5 「わたしは、この世界を、守ります」
美琴、有里沙、良太郎の三人は、毎日桜井家──大金をぽんと出すだけあって、さすがに大豪邸だ──のフィットネスルームなる場所で、レベル上げにいそしんだ。倒すモンスターは一種類、『シルバーキャトビ』という、銀色に輝くモンスターだ。有里沙が、誕生日プレゼントとして父親にねだったのがこのモンスターであり、毎日のようにフィットネスルームに山盛り運び込まれてくる。複数の会社の社長を務める桜井父が、人脈と金の力を遺憾なく発揮したことにより、各地から捕獲されてくるのだ。
『ティピカルサーガ』の世界では、モンスターの強さは色で判断される。白やピンクのような薄い色なら弱く、黒や深紅のような濃い色なら強いといった具合だ。ただし、もととなるモンスターの基本の強さというものがあり、『キャトビ』という、猫とウサギの間の子のようなごく弱いモンスターならば、いくら真っ黒でもたいして強くはならない。逆に、もともと強いモンスターは、真っ白でも黒いキャトビより強い、というわけだ。とはいえ、すべてのモンスターが全色そろっているわけでもないので、色での判断はあくまで目安となる。
今回、美琴たちがやっつけまくっているシルバーキャトビは──美琴には、もう大量虐殺のように思えてしかたなかったが──一匹の持つ経験値が異様に高いことが特徴だ。銀色のモンスターというのがそもそも希少種であり、運良く巡り会えば一気にレベルが上がる、といわれている。それを誕生日プレゼントにねだる有里沙も有里沙だが、あっさり叶えてしまう桜井父も底知れない。
「いってもわかんないだろうけど、ホワイトキャトビの経験値が五、シルバーキャトビの経験値は七七七なの。ちなみに生命値はホワイトが一二なのに対して、シルバーは四○○──経験値はパーティー全体にふりわけられるから、最初のうちは良太郎にやっつけてもらって、あたしらはイイトコどりよ」
──と、初日に有里沙が説明したが、本人もいっていたとおり、やはり美琴にはよくわからなかった。ただ、良太郎が一匹やっつけるごとに生徒手帳から軽快な音楽が何度も聞こえてきたので、ものすごく効率よくレベルが上がっているらしいことはわかった。
学校に行かないままに、いつの間にか夏休みに突入していた。そのころには、美琴もスピアでちょっとつつくだけで、シルバーキャトビを倒せるようになっており、レベルもなかなか上がらなくなってきていた。一レベルを上げるのに、よりたくさんの経験値が必要になってきたのだ。
「全員がレベル五〇超えってすげーよな。吉川も、いまならスピア一本でどんなダンジョンにでも入っていけるんじゃねーの」
有里沙に命じられ、美琴と良太郎の二人は、近所のショッピングセンターまで食料──主におやつの類だ──の買い出しに来ていた。カートに無造作に菓子を入れながら、良太郎がそんなことをいいだす。
ダンジョン、といわれても、以前の美琴にはなんのことだかわからなかっただろうが、有里沙に借りたゲームで研究したため、どういうものか想像がついた。いまのこの世界においては、公園、森、潰れた店や廃ビルといったものが、モンスターの住処になっている。要するに、モンスターがたくさん出てきて、足を踏み入れたら危険な場所──美琴は、ダンジョンというものをそう認識していた。
「まだちっとも、自信ないですよ……レベルが上がっている実感もないし。正直、ひとりでいるときにモンスターに遭遇しても、立ち向かっていけるかどうか……」
自分でも情けないと思いつつ、美琴はそんなことしかいえなかった。謙遜でもなんでもない。とはいえ、これといって落ち込んでいるというわけでもなく、あ、これもいいですか、とちゃっかりチョコレートをカートに入れていく。
「まぁ、経験値っていう数値が加算されても、実際に経験を積んでるかっつったら、毎日シルバーキャトビを相手にしてるだけだしな。いいとこヒキコモリか。とっさの判断なんかは、実戦じゃねーとな」
「そうですよね。簡単に強くなってるのはありがたいですが、近道をしたらしただけの、しっぺ返しがあるのは当然ですよね……」
