溜め息と憔悴
粘着質な女よりも面倒かつ厄介で煩わしいものが、果たしてこの世にあるだろうか。
「瀬村さんおはよう! ね、5月でも暑いんだし衣替えしていいと思わない?」
どうでもいいよ。
朝、教室に入ると毎日のように駆け寄ってくるこの岸谷薗香。どうしたらいいんだろう。
「朝から不愉快なんだけど。衣替えとかどうでもいいよ。そんなに暑くないし」
「えー、走ったら暑くなるよ!」
「走るなよ」
岸谷薗香を無視して机に向かう。鞄をどすん、と音を立てて置いた。するといつだか教室で話した鳥飼くんが、こっちを向いてさも愉快そうに笑った。
「おぉ、おはよう瀬村。あ、まさか機嫌悪かったりする?」
こいつもこいつで朝から軽いな……彼の性格とは裏腹な、真面目そうな短い髪型を見ながら私は考えた。この鳥飼という男、性格は軽々しいのに見た目は至って清潔そうなんだな。
「あー、やっぱご機嫌斜めかぁ。イライラすっとな、カルシウム減んだってよ? 背ぇ伸びなくなるぜ」
「……伸びなくていい。あなたのようにはなりたくないし」
「え、それって実は遠回しに俺が背高いって言ってくれてるとか? サンキュー! 超嬉しいんすけど。やっべ俺、今年中に篠原越せるかも」
いや、褒めてない。何だかこの人にも呆れるわ…鳥飼くんは背が高い方だとは思うけど、篠原くんは越せないと思う。あの人まだまだ伸びそうだし。
そして撒けるとは思わなかったが、席に着いてからも岸谷薗香はしつこかった。
「あ、そうだ瀬村さん。あたしさっき相楽先生にプリントまとめ頼まれてね。放課後にやれって事だったんだけどかなり多いから誰かに頼むように言われたの。だから放課後あたしとやってくれない?」
「はぁ? 知らない。そんなのあんたが勝手に引き受けたんでしょ」
「だってあたしの友達運動部多いから抜けらんなくて……ね、じゃあ放課後帰んないで残っててね!」
岸谷薗香は軽い足取りで教室を出て行った。そんな彼女とすれ違うように、篠原くんが教室に入ってくる。岸谷薗香とは裏腹な、けだるそうな歩き方だ。彼は岸谷薗香を入口から遠い目で眺めると、私の隣の机に鞄を置いて席に着いた。「朝から災難だな、おまえ」と他人事のように呟く。
私はその時あらゆる物事に憤慨していたので、「うるせぇチンピラ」と答えて後は黙り込んだ。篠原くんは悲しそうだった。
あのクラスメイトは、いつになったら私に飽きてくれるんだろう。もう1カ月にもなるのに。
さて、忌まわしい放課後は容赦なくやって来た。私は放課後結局、無人の教室で岸谷薗香とプリントをせっせとまとめていた。忌まわしいというか忌々しい。
「うあー、結構あるねこれ。終わんないよー」
「誰のせいでこんな事態になったと思ってるの」
「そりゃ、プリント印刷した相楽先生じゃないかな」
あっけらかんと笑って答えた岸谷薗香を思い切り睨み付け、プリントをまとめる手を速めた。岸谷薗香は「わぁーっごめんね、怒んないでよー!」と苦笑いして両手をぱたつかせる。無駄話をしていないでさっさと手を動かせ作業の効率を考えろ、仕事を終わらせろ。言いたい事は山ほどどころか信濃川の上流から下流くらいまであったけど、私は何も言わなかった。
プリントまとめという地味な作業がやっと終わったのは、6時近くなった頃だった。2時間近く机で黙々と作業を繰り返していた訳で、随分と足腰が固まるように凝っている。私は思わず両手を上げ伸びると、「あー…」と唸りながら首や腰を回した。ごきっと軽い音がして、自分は本当に主婦なんじゃないかと思えた。
「わー、今凄い音したけど。瀬村さん大丈夫? 無理矢理巻き込んじゃってごめんね。お疲れ様!」
岸谷薗香は笑って私にそう言った。こいつには疲労という概念がないのだろうか。
反対に、私はもう屍のように机に突っ伏していた。ただでさえ、毎日台所に立ってるだけで腰が痛むのだ。こんなところで固まったら帰宅後の家事がますます億劫である。あーあ。憂鬱だ。
負のオーラを纏うどよんとした私に、岸谷薗香は「そうだ!」と閃いて人差し指を立てて言った。猛烈に嫌な予感。
「ねぇ瀬村さん、もう6時なんだし何処かお店で夜ご飯食べてかない?」
はい来た。来たよほら。出たよ厄介事。私エスパーになれそう。
「今日はあたしが巻き込んじゃったんだし、お詫びとお礼を兼ねて奢るよ。ね、行こ! あたしおいしい洋食屋さん知ってるよ。よーし、早く帰る支度しよ。ねっ」
「はぁ!? ちょ、私まだ承諾してないんだけど」
結局強引に連れて行かれる事となった。私はいつか初対面で、昼休みにテラスに引っ張られて行った事を思い出した。こいつは人と食事するのが好きなのか。
それでも奢りなら外食が家計に響く事はないし、何より帰宅後夕食の準備をせずに済むからよく考えれば悪くない気もした。ただ、一緒にいる相手が粘着質なクラスメイトなのが不愉快なのだけれど。でもってそいつに奢られるのも嫌なんだけど。
「瀬村さん、もしかして洋食嫌いなの?」
「そうじゃない。嫌い云々の前に疲れたから帰りたいの」
強引かつ粘着質なこの女は一度言ったらもう聞かず、またしても連れて来られてしまっている。私は現在、霜村高校からいくばもない距離にある洋食屋で何故かパスタを食べている。
「疲れたって……あ、瀬村さんって家事で忙しいんだっけ。ごめんね無理矢理連れてきちゃって……」
それを何でもっと早く思い出せなかったの。目の前で能天気にオムライスなんぞを突いている岸谷薗香に言いたくなったが、言葉を呑んだ。今更言ったってどうせ、後の祭りだ。
「でもこのお店、おいしいでしょ? ここね、小学生の頃にお母さんと来てから行きつけになったの」
世間の母親は娘を洋食屋に連れて行くようなものなのか。今知ったよ、たった今さぁ。笑っちゃうぜ? 私の母親は連れ出すどころか、こっちを見向きもしなかった。その証拠にもう何年も音信不通じゃないか。
「瀬村さん? どうしたのぼーっとして…」
その声で我に返る。岸谷薗香が目を丸くして私の顔をじっと見ている。
……駄目だ。考えるな。母親の事なんか。あの人にまつわるいい思い出などない。あの人は、私を見ていないんだから。
「やっぱりパスタ嫌いなんだ、無理して食べなくてもいーよー」
「だから嫌いじゃない」
そう言い切って、ミートソースの絡んだパスタを口に詰め込んだ。
結局、岸谷薗香の奢りで食事をして店を出たのは7時近くなった頃だった。
今日は疲れた。理不尽な内容の労働に粘着質女との食事。忌まわしい1日だった。固まったような肩を回してみても、凝りは取れてくれない。奢られたからには借りを返さなければならない。岸谷薗香に貸しは作りたくないのに。
薄暗い夜道を歩く帰路で、私はふと漠然とアルバイトを始めようか、なんて考えていた。