天仰ぎ
これは、竜になりたかった(なれなかった)ものがたり。
このノインウェルシュを首都に構える白の国は、もうずっと昔から竜の翼の下で栄えてきた。
空に浮かぶ竜の宮からは竜の鳴き声が遠く聞こえ、空気の澄んだ日には竜の羽ばたく音さえ聞こえる。
そんなノインウェルシュに生まれたエルフィタータは生まれながらにして竜の声を聞き、竜に語りかけることの出来る「宮仕え」の才を秘めた女の子だった。
「宮仕え」というのは白の国の城に勤めることを指す言葉ではなく、「竜の『宮』」に「『仕え』る」者を指す。
「宮仕え」が生まれると、ノインウェルシュは途端にお祭り騒ぎになる。かつてこのノインウェルシュでは、神殿に住まう「白の巫女」が外界からやってきた「竜」に、大きな体が収まる家として神殿を、その翼が存分に広げられるように空を差し出した。そして「竜」との別れに流した一滴の涙が湖となり、その湖に「竜の宮」が映る時、「宮仕え」だけがのぼることのできる橋が現れるのだと、そう言い伝えられて来た。
「宮仕え」が生まれた時には直ぐ分かる。なぜなら「宮仕え」は「白の巫女」の映し身にしてその魂を引き継ぐ者。その髪は白く、瞳は赤く、額には「竜」が祝福として与えた竜玉の欠片を携えている。紅の竜玉の欠片は「竜」が白の巫女の涙の対価に与えたもので、その不思議な欠片こそが「宮仕え」が「竜の宮」へ登ることが出来る理由の1つとされている。
エルフィタータが生まれた時は、それはもう大騒ぎだった。何しろエルフィタータが蓮の花から生まれた時、竜たちはその翼を広げた形が見えるくらい低くまで姿を現し、鼓膜が震えるほど大きな声で鳴いたのだ。
エルフィタータは生まれた瞬間、5年前のことを今でも覚えている。白い髪が覆って邪魔な視界の隙間に、紅の鱗の竜が翼を広げてこう言ったのだ。
『お帰り。』
優しい声は次々と降り注ぐ。
『ずっと待ってた。』
『やくそくを。』
『あなたの声をききたかった。』
『また撫でてくれる?』
声がたくさん聞こえて、エルフィタータは自分が生まれた意味を知った。
そして、己の姿を見て心の底から絶望したのだ。
「わたし、また竜になれなかったの。」
そして、空を見上げた。
色とりどりの竜たちは口々にエルフィタータを祝福して、そして、こう言った。
『はやく神殿まできて。』
『いっしょにくらそう。』
『あそんで、エルフィタータ。』
『いっしょにあそぼう。』
『空で待っているから。』
5本に分かれた細い指に竜の爪は無く、白く柔らかい髪はたてがみではない。肌はすべすべで鱗の1枚も見当たらず、その背に翼は無い。
竜とはかけ離れた自分の姿に、エルフィタータは唇を噛み締めて、竜たちを見送った。
「まっていて。」
幼い声に、自分で驚く。今回は子どもの姿で生まれたらしい。
「まっていて。きっと、そこへ行くから。湖に神殿の映った時、あなたたちのそばへ行くから。」
竜たちは優しく鳴いて、空へのぼっていった。
エルフィタータを1人おいて、空へ、
「・・・・・・。」
エルフィタータは空を見上げて、眼から涙が零れ落ちそうになるのをぐっとこらえた。
エルフィタータがこのノインウェルシュの湖に咲く蓮の花から生まれるのは、これが初めてのことではない。
「白の巫女」が受け入れた竜の力は、彼女の一滴の涙と一緒には、ひとつの命を生み出した。その命こそが、エルフィタータ。
「白の巫女」の涙は、竜の玉を額に頂いて蓮から生まれた。
エルフィタータが初めて生み出された時、「白の巫女」はっかり衰弱して、エルフィタータを空に差し出した。
『人とは一緒に居られないだろうから。』
「白の巫女」の声をハッキリと思い出す。そうしてエルフィタータは竜と暮らし、そして、竜になりたいと願った。
だけど、彼らと暮らすために生まれたエルフィタータは、何度生まれ直したって、人のカタチのいきものでしかなかったから。だから、エルフィタータは竜になりたいと願って、そして、「白の巫女」はエルフィタータを竜にすることを「竜」に願った。
それからずっと、エルフィタータは竜の玉がその身にある限り、蓮の力を借りて何度でも生まれ変わる。
いつか竜になることを願いながら、何度でも、何度でも、その生が終わる度に生まれるのだ。
そして幾度目かのエルフィタータとして生まれた今回、いつ湖に橋がかかるのかと待ち続けて、幾年。
竜の声が聞きたくて外へ出た夜、空から流れ星が落ちてきた。