「いや、そこまで重たい話じゃねーだろ」
良太郎は笑いながら、自分の肩より下にある美琴の頭に手を乗せた。くすぐったくて、美琴も笑う。
出会った当初は、良太郎に対してとにかく怖いと感じてしまっていた美琴だったが、いっしょに過ごしているうちに、徐々に慣れていった。有里沙同様、面倒見の良い面があり、美琴のことを妹のように気にかけてくれているようだ。ただ、口調も態度もぶっきらぼうで、取り繕うということを一切しないため、誤解されやすいのだろう。
なかなかうち解けない二人を見かねて、有里沙が頻繁に買い出しに追いやっていることも、もちろんプラスの要因として働いた。最初のころの買い出しは、行って帰るまでの間に一度口を開けばいいほうだったが、いまとなってはその初々しさが懐かしい。
「有里沙先輩は、昔からあんなに食べるんですか? すごく細いのに」
カートが山盛りになったところで、レジに運んでいく。スナック、チョコレート、クッキーにビスケット……あらゆる菓子が突っ込まれていた。ほとんど毎日買い出しに出ているのに、あっという間に有里沙の小さな腹に消えていくのだ。朝、昼、晩の食事はむしろ小食なのに、菓子類は別腹らしい。最近では、田中も菓子の魅力に目覚めたらしく、張り合うように食べている。
「昔からだな。俺と姉貴にっつって、たまに来る客なんかからもらったケーキとかチョコとかは、だいたい姉貴が全部食ってたし……ちっせーころから、よくこうやってパシられた。目ぇつぶって板チョコ食って、どこのメーカーのかわかるのが自慢らしい」
「それは……すごいですね……」
しかし、有里沙ならやりかねない。彼女なら、なにをやっても驚かないような気がする。
菓子類だけなのに、会計は三千円を超えていた。有里沙から預かってきた金を支払い、二人でせっせと袋に詰める。この大量の菓子が、いったいいつまで保つのだろう。
「あ、そうだ──ちょっと、二階に寄りたいんですけど、いいですか?」
菓子は大きなビニル袋五つ分になり、そのうち軽いもの二つを美琴が持つ。帰ろうというところで、美琴は急に思い出して、提案した。
美琴から寄り道案が出るのは初めてだったので、良太郎の返事が遅れる。二階になにがあるのかを思い出そうと頭を巡らせたが、答えは出なかった。規模の大きなショッピングセンターなので、二階には本屋も服屋も雑貨屋もある。
「別にいいけど。なに?」
「昨日使ってしまったので、煙玉を買っておきたいんですが……ここ、売ってますかね」
良太郎は絶句した。
乗せられたにしろなんにしろ、魔王を倒して世界を救うとかなんとかいっている『勇者』が──仮にも、現在レベル五一にもなる彼女が──モンスターから逃走するための煙玉を買いたいなどと。しかも、昨日使ったなどと。
「おまえバカだろ」
ずばりと直球を投げた。うまくキャッチできず、うっ、と美琴はよろめく。
「なんでいまさら煙玉だよ。おかしーだろ。昨日使っただ? 逃げてねーで倒せよ。つーかレベル上がってんだから、んなもん使わなくても逃げ切れるだろーがよ」
まったく、歯に衣着せぬものいいだ。そこまでいわなくても、と思いつつも、反論できず、美琴はどういったものかと思案する。とはいえ、黙っていては、なおも攻撃されてしまうので、急いで口にした。
「お守り、お守りです! あると、安心する、というか」
剣呑な目つきで睨まれ、尻すぼみになる。良太郎は、呆れかえってため息をついた。
「……まぁいいけどよ。けど、ここの二階にはないんじゃねーの。そういうのはマジックショップだろ」
「え、そうなんですか?」
それは意外だった。確かに、いままではマジックショップで買っていたが、これだけ大きなショッピングセンターで、手に入らないなどということがあるだろうか。二階で探してみようかとも考えたが、手っ取り早く、レジ打ちをしている年配の女性に尋ねてみた。当然のように、ありませんとの答え。
「……ひょっとして、マジックグッズとか、武器とか防具とか──そういうものは一切、こういう場所では手に入りませんか?」
急に真剣に訊いてくる美琴を訝しげに見ながらも、良太郎はあっさりとうなずいた。
