17 恋
「何を考えているの?」
リゼットがエルディアの白い頬を引っ張って尋ねる。
「あ、いや、ごめん。考え事してた」
いつものようにレンブル侯爵家でお茶をしながら、リゼットの淑女教育の厳しさ云々の愚痴を聞いていたのだが、どうやら上の空だったのがバレたらしい。
書庫の一件があってからどうも調子が狂っている。
「ロイ様と何かあった?」
リゼットは鋭い。
何かあったと言えばあったような無いような、重大なようでもあり大したことでは無いようでもあり。
説明しかねてエルディアはふむ、と言って逆に尋ねた。
「リズはロイのどこがいいの?」
「何よ、突然」
「ロイの何処に惹かれたの?」
なんとなく聞きたかった。もやもやしたものが晴れるかもしれない。
「え、顔よ」
当然じゃない、とリゼットがふんぞりかえる。
「顔?」
「自慢じゃないけど一目惚れよ。断然かっこいいもの。声も低くて色っぽくて素敵♡」
「見た目だけ?」
呆れたようなエルディアの反応に、唇を尖らせてリゼットは悪い?と開き直る。
「だって、ロイ様を見るときゅんとしてしまうんですもの。ずっと見ていたいくらいだわ。そりゃあね、エルも美形だし優しいし好きよ。でもドキドキ感はないのよね」
それが恋でしょ、とリゼットは言い切る。
「で、エルはどうしたの?まさかロイ様とわたくしを巡って争う、なんて事じゃないでしょう?」
「そんなんじゃないけど………ふーん、顔ねぇ」
「しつこいわねえ。しょうがないじゃない、わたくしの理想にドンピシャなんですもの」
自分の気持ちに正直なんですわ!と胸を張っている。
(きゅん、ねえ………そういうのではないんだけど)
エルディアはうーんと言って腕を組んだ。
これまで愛だの恋だのは無縁だったのだが、最近のロイゼルドに近づいた時の居心地の悪さの正体はなんとなくこれなのではないか。そう思って聞いてみたのだが。
よくわからない………
ロイゼルドは優しい。
彼の従騎士になってから叱られることもあったが、過保護なくらい自分の面倒を見てくれている。
いつも心配してくれるから、多分この間のこともきっとフェンリルと戦って傷つく事を心配しているのだと思う。
「エル?」
リゼットが思い悩むエルディアの顔を覗き込む。
「もしかして、まさかエル、貴方、ロイ様に恋をしたの?いいのよ、わたくし貴方がライバルでも頑張るから!わたくし、男色には理解があるので気にしないで!」
「気にしてよ!ていうか、なんでそんな話になるの!」
「ええ?違うんですの?」
何故か残念そうなリゼットにエルディアはがっくりきた。
だって、戦の時って男同士で色々あるっていうじゃない?とかブツブツ呟いている赤毛をデコピンする。
「何処からそんな下世話な話を仕入れてくるんだよ!」
「流行ってるのよ、結構。男同士のカップルの物語」
「はあ?リズ、一体何を読んでるの!」
貴族のお嬢様なのに、とガミガミ説教する。
しかし、リゼットはケロリとして、面白いから今度貸してあげるわよと返す。
エルディアは顔を赤らめてテーブルを叩いた。
「僕は読まないから!」
ヴィンセントに言ってもう少し淑女教育を厳しくしてもらおう、とエルディアは心の中で呟いた。
エルディアがほのかな恋心に気が付いたその夜、レンブル城下の北の端で事件が起こった。
深夜、寝静まった街を、酒場から家に帰る途中の男が歩いていた。
夜でも安心して歩けるのは、魔獣避けの結界のおかげだ。
鼻歌混じりで家路を急ぐ彼の耳に聞き慣れぬ音がしたのは、ちょうど結界の元となる魔石を埋め込んだ石碑の側を通っている時だった。
グルルルル………
獣の唸る声の様な音に男は立ち止まった。
周囲を見廻す。
まさかな、と呟いた。街の中に魔獣は入れない。
飲み過ぎたのかも知れないな。そう思い直して歩き始めたその時、
バキバキバキッ
大きな音がして男の目の前で石碑が砕けた。
慌てて物陰に隠れた男が見たのは、闇の様に真っ黒な身体をし赤く光る目をした巨大な狼だった。
結界の石碑がその足元で見るも無惨に砕け散っている。
狼は石碑の残骸をクンクン嗅いでいたが、首を上げて周囲を見た。
男は見つからないようにと祈りながら息を殺す。
しばらく辺りをウロウロしていた狼は興味を失ったのか、身をひるがえして街の外へ走り去った。
男は恐怖でガクガク振るえる脚を叱咤しながら、城へ向かって駆け出した。
レンブル城下の街の中に魔獣フェンリルが出現した。
その報告は直ちにヴィンセントの元へ届けられた。
魔獣は北の森に潜んでいる可能性が高い。
「魔術師団に派遣要請を」
治癒魔法の使い手を出来るだけ多く要請する。
ヴィンセントは急ぎ王都へ伝令を出すように指示した。
この情報が真実であれば、黒竜騎士団全員であたったとしてもかなりの被害は避けられない。
七年前、いやもう八年がくるか。あの悪夢がよみがえる。
マーズヴァーン侯爵家の一行が襲われた日、その前に魔獣は一つの村を襲っていた。
村人達は隠れていた数名を残して百人近くが惨殺され、村は壊滅した。
あの時の魔獣、フェンリルが再び現れた。
中級クラスのサラマンダーで騎士三十人、滅多に出会うことはないが上級クラスのベヒーモスやリヴァイアサンでは、騎士・魔術師二百人の精鋭が必要と言われる。
神の子フェンリルの討伐には如何程か。
黒竜騎士団とレンブル侯爵所有の私兵だけで討伐出来るのか。
ヴィンセントはあご髭をさすりながら唸る。
さて、どういう戦略で向かい合うべきか。
時間は無い。
既に魔獣避けの結界はフェンリルによって破られている。
城下の街に入られればどれほどの犠牲者が出ることか計り知れない。
ロイゼルドに伝えると、彼は紫紺の瞳を伏せて黙った。
彼の従騎士の仇だ。
しかし、大事にしている従騎士を危険に晒したくない、そう彼は思っている。
エルフェルム、いやエルディアは女性だ。
ヴィンセントは側で見ていて、ロイゼルドが通常以上に弟子を大切にしている事を知っている。
その感情をなんと呼ぶのかはまだわからないが、死ぬかも知れない戦いの最前線に置きたくはないだろう。
だが指揮官である以上、ヴィンセントもロイゼルドもエルディアを連れていかねばならない。
アーヴァインはフェンリルを倒すためには彼女が必要だと言った。
その言葉は正しい。
(ロイ、許せ)
心の中でヴィンセントは許しを請い、そして騎士団に討伐の命令を出した。