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[百人一首妄想話]手





「………………やだ」







「……え?」


何日ぶりに聞いただろう。あの子の声を。元々口数が極端に少なく、人前ではほとんど口をきいたことがない彼女。の声で俺は頭がフリーズした。

それはとてもとても小さな声で、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまうほどだけれども、確かにそれは俺の鼓膜にしっかりと伝わった。だが俺の脳はうまく機能していなかったらしい。声は聞き取れたが何と言ったかを理解することはできなかった。


「…………今、なんて」


彼女は俺からふいっと目をそらした。夕焼けで色素が薄い肌と艶やかな黒髪が綺麗なオレンジに照らされる。ああ綺麗だと柄にもないことを思っていると。


「…………やだ、って」


さっきよりも大きい声で、しかし喋り方は単語レベルで。

言葉を切って口を噤んだ彼女。制服から少しだけ見えていた指先は、今はぎゅっと握り締められている。


「……言った」




 *

  *

   *

  *

 *

*

 *

  *

   *



事の発端はつい5分前。



「今日図書館寄るから、先帰ってて」


終礼後、二人きりになった教室で帰り支度をしたあとだった。

珍しく、というか付き合い始めて初めて別々に帰ることになった。俺は不本意ながらも図書委員で、しかも今日は放課後のカウンター当番だ。委員でもない彼女を無理やり仕事に付き合わせるわけにもいかないという配慮から、なんとなく物足りないけれど先に帰ってくれと頼んだ。だが彼女はいつも崩さないポーカーフェイスを少しだけ崩して、というよりほんの少し眉を下げて俯いた。


「どうした?」


少しだけ距離を詰めて顔を覗き込むと、彼女は俺からさっと離れた。

(え、俺何かした? 何もしてないよな?)

内心冷や汗をかきながらもう一度、自分的には優しめの声でどうしたの、と聞くと彼女はぎゅうっと唇を噛んだ。相変わらず俯いたままで。

……マジでどうしたんだ。


「具合悪い、とか?」


彼女は何も言わない。ただそこにつっ立っている。まるで人形のように。

本当に具合が悪いんだろうか。そうだったらいい。仕事をサボって、というか彼女を送るという名目で二人で帰れるんだけど。そんな悪趣味な考えを持つ俺はどうかしてる。多分。

片足に重心を乗っけるのをやめて、足を交差させた。かたん。机の足にぶつかった音。それは静まった教室で微かに木霊したように聞こえた。



「………………っ」



彼女は突然ぱっと顔を上げて俺を見た。オレンジ色の光のせいか、それとも彼女の頬が赤いのか。どちらにしてもすごく可愛い。全然俺らしくないと心中で苦笑して。

だが彼女は口を開いて何かを言いかけて困ったような顔をして、また俯く。


それを何度も繰り返す。


「……?」


首を傾げるしかない。

時計を見ると、もう5時になろうとしていた。委員の仕事は5時から閉館時間の6時30分までだ。ちなみに図書館は最上階の5階にある。間に合わない。かもしれない。

またサボろうとしたでしょ、とかなんとかと煩い相方や委員長から怒られるのはあまり気持ちがいいものではないし。


「ごめん、涼香(りょうか)。俺もう行かないと」











――――そして冒頭に戻る。








「やだって、……何が?」


滅多に喋らない彼女の声が聞けたことだけでも嬉しい。だが“やだ”の真意がどこにあるのかがまだはっきりと分からない。彼女は小さくあー、とか、うーとか言いながら考え込んでいたが、意を決したように顔を上げ、唇を開いた。目が合うとちょっとだけ瞳が揺れた。



「わたしも、」

「……ん?」

「わたしも、……図書館、」





「………………行っ、て、も」


彼女の声はか細く、小さく、震えていた。だけどそれは俺の耳にはっきりと届いた。彼女は言い終わった後泣きそうな目で俺を見つめて、ゆっくりと目をそらした。制服の中で握り締められていた細い指は、今は自分の両手をぎゅうっと握りしめている。腕は、手は、指は、微かに震えていて。

ああ。さっきの“やだ”は別々に帰ることを拒否する言葉だったのか。

この一言を言うために、彼女は彼女なりに考えたんだろう、一生懸命。俺にしてみればなんでもないことだけど。滅多に喋らない彼女にとってそれは声が十分に水分を持ってしまうくらいのことで。でも、伝えてくれた。

それがなんだかいじらしくて可愛くて、つい顔が緩んでしまった。



「大歓迎。一緒行こ」


「……ほん、と?」


少しだけ顔を上げて俺を見上げた彼女の表情は、怯えた小動物みたいで。

そんなに怖いかなぁ、俺、とか思いながら。


「ほんと」




彼女は俯いたまま小さく頷いた。俺より20センチ以上も小さい彼女が、今日はさらに小さく見えた。

教室を出ると、彼女は俺の手を握った。自分の体温よりあたたかい手。

いつも彼女は無言で俺の制服の袖を摘む。それが控えめな彼女なりの愛情表現だと俺は理解していた。

だが顔を真っ赤にした彼女が自分から俺と手を繋いだという事実があまりにも衝撃で、なんだか凄く愛しくて、思わず空いていた方の手で彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でてしまった。







一緒に帰りたいとはなかなか言えない、無口な彼女の小さな愛情表現なのだと都合よく解釈してもいいのだろうか。

俺も一緒が良かった、と気恥ずかしさを堪えて言うと、彼女は俺を意外そうな目で見上げて、それから真っ赤になった。


「…………も、って」


となんだか分からない返事をして。









難波潟(なにはがた) 短き(あし)の ふしの間も  逢はでこの世を 過ぐしてよとや


(難波潟に生えている葦の、あの短い節と節の間、そのように短い間であっても、あなたに遇わないでこの世を過ごせとおっしゃるのですか)






お粗末さまでした。

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