「あたりまえだろ。……や、そうか、吉川にはあたりまえってのはないのか。マジックグッズはマジックショップ、武器・防具は武器・防具屋。これが常識だ」
美琴は、気持ちが焦ろうとするのを懸命に抑え、できるだけ落ち着いて、その事実の意味を考えた。
ショッピングセンターやコンビニエンスストアのような、美琴の知る世界ならなんでもそろっているのがあたりまえの店でも、いまのこの世界ではそういうわけではない──
「『ティピカルサーガ』のものは、こっちの世界の店には、置いてないんだ……」
それは、なにを意味するのだろう。こうなってくると、世界が融合しているという現象の意味自体、揺らいでくる。
やっぱり、と思った。
頭のなかに散らばっていたパズルのピースが、だんだんひとつの形になろうとしていた。
「どっちにしろ、煙玉なんて必要ねーだろ。行くぞ」
行くぞ、といいながら、良太郎はもう歩き出している。その後ろ姿を追いながらも、美琴は考え続けた。そして、それが本当にしろ、そうでないにしろ、とにかく口に出さなければいけないような気がした。
「あの、良太郎先輩──」
声が、自動ドアの開く音に重なる。出口の向こう側には、カラフルな石の敷き詰められた歩行者通路と、その両脇にぎっしり車の停まった駐車場。幅五メートルほどの通路に、子ども連れやカップルが行き来している。
歩き続ける良太郎の背中の、その向こう側に、夏だというのに黒い帽子を深く被った男が、立っていた。流れる人波に逆らって、ただ突っ立ってこちらを見ている。
どう見ても、その男だけ、まわりの景色にとけ込んでいなかった。黒いマントで全身を覆っており、長い黒髪が肩まで垂れている。
「先輩、止まって!」
思わず叫んだ。両手に荷物を抱えた良太郎が、振り返ろうとする。
荷物を放り出し、考えるより早く、美琴は飛び出した。思えば、これがレベル五一の為せるわざなのかもしれない。荷物になるという理由でスピアは持っていないので、代わりに肩掛け鞄からすばやくダガーを引き抜いた。頭の片隅で、防御レベルの上げてある服を着ていて良かったと、いつでも着ていろといっていた有里沙に感謝する。
「させない──!」
先手を打とうとした。しかし、実際には、帽子の男が両手をかかげ、そこから闇が飛び出すほうが早かった。
「吉川!」
遅れて、良太郎が叫ぶ。彼が事態に気づいたときには、闇の姿をしたなにかが、美琴に襲いかかっていた。良太郎の目に、悲鳴を上げる美琴が焼き付く。彼の目の前で、操り人形の糸が切れたみたいに、ぐらりと揺らぐ。
せめて、抱き留めようとした。しかし、彼女の身体が倒れるよりも早く、美琴は闇に飲まれて姿を消した。同時に、帽子の男も、まるで最初からそこにいなかったかのように、忽然といなくなっていた。
ビニル袋から菓子がこぼれて、地面に転がっていた。ざわつきながら、人々が遠巻きにこちらを見ている。だいじょうぶ、とかけられた声もあったが、良太郎は答えるどころではなかった。
「マジかよ……」
呆けたようにつぶやいて、自責は遅れてやってきた。良太郎は、思い切り地面を殴りつけた。
数日前から、モンスター襲撃のニュースはどんどん増えていた。有里沙はそのことに気づいていたが、美琴にはいわなかった。それどころか、極力その話題を避けた。おそらく美琴も気づいているだろうが、話題にすることで、彼女を傷つけるようなまねはしたくなかった。
わたしのせいだと自分を責め、本当は明るいはずの瞳が歪むところは、もう見たくはない。
「……実際のとこ、あんたの目的はなに?」
桜井家リビングの、白い大きなソファに腰かけ、大型液晶テレビに映し出されるニュースを眺めながら、有里沙は後ろにいるはずの田中に話しかけた。窓辺にもたれ、やはりニュースを見ていた田中は、独り言のような問いに、一瞬聞き間違えたのかと本気で思う。
美琴と良太郎が買い出しに出ている間、必然的に有里沙と田中の二人が残されるわけだが、一度だって有里沙から田中に話しかけたことはなかった。いないものとするように、平然と存在を無視していた。
「どういう風の吹き回し? アリサくん、僕のこと嫌いなんでしょ」