エルフィタータは声をきいた。
『こわいよ。』
走って、走って、走った先に、一匹の竜が横たわっていた。
『エルフィタータ。』
すがるような声に、エルフィタータは涙が出そうになった。
「どうしたの。」
翼の傷付いた竜は涙を流して天を仰いだ。
『帰る方法を失くしてしまった。』
女の子は、「泣かないで。」竜を慰めて、その大きな鱗に頬を寄せた。「傍に居るわ。」
そうして竜を慰めながら、女の子の胸に大事にしまってあった空へのあこがれはむくむくと膨れ上がって、どうしようもない程になるのを、必死で押しとどめる。
「なかないで。」
すべすべとした鱗はうつくしい。
「なかないで。」
女の子は眼を閉じて、天に浮かぶ竜の宮を思い浮かべた。白亜の神殿は美しく、この地上には無い輝きを保っている。
「(あぁ、わたしが一筋の竜だったならば、この子を抱いてあそこまで飛んでいけたのに。)」
唇を噛み締めるエルフィタータに、竜はその頬をすり寄せる。
『エルフィタータ。エルフィタータ。君はいつもこんなきもちだったの。』
「どうしたの。なかないで。こんなこと初めてで、どうしたらいいか分からないの。」
『エルフィタータ。いま僕が泣いてるのは、帰れないからじゃあないよ。これは君のための涙だ。エルフィタータ、僕らのかわいいエルフィタータ。僕らの娘で、ママで、姉で、妹。エルフィタータ。』
竜は声をあげて泣いた。
『湖に橋がかかったら、蓮を全部空へ持って行ってしまおうか。そしたらきっと、1人じゃないよ。生まれてからずっと、僕らと一緒だ。エルフィタータ。ノインウェルシュは良い所だけど、人とは違う君はここじゃあ1人きりだもの。』
「・・・・・・泣かないで、あなたは竜でしょう。橋がかかったら、空へ帰れるわ。竜たちだってあなたを待ってる。」
『君のことも、ずっと待ってる。』
「・・・・・・。」
『ねぇ、泣かないで、エルフィタータ。僕らはずっと君に会いたくてここに居るんだから。』
零れる涙はいつぶりだろう。
『君の5本の、爪の無いすべすべの指が、僕らの鱗を撫でるのが好き。君の小さな温かい体が、僕らの心を癒やすんだ。ねぇ、竜になる必要なんてないよ。君のままで、そのままで、僕らの側に居てよ。』
エルフィタータはとうとう我慢が出来なくて、声を上げて泣いた。
生まれた時だって泣かなかったのに。
翼の傷付いた竜はすん、すん、と鼻を鳴らして涙を引っ込めると、エルフィタータを大きな体で包み込むようにくるりと体を丸めた。
『ほんとはね。ずっと前から、僕は、ひとになりたかった。そうしたら君を抱きしめてあげられたのに。』
エルフィタータは、竜たちが人になりたがっているのを知っていた。
竜たちは、エルフィタータが竜になりたがっているのを知っていた。
それでも、彼らは竜で、彼女は人だ。
側に居たいと願う気持ちは、「白の巫女」と「竜」の時代からずっと変わらない。
竜たちはどこへだって行けたのに「竜の宮」に留まって、「白の巫女」はエルフィタータに心を託した。
そうやってずっとずっと、一緒に居たくて、一緒に居るために、彼らは湖に互いを映して憧れたのだ。
「もうわたし、竜にならなくてもいいの。」
『そのままに君が良いな。』
「あなた、ひとになれなくてもいいの。」
『君がこの鱗を撫でてくれるならね。』
鼻先でエルフィタータの額をつついて、竜はくふくふと声だけで笑った。
『ねぇ、エルフィタータ。僕はずっと君が空へ来るのを待つばかりだったけど、落ちて来てみてよかったよ。』
「どうして。」
涙の止まらないエルフィタータを、竜は優しく慰める。
『だって、他の竜より君の側に居られるもの。』
エルフィタータの額の竜玉がきらりと輝いて、竜はまたくふくふと声だけで笑った。
笑った拍子に、竜の額の竜玉もエルフィタータのそれと同じ輝きを放つ。
もうずっと昔から、己の額から欠けた一欠片はすっかりエルフィタータに馴染んで、エルフィタータが心の底から笑った時だけきらきら、きらきら、きれいな光を灯すんだ。
まるで竜を見上げるエルフィタータの瞳みたいに。きらきら、きらきら。
もう空を見て唇を噛み締める必要は無いのだと、地に落ちた竜はくふくふ笑った。
白い髪に赤い瞳の乙女もやさしく微笑んで、美しい鱗をそっと撫でた。
空から聞こえる竜の声は2人と1匹を恋しがるばかりだけれど、ノインウェルシュは一層賑やかだ。
だって、「白の巫女」と「竜」がやっとふたりで帰って来たんだから。