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風鈴

作者: 山田さん

 季節外れな内容ですみません。

 あざとくないか、寄り添うことなく俯瞰した内容になっているかどうか心配です。

 開け放たれた窓から、心地の好い涼風がそっと吹いてくる。透かし模様が織り込まれた白い窓掛けが、控え目にゆさぶられる。夏の盛りを過ぎた午後の日差しが、僕をまどろみに誘う。

「ちりん」と風鈴がひとつ、音を立てた。

「お母さんが作ったのよ」と、実家から送られてきたものだ。すり硝子で作られた提灯型のグラスの底に小さな穴を開け、そこに五円玉が括られた赤い紐を通したものだ。五円玉の下にぶらさがっている、和紙で作られた短冊には、書道を教えていた母の達筆で「家族」と書かれている。

 それは僕が愛用していたグラスで、夏の暑い季節、毎日のように冷たくて美味しい麦茶を注いでいたものだった。実家を離れてから何年にもなる。もう、麦茶が注がれることもなかったに違いない。

 風が吹き、短冊をゆらすと、赤い紐で括られた五円玉がグラスの内側に触れ、心地よい音を出す。これが母の思い描いていた風鈴だろう。どうやってグラスの底に穴を開けたのだろう。面倒なので、詳しくは尋ねなかったが、どうやら母の思惑通りにはいかなかったようだ。つりあいが悪いのか、心地よい音はするのだが、どんなに風に吹かれても、「ちりん」とたったひとつしか鳴らない。

 遅めの昼食を終え、何かをする必要が無いという幸せに僕は浸っていた。妻は妊娠九ヶ月目であり、あれ程に酷かったつわりの時期も終わり、今は妻の実家で落ち着いた生活をしている。夕飯を共にするために、毎晩その実家を訪れる以外、僕は久しぶりの独身生活を楽しみ、妻は自分の両親の元で、雑多な用事に煩わされることもなく、病室に元気よく響き渡る産声を心待ちにしている。



 玄関の呼び鈴が鳴った。昼間の訪問者とは、対面しないことにしている。卑俗な宗教の告知であったり、読むべき記事の載っていない新聞の勧誘であることが殆どだからだ。再び呼び鈴が鳴った。頑なに居留守を通す。束の間の幸せを掻き乱されたくはない。三度目の呼び鈴をやり過ごすと、諦めたのか、もう鳴ることはなかった。

 僕はもうすぐ父親になる。生まれてくるのは息子だ。本当は生れてくるまで性別を知りたくはなかった。エコー写真を手にとり、嬉しそうに説明を加える医師の「これが、おちんちんですね」の一言が、「息子」だと告げた。まあ、いい。「順調ですよ」と続けられた言葉で、僕は医者を許した。

 初めて自分の息子の顔を見たとき、どんな感情が湧くんだろう。僕の指が、その小さな手の平で握られた時、どんな気持ちになるんだろう。元気に響き渡る産声を耳にして、僕も泣くのだろうか。

 ふと、自分の父のことを思う。幼いころの父は、近所でも悪名高いガキ大将だったそうだ。あちらこちらで悪さをしては、母親、つまり僕の祖母は、一軒一軒、頭を下げてまわっていたそうだ。僕はそんな父の姿を知らない。僕が知っているのは、寡黙で、怒ると口よりも先に手が出るが、僕を叱る時以外は、笑顔を絶やさない、いつも黙ってほほ笑んでいる父の姿だ。

 僕を叱る時、父は手加減をしなかった。今なら家庭内暴力と呼ばれるのだろうが、僕は情け容赦なく両頬を殴られた。たいていは平手で。ときにはげんこつで。僕は大声で泣きわめき、父に手向かった。めちゃくちゃに腕を振り回し、隙を見つけては、ところかまわず噛み付いた。それでも、いつも勝てなかった。