「嫌いだったら、話しかけちゃいけないの?」
嫌い、は否定せず、淡々と問う。右膝を抱えるようにして、実に姿勢悪くテレビを向いている金髪の後ろ姿が、田中に向き直る気配はない。
「いいけど」
田中は肩をすくめた。
嫌われることには、慣れている。
「目的、ね。もちろん、ミコトくんに魔王を倒してもらうことだよ。というか、まあ、ゲームクリアの隙をついて、世界を二つに戻すことが目的かな」
「それ、あんたにとって、どういう意味があるの? その目的を達成したら、なんかイイコトでも?」
ふむ、と田中は腕を組んだ。頭から信用していない相手に説明するのは難しい。美琴はなんでもすんなり受け入れてくれたから、楽だったが。
「アリサくんには想像しづらい話だろうけど、それ自体が僕の仕事なんだ。達成して得られるものは……わかりやすくいうとお給料かな。逆に達成できないと減給かも。──いっとくけど、そこから疑問持たれても、説明できないよ。これはもう、こういうものとして、割り切ってもらうしかないね。君だって、どうして地球が丸いの、なんて別に考えないでしょ」
有里沙は沈黙した。有里沙にとってみれば、なによりもまず、田中の飄々とした態度が気にくわない。話しているだけでイライラするのだ。そこにいるのに、いないような感覚を味わわされる。
いっていることは、わからないでもないのだ。事実は事実としてあるのだから、言及するのではなく、前提として、その後どうするのかを考えなくてはいけない。
わかるのだが。
「ムカツク、イラツク、ウザーイ」
棒読みで毒づく。これが意外と田中にクリティカルヒットした。
「……アリサくんなんてキライだ……」
「超光栄」
不毛なやりとりだ。
そのとき、不意に、扉が開かれた。有里沙は反射的にテレビの電源を切る。美琴かもしれないと思ったのだ。
しかし入ってきたのは、恰幅の良い中年男性だった。小豆色のスーツに、青いネクタイ、鼈甲フレームの四角い眼鏡をかけている。
「パパ!」
ハートマークのつきそうな声で叫び、有里沙が立ち上がった。この人の良さそうな男性こそ、有里沙と良太郎の父、桜井太郎丸だ。どちらとも顔は似ていない。
毎日のように桜井邸に来ているとはいえ、田中も見るのは初めてだ。これが、娘のために大量のシルバーキャトビを調達した親バカかと、好奇の目で観察する。
太郎丸は、先のくるりと丸まったチョビ髭をいじりながら、田中には目もくれず、有里沙に向かって眩しいばかりの笑みを浮かべた。
「おお、我が娘。十七歳の誕生日プレゼントは気に入ってもらえたかな?」
よく通るハスキーボイス。有里沙は、もちろんよ、と満面の笑みで返す。
「ありがとう、パパ。おかげで、良太郎と一緒に、たくさんレベルを上げたわ。パパ大好きよ!」
歩み寄り、ほっぺにちゅうまで見舞う。田中は思わず目を逸らした。これはダレだ。
「今日はお仕事お休みなのね?」
「いや、移動の途中だよ。最近、有里沙のお友達がよく遊びに来ると聞いて、ちょっと様子を見にね。まさか……そっちの、白髪の彼が?」
「やぁだ、パパったら! そっちの白いのは、使用人見習いみたいよ」
あっさりとウソで返す。いいえお友達です、といえる関係でもなかったので、田中は黙っている。
「ともだちのほうは、いまちょっと良太郎と出かけてて、いないの。パパに会わせたかったわ。残念」
太郎丸は、眼鏡の奥の瞳を大きくした。
「出かけて? 最近特にぶっそうだから、あんまり出歩くもんじゃない。まあ、良太郎が一緒ならいいだろうが……さっきも、南下口あたりで、騒ぎがあったみたいだし」
「……そうなの?」
有里沙の声色が、一瞬固いものになる。南下口というのは、まさに美琴たちが出かけたショッピングセンター付近の地名だ。
嫌な予感がよぎったが、父親にあれこれ知られるのは、有里沙にとってみればあまり良い状況ではなかった。有里沙は娘に甘い父親のことを真に愛していたが、かといって、多くの年頃の娘がそうであるように、なんでもかんでもさらけ出すほどの仲良し親子というわけでもないのだ。娘に甘いからこそ、がんじがらめにしてくる可能性がある。息子がケンカ大将になっていることは容認しているが、娘が魔王を倒す一行に加わるなど、それこそ言語道断だろう。
