学校って、あれだよね」
岬っていうんだっけ。
隣に来た彼に聞くと、肯定された。
砂浜などの、海までの傾斜が切り取られた崖のような地形。
山脈が沈んだかのようなその上に、私の通うアールグリィス魔法学校はある。
私の知ってる学校に似ているようで似ていない、魔法を教える学校だ。
「この世界に慣れた?」
その言葉に込められた感情がわからなくて、隣を見る。
丸眼鏡の奥にある目と、私の目が合う。
私のことを心配する優しさしか含まれていないとすぐにわかって目を逸らした。
目の奥が熱くなって、鼻がツンとしてきたから。
「学校には、慣れたよ」
そっか、と返したその声が、少しだけ残念そうにしている気がした。
私はこの世界の人間じゃない。
そのことを知っているのは、一年前に私を拾って養子にしたリコだけ。
傍から見たら兄妹にしか見えない私たちは、実際、年齢的にもそんなに離れていない。似ている似ていないはおいておくとして。
そんな年齢で、遊ぶこともせず赤の他人を養う彼は相当のお人好しだと思う。
騙されたり、いいように扱われたりしないか心配だ。
「懐かしいなぁ。校長って今も変わってないの?」
「白くて大きい風船みたいな校長だったら」
風船というより、お饅頭とかお餅っぽかったけど。
お饅頭もお餅もあるかわからないから言わない。
名詞や街の雰囲気は、日本とはだいぶかけ離れているから。たぶん、東の方の国でもないと思う。
探せばこの世界にも日本に似た国があるのかもしれないけど、私は日本に似た国じゃなくて、日本に帰りたい。だから、探す必要はない。
知らない言葉と知っている言葉が入り混じっているというのはだいぶ不便だ。
間違えてマリーダを蜜柑と言って、なにそれ、と言われてしまうように。
文字はもちろん日本語ではないし、英語でもなかった。
その他の言語はまったくわからないから地球のどこかにあるのかもしれないけど、なんにせよ、一から覚えないといけないのには変わりない。
それでも、理解できるようになってしまうのだから、一年という月日はとても長い。
話す言葉が日本語に酷似していたのは救いだった。
「まだ図書室の幽霊は成仏してない?」
「え、幽霊?」
「ほら、三つ編みの司書っぽい人。眼鏡かけてる、茶髪の綺麗な人だよ」
「あの人先生じゃないんだ……」
リコはアールグリィスの卒業生だ。
それに彼の祖母が養護教諭を務めていることもあって、入学してから一か月も経っていない私よりもずっと詳しい。
学校に行くのを勧めてくれたのも、アールグリィスの蔵書量が街の図書館よりも多いと知ってのことだ。
隠し書庫の存在も教えてくれたが、残念ながらまだ入ることはできていない。
司書から鍵を貰うか、アジナフィースの答えを自分で当てるかしないと扉が開かないから。
ちなみに、アジナフィースとは、魔法で作られた門番の名前だ。
パスワードを忘れたとき用の“秘密の質問”みたいなもの。
間違えるとお仕置きされてしまうらしいけど、蜜柑……ではなくマリーダをあげると見逃してくれる。
その年ごとに質問は変わるから、こればかりは自力で何とかするしかない。
司書は未だに会えていないし、質問もわからないから、先に図書室の本を読むことにした。
そんな図書室に入り浸りの生活だから、司書以外の図書室にいる人は知っている。
何故か司書は未だに会えていないのだ。
「そういえばガレーシア先生に、リコ元気?って聞かれた」
ガレーシア先生は私の担任で、百歳を超えているらしいと噂されている先生だ。
私の姓がリコと同じことに疑問を抱いたのだろう先生に「親戚?」と聞かれた。
隠すこともないので養子だと素直に答えると「あの子は相変わらずぶっ飛んでるねぇ」と言われた。
見た目通りの心配性なリコしか知らないからぶっ飛んでるとは結び付かなかったけど、周りから見たらよくわからないことをしているのは確かだ。
リコのことをよく知ったふうに言っていたから、関係の深い先生だったのだろう。
そう思って言ったのだけど、
「ああ、ガレーシア先生……ガレーシア先生かぁ……」
遠い目をしたリコはふふふと不気味に笑っていた。
え、なに、怖い。
思わず引くと、リコは慌てて「違うよ!?」と言った。
何が違うのかわからないけど、何か違うのだろう。
きっと学生時代に何かあったのだ。そっとしておいてあげよう。
そんな私の胸中を知らないリコはやっぱり慌てて言い募る。
引いているとでも思っているのだろうか。
「僕は普通だよ?普通に同年代の女性が、普通に好きだからね?普通だからね?」
念を押す姿になんとなく事のあらましを察した。
普通って、四回言ったなぁ。
そう思いつつも、わかってるよと頷いておく。
別にリコが熟女好きであろうと私には関係ないのだから。
誰かに迷惑かけない程度に好きにしたらいいと思う。
「元気だよって言っておいたけどいいよね?」
「まあ、うん。いいけどね……」
「わかってるのかな……」とぼやくリコには何も返さず、窓から離れる。
「ごめんね、朝ごはん作ってもらっちゃって」
「いつもやってくれてるんだ。休日くらいはやらせてよ」
「ありがとう」
「じゃあ、僕は先降りてるから。冷めないうちにおいで」
そう言ってリコは部屋を出ていった。
一階から漂ってくる、嗅ぎなれない優しい匂いを吸い込む。
後で作り方を教わろう。
材料、向こうにもあるといいなぁ。
そんなことを考えながら、窓を閉めた。