 僕を叩きのめした後、父は必ず僕を膝の上に乗せた。そして僕を後ろから、その力強い腕で優しく抱えこんだ。さっきまで僕を殴っていたその腕の中で、僕は安心しながら、お菓子をほおばったり、絵本を読んだりしていた。時々、顔を上げて父を見ると、そこには必ず笑顔があった。

 一度だけ、家出をした。ささいなことで父と大げんかになった。高校生になっていた僕は、父よりも腕力が強くなっていた。僕は父の腕を振り切り、父を睨みつけると、そのまま家を出た。その時の父の、悲しそうな表情は今でも忘れられない。

 三日間、友人の家に泊めてもらい、落ち着きを取り戻した後、そっと家に帰った。音を立てないように玄関を開けると、そこに父が立っていた。父は「おかえり」とひとことだけ言うと、何事もなかったかのように笑顔を見せ、家の奥に消えた。

 やはり、父には勝てなかった。

 父は僕という一人息子から父さんと呼ばれ、もうすぐ初孫からおじいちゃんと呼ばれるようになる。父にはまだ、初孫が息子であることを教えてはいない。

「お父さん、初孫、凄く楽しみにしているみたいなのよ。でね、男の子か、女の子か、ってばらさないで欲しいの。男の子だった時はこう、女の子だった時はこう、ってなんか一人で色々と想像して楽しんでいるみたいだから」という母の忠告を守っている。

「ちりん」とまたひとつ、風鈴が音を立てた。

 風鈴の音と融和するように、再び玄関の呼び鈴が鳴った。風鈴の音がそうさせたのだろうか、先ほどとは違い、きちんと対応しなければいけない気がした。返事をしようか迷ったが、面倒な訪問者の可能性もある。僕は足音を忍ばせ、そっと玄関に向かうと、小さな覗き窓に片目をつけ、その訪問者を確認した。