有里沙は、さりげなく話題をずらした。
「最近は、モンスターに襲われたってニュースばっかりでイヤになっちゃう。パパの会社でも、やっぱり被害に遭ってるひと、たくさんいるんでしょ。パパ大変ね」
なにせ、いくつもの会社の社長を兼任しているのだ。縁起でもない話ではあるが、社長というのは、社員の葬式となれば香典を出したり花を出したり──それはもっと下っ端がやるにしろ──場合によっては式に出席したりと、忙しいはずだ。
しかし太郎丸は、腹をゆすって笑った。
「なあに、パパは日頃の行いがいいからね、うちの社でモンスターにやられたってやつはひとりもいないさ。もちろん、最近じゃ就業時間を短くするとか、対策グッズを配布するとか、徹底しているのもあるが」
「……ひとりも?」
有里沙はつぶやいた。
ひとりも、などということが本当にあるだろうか。毎日、これだけ、ニュースでやっているのに。
「ちゃんと気をつければ、被害に遭わないってことだ。有里沙も気をつけてな。パパはもう行くよ」
にこにこと笑ったまま、太郎丸はさっさと部屋から出て行った。本当に、移動の途中に寄っただけだったのだろう。有里沙は突っ立ったまま、眉間に皺を寄せ、思いを巡らす。
ポケットから携帯電話を取り出し、ものすごい速さでメールを打ち始めた。さすが女子高生というべきか、ほどなくしてメール着信音が立て続けに数回。
黙ってそれを読んで、有里沙はやっと、田中を見た。
「……美琴ちゃんは、どっちなの」
真剣な声だ。おもしろそうに、田中が片眉を上げる。
しかし、彼がそれに答えるよりも早く、もう一度扉が開かれた。今度は、勢い良く。
現れた良太郎の、その剣幕を見て、有里沙は事態を察した。
*
目を開けると、見慣れた天井があった。
美琴は、自分の部屋のベッドで、仰向けに寝転がっていた。
まず、時計が鳴っていないことを不思議に思う。まさか目覚まし時計のお世話にならずに、目覚める日が来るなんて。
それからやっと、自分がパジャマではないことに意識が向く。あれ、と思い、起きあがる。
いつのまにベッドに寝転がったのだろう──思い出そうとして、やっと、気づいた。
「……生きてる」
両手を持ち上げて、そっと握りしめた。ないはずもないのに、恐る恐る両足を見る。もちろん、ちゃんとついている。
死んでしまったかと思った。闇が襲いかかってきて、全身に激痛が走ったところで意識が途絶えたのだと、冷静に思い返す。
「たいしたものだ」
不意に、声がした。感情のこもらない低い声。
美琴が目を向けると、扉に寄りかかるようにして、漆黒の髪の男が立っていた。いまはマントはしておらず、黒い上下に身を包んでいる。
その頭に、二つの鋭い角を見て、鮮明に記憶が蘇る。この男には、以前、会ったことがある。
「あなた、いつか……わたしを助けてくれた、ひと」
「助けた?」
問うわけでも、嘲るわけでもなく、淡々とくり返し、男はふっと目を細めた。それすら、感情がこもらない。美琴には、ひどく疲れているようにも感じられた。
「助けた、つもりはない。また消えてしまう前に、訊いておこうと思ったのだ──今回は、少し、考えることを知っていそうだったからな」
「…………」
その意味を、美琴はゆっくりとかみしめた。
やはり、そうなのだ。
「仲間のひとりを殺すつもりだったのだが……たいしたものだ。ここまで短期間で、能力を上げるとは。防いだだけでなく、身代わりになってなお、ダメージを受けている様子もない」
「良太郎先輩を、……殺そうと?」
「名など知らない」
男は、初めてうっすらと笑んだ。美琴には、なにが面白いのかまったくわからない。
「私にとっては、同じだ。すべて、意味などないのだ。このような虚構の世界で、ただ、何度も、繰り返す……しかしいくら重ねても、得るものなどなにもない。早く終わらせたいと、それだけを願うものの、それすら虚しい」
男は、どこか遠くを見ているような目をしていた。語る声に抑揚はなく、一切の感情がこもっていないようであったが、最後の「虚しい」という言葉だけは、妙に彼に合っていると、美琴は思った。
