小さな約束
学校に着いても、早朝の教室には誰もいなかった。
篠原くんは「俺空気読んでどっか行くわ」という謎の言葉を残して本当に何処かに行った。どういう意味かと思いながら誰もいない教室で独り右往左往していると、教室に何者かがやってきた。
梨華だった。
いつもあんなに明るい彼女は無言だった。少し怒ったような顔で教室に入り、私にずかずかと近づく。歩く度にサイドポニーの髪が揺れる。わああ怖い、他クラスへの進入は禁止だぞ。
梨華の開口一番は途轍もなく奇妙なものだった。
「レイの馬鹿」
「は?」
私は意味が分からず変な声を出した。すると梨華は大きな目で私をきっと睨む。
するとその瞬間、顔にびりびりとした衝撃が走って頬が熱を持った。梨華は私の頬を平手打ちしたのだ。
「い…っ」
殴られた所だったから、余計に痛みが増した。
「何すんだこの怪力女、顔面の怪我見て痛いかどうか察しろ」
「察したから叩いたの! レイの馬鹿、何であたしに言わないの? こんなに顔怪我して! いっぱい殴られたんでしょ? あたし昨日レイがされた事、全部知ってるんだからね」
え、何で?
篠原くんしか知らないはずじゃ。
私達は場所を変えて屋上に行き、そこで話をする事にした。
「何で知ってんのかって聞きたいんでしょ」
すっかり機嫌の直った梨華は、にっと笑って私に言った。殴ったら気が済んだらしい。勝手だ。
「なら聞く。どうして知ってるの」
「篠原くんが教えてくれたの。レイの隣の席なんでしょ?」
「……篠原くんが?」
「この前話してた篠原くんってあの人だったんだね。超かっこいいじゃん。彼氏候補?」
「違う」
私はそういった女の恋愛話が嫌いなので梨華を睨んだ。
「ふーん、まぁいいけど。昨日ね、ボロボロになって気失ってるレイおぶってる篠原くんをあたしが見つけたの。帰ろうとしてた時に。そんで、篠原くんとあたしでレイのこと家まで送ったの、篠原くんはレイの家知らないでしょ」
あぁ、だから。私は部屋に居たのか。
梨華なら私のマンションも部屋番号も、私が家の鍵を鞄のポケットに入れてる事も知ってる。
「で、その時に何があったのか聞いたの。レイ襲われかけたんでしょ? その時の男、あたしの隣のクラス……5組でね、で超やばい奴らしいよ。中学時代からかなり荒れてたっぽい」
「へぇ。すごいね」
「何感心してんの! とにかく、篠原くん来なかったらレイやばかったんだからね? あんまり女の子敵にしちゃダメだよ」
「……敵に回した後に言われても」
びゅうっ、と不意に風が吹く。私の長い髪が靡いて舞い上がった。
「その髪、もう何年放置してるの?」
梨華がくそ真面目な声で聞いてきた。
「もう腰どころかお尻まで伸びてんじゃん」
「そりゃ切んなきゃ伸びるよ。もう数年間は手ぇ付けてない」
「美容室行ってカットすればいいのに。けど何か似合うね、サマんなる」
「どういう意味だ、それ」
「髪の毛もそんだけ伸びてんのにほとんど傷んでないしさぁー、羨ましい。けどそこまで伸びてたら座ってシャンプーできないでしょ?」
「立ってれば問題ない。ただ、水分を絞るのに物凄い労力と時間を要するだけ」
自分が厄介な事件に巻き込まれたというのに呑気に人事のような溜め息を漏らす私に、梨華は笑いつつも怒っていた。中学時代から陰口の絶えない私だからこそ、心配はしてくれているんだろう。
話は済んだ。屋上から1年の教室がある階まで向かうと、結構生徒が登校してきているようだ。もうそれくらいの時間になっていた。
「じゃあねレイ。今日は大人しくしてなよー?」
2組の教室の前まで来て陽気に笑う梨華を見て、はっと思い出した。
「あ、梨華。ちょっと待ってて」
私はあることを思い出したので梨華をそこに留まらせた。教室に入り鞄をあさってそれを取り出し、入口付近にいる彼女に差し出す。それは朝に作った弁当だった。
「いつだか約束してたから、お弁当。梨華の好きそうなの入れといた」
梨華は一瞬目を丸くして弁当箱を見た。けどすぐに笑ってそれを受け取ると、自分の教室へと戻って行った。
「しょうがないからこれで許してあげる!」
振り返って満面の笑みを浮かべる梨華に、私も微量の笑みを零した。