 父がほほ笑みながら、そこに立っていた。



「元気か?」久しぶりに耳にする懐かしい父の声。

 その声は僕に、全てを教えてくれた。

 なぜ、父が今、こうして僕を訪ねてきてくれたのかを。

「汚いけど、あがりなよ」僕は父を自分の部屋に招き入れる。「布団、敷きっぱなしだけどさ」

 父は部屋に入ると、黙ってその布団に腰を下ろし、部屋の中を見回す。

「そういえば、ここにくるの、初めてだったね」と僕。「住所を頼りにここまできたの?」

「ああ、そんなところだ」

 母の手作りの風鈴の音が、父をここまで導いてくれたのかも知れない。

 久しぶりに交わす父との会話。僕たち父子は、もう何年も会話を交わしてこなかった。

「本当は、窓からこっそり入ってきて、脅かしてやろうと思ったんだがな」と笑いながら話す父。「由美子さんを驚かしちゃまずいな、と思ってね」

「ああ、由美子ならいまは実家に帰っているよ。母さんにはそう伝えたんだけどね」

 しばらくの沈黙。父は相変わらず部屋の中を、所在無く見渡している。

「元気でやっているか?」今度は僕の顔をじっと見つめてそう尋ねてくる。

「ああ、仕事は相変わらず忙しいけど、今はほら、独身生活ってやつを楽しんでいるよ」と僕は笑って答える。

 再びの沈黙。父は僕の顔から目を背けない。僕からの言葉を待っているかのように。

「母さんは元気?」「ああ、元気だよ」「そうか、よかった……」

 父と息子なんてのは、こんなものなのかもしれないなと思った。話したいことは山ほどにあるのに、いざ面と向かうと言葉が出てこない。

 長い沈黙の後、僕は打ち明けることにした。

「息子なんだ。生まれてくるの」

「そうか、息子か」父のほほ笑みが深くなった。「お前もいよいよ父親だな」

「ねえ、父さん……もう少し堪えられなかったの?」

「ああ、頑張ったんだけどな。やはり限界だったよ」

「だって、もうすぐ」孫が……と続けようとしたが、僕はもう言葉を続けることが出来なかった。

 父と僕はしばらく見つめあっていた。何も語らずに、ただ、じっと黙って見つめあっていた。

「さて、そろそろいくかな」父がボソリと呟いた。

「もう、いくの?」

「ああ、時間だ」

 僕は懸命に言葉を見つけようとした。そして……。

「気を付けて」

「え? あはは、気を付けてか……ありがとう」



 塞栓性脳梗塞。不整脈が作りだした血液の小さな塊が、脳の血管を堤防のように塞ぐ。行く宛てを失くした血液は血管を突き破り、脳に溜まりを作る。その溜まりは脳の一部、あるいは全ての機能を破壊する。破壊された機能は、もう元には戻らない。五年前に父を襲った病だ。

 一時は親戚を集めておいたほうがいい、と医者から告げられた。それでも、父は克服した。食事も着替えも一人でこなせるまでに回復した。足を引きずりながらでも、一人で外出ができるまでに元気になった。

 医者は「奇跡です」と告げた。そして「もう一度、同じ病に襲われたら、次は終わりです」と警告した。

 父は殆ど回復した。だが、父は言葉を失った。話す能力を失った。母や僕の言葉は理解できても、僕らに言葉を返すことは、もう二度と出来なくなっていた。

 五年間、父と僕は言葉を交わすことがなかった。父と僕は言葉を交わすことができなかった。

 色々と聞きたいことがあった。教えてほしいことがあった。もっと会話を交わしておきたかったと、悔やんだ。

 父との会話は、永遠に閉ざされてしまったのだと、諦めていた。

 今、父はこうして、僕と最後の会話を交わすために、訪ねて来てくれた。

 聞きたかったこと、教えてほしかったことが、脳裏をかすめた。

 結局は何も聞けなかった。でも、それでもいいと思った。



 ねえ、父さん。

 僕が生まれた時、あなたにはどんな感情が湧いたのですか?

 あなたの指を、僕の小さな手の平が握り締めた時、あなたはどんな気持ちになったのですか?

 元気に響き渡る僕の産声を耳にして、あなたも泣いたのですか?

 病に倒れた時、あなたは何を思ったのですか?



 ねえ、父さん……僕は誇りにできる息子でしたか?



 歩みをやめる者。歩みをはじめる者。果たせなかった邂逅。狭間に残された者たちは、しっかりと歩みを進め、それまでの物語を語り継ぎ、それからの物語を紡ぎだす。それが僕の、由美子の、生まれてくる息子の役割。

 午後の日差しは、焦点を失いながらも、確実に傾いていく。涼風が「家族」と書かれた短冊をゆらす。風鈴は、終焉を少しでも先に伸ばそうとしているかのように、鳴りをひそめている。

 父と僕はしばらく、何も語らずに、ただ、じっと黙って見つめあっていた。

 やがて僕の目の前で、父の姿が陽炎のように揺れ始めた。焦点を失った日差しに、ゆっくりと溶け込んでいく。涼風がそっと父を運ぶ。

 そして、父はほほ笑みだけを残して、静かに去っていった。

 風鈴が「ちりん」とまた、ひとつ。

 まるで、それが合図だったかのように、電話の呼び出し音が響いた。発信番号を確認する。実家からだ。

「もしもし……うん……そう……そっか……大丈夫?」それは父が、二度目の病に襲われたことを知らせる、母からの電話だった。

「わかった……由美子にも知らせておく……あのね……母さん……さっきまで……ここに……いたんだよ……父さん」

 一瞬、母の息を飲む音が聞こえた。しかし、すぐに悟ったような、とてもとても穏やかな口調になった。

 受話器を置き、母の声が消えると、父のほほ笑みもそこから消えた。

 父が座っていた布団の、その場所だけが、愛おしく窪んでいる。



 ねえ、父さん……僕ももうすぐ、父親になります。



「家族」と書かれた短冊が、涼風を受けて、ゆらりとゆれた。

「ちりん……ちりん……ちりん……」

 風鈴が、みっつ、鳴った。

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