見た目よりも饒舌ではあったが、美琴になにかを伝えようとしているわけでもないようだった。しかし、どんな小さな情報も取り逃がすまいと、懸命に耳を傾ける。
根拠はなかったが、いまならわかった。確信を持って、美琴は問いを口にした。
「あなたは、魔王……さん、ですね」
男は、肯定も否定もしなかった。
「呼び名が必要ならば、そう呼んでも構わない。だが、私を魔王と呼んで、それで貴様はどうする? 傀儡のように、私を殺すのか。なんのために? 自分の意志? だとしたら、これほど滑稽なことはない」
「あなたが魔王なら、わたしは、あなたを倒します」
美琴はためらわなかった。目の前で友人が死んだあの日から、ずっと考えてきたことだ。なにもかもを知ってしまっても、その思いは揺るがない。
男──魔王は、薄く唇の両端を上げた。笑みの形なのに、笑っているようには見えない。
美琴は立ち上がり、しっかりと足を踏み出す。魔王の前で立ち止まり、真っ直ぐ彼を見上げた。
武器はない。あったとしても、いまここで、たったひとりで仕掛けて、勝てるとも思わない。
しかし不思議と、目の前のこの男が、いま自分に危害を加えることはしないと、思った。そのつもりならば、わざわざ自宅に運んで、目覚めるのを待つようなまねはしないだろう。
「質問に、答えます」
瞬かず、漆黒の目を見た。魔王は黙って、美琴を見下ろしている。
美琴の頭のなかで、彼女にとっての本当の始まりであったあの日の、あの問いが繰り返し響いていた。
貴様は、この世界を、守るのか──あのときは、その問いの意味すら、わからなかったけれど。
「わたしは、この世界を、守ります。わたしの、意志で」
魔王の顔に、今度こそ笑みが浮かんだ。無邪気、という表現が合うような場面ではなかったが、それでも美琴は、その笑みを無邪気だと思った。
「ならば、私もそれに応えよう」
声すら、幾分弾んでいるように聞こえた。すっと両手を伸ばし、美琴の頬に触れる。
少しだけ持ち上げて、額に唇を落とした。さらりと、両脇から黒髪が流れ、美琴の肩をくすぐる。そのまま、さらに頬を寄せ、耳元で囁いた。
「ゲートタワーで、待つ」
驚きの感情が追いつくよりも早く、魔王はふっと姿を消した。まるで、さっきまで目の前にあったのは、ただの煙であったかのように。
同時に、扉が開き、有里沙と良太郎が飛び込んできた。どうやらずっと、扉を開けようと奮闘していたらしい。二人とも、突然扉が開いたことで、前のめりに倒れそうになる。
「み、美琴ちゃん──! 無事っ? なにがあったの?」
有里沙がすぐに抱きついてくる。直前の思わぬ出来事に呆けていた美琴は、無事といいたいがうまく言葉にならない。この部屋での音は、一切届いていなかったらしい。
「よかった……ケガもないみたいね……ほんとによかった……」
有里沙の声は震えていた。美琴は、もうしわけないと思いながらも嬉しくて、思わず笑みをこぼす。ごめんなさいとありがとうを伝えると、やっと安心したように、有里沙は手を離した。
良太郎にも同じことを告げようと視線を移すと、彼はものすごい剣幕で美琴を睨んでいた。いまにも雷を落とそうとしているところのようだ。美琴は思わず身を縮め、落雷に備える。
「てめえ、よくも、オレを庇うようなこと──!」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に謝り、振り下ろされる拳を覚悟する。
しかし、良太郎は、吸い込んだ息を、ゆっくりと時間をかけて吐き出した。ずるずると、そのまま座り込む。
「…………違う、謝んな。悪かった。……ありがとな」
「このバカ、いまにも泣きそうだったのよ。いっそ泣いちゃえばかわいかったのに。やーね、オトコノコって」
有里沙が軽口を叩くが、それに反論する気力もないようだ。ぷい、とそっぽを向き、黙ってしまう。
「あ、無事だった? ね、ここにいたでしょ」
飄々とそんなことをいいながら、田中が廊下から顔を出した。その表情からは、美琴が無事で良かったとか、そういう感情は少しも読みとれない。
美琴は、黙って、田中を見た。きっと、「吉川美琴」が無事でも、そうでなくても、彼にとってはたいした問題ではないのだろう──そう思った。しかし、その考えは、美琴にたいした感慨を与えなかった。
恐らくそれは事実だ。しかし、だからといって、美琴が傷つく筋合いはない。
「田中さん、大事な話があります」
思ったよりも、固い声になった。有里沙と良太郎が、こちらを見るのがわかる。
「席をはずしたほうがいい?」
「……ごめんなさい」
「いいのよ。あたしも良太郎に話があるから」
そういって、有里沙は良太郎の首根っこを掴み、そのまま連行していく。さすがレベル五二、大の男ひとりを引きずるぐらい、仔猫を相手にしているようなものだ。
田中を部屋に押し込み、有里沙は扉を閉めた。田中は、美琴を見下ろして、冗談めかして笑ってみせる。
「愛の告白?」
「まあ、そんなようなものも含めて」
「……いうねえ、ミコトくん」
予想していなかった返しに、思わずひるむ。その様子に、美琴は素直に笑んだ。
「訊きたいこと、いいたいこと、たくさんあるんですが……まず、ひとつ、いいですか?」
自分でも、不思議なぐらい、穏やかな気持ちだった。田中が黙っているので、美琴は続けた。この男は、見た目もやることも胡散臭いが、いままで一度だって嘘はいっていないはずだ──ならば、正直に答えてくれるだろうと、思った。
「わたしで、何人目ですか?」
田中は、ふっと眉を下げた。
予想していたのだろう。その表情に、驚きの色はない。ただ、自嘲するような、なにかに後悔するような……ほんの少しだけ、寂しそうな目。
「六人目、ぐらいだったかな」
姉から告げられたことが信じられず、嘘だろ、といおうとした。しかしいわれてみれば、良太郎にも、思い当たるふしはあった。
「あんたの知り合い……知り合いの知り合いでもいいけど、だれかひとりでも、モンスターにやられて死んだ? だれかひとりでも、マジックショップやカジノで働いてる? ──つまり、そういうことよ」
良太郎は、思いを巡らせた。
モンスターがいることも、マジックショップや武器・防具屋、カジノといった店があることも、良太郎にとってはあたりまえのことだ。
しかし、自分を含め、自分の友人たちは、だれひとりとしてそれらに深く関わってはいなかった。あたりまえであるのなら、友人に米屋の息子がいるように、マジックショップの息子がいてもいいはずだ。だれそれの家族がモンスターにやられたとか、そういう訃報が聞こえてきてもいいはずだ。ひとだけではない──美琴がいっていた、ショッピングセンターにマジックグッズが売っていないという、その意味。
「……つまり、いまある店、アイテム、モンスター……モンスターにやられた被害者や、店で働くひと──まるごと、ゲームの世界のものってこと、か?」
「そう。たぶん、もとの世界にとって、被害はゼロよ」
「なんだよそれ」
ふつふつと、苛立ちがこみ上げた。では、いま自分たちがやっていることはなんなのだろう。魔王を倒す、それ自体、いったいなんのために。
ふと、疑問がわいた。
「オレらや……吉川は?」
「あら、意外。自分の存在が不安? あたしたちはこっち側よ。向こう側にしては、根付きすぎてる。親戚も、知り合いもたくさんいるし、アルバムに写真もある。……まあ、そんなもの、判断材料にならないかもしれないけど、あたしがTSやってること覚えてたんだから、間違いないと思うわ」
姉のそのいいかたに、良太郎ははっとした。
思わず天井を見上げる。美琴は、田中と二階で話しているはずだ。
有里沙は、瞳を伏せた。
「……そもそも、美琴ちゃんがやる気になった発端の、中学で亡くなった生徒──中原理恵っていう子らしいけど、住所もなにもデタラメよ。昔からの友だちだって名乗り出る子もいないし、いるはずの兄もいない」
「なんだよそれ。じゃあ、吉川は……」
「そうね。たぶん、美琴ちゃんも、気づいてる」
ひどい頭痛を覚え、良太郎は頭を垂れた。
では、魔王を倒したとして、どうなるのだろう──
否応なくその問いに行き着いて、くそう、とつぶやいた。