ひとりめのともだち
結局、生徒手帳は見つからないまま。
家に帰り、乾く気配のない彼のYシャツを乾燥機で乾かすと、アイロンがけをして丁寧に畳んで紙袋に入れておいた。明日きっと返す。それから、お礼もちゃんと言おう。
広子さんと食事をして学校に行って、色々やってたら結局もう深夜になってしまった。それでもあの事件直後、意識を失い眠っていたせいで目が冴えている。
眠りについたのは午前3時だった。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
「……早っ」
低血圧な頭でも驚く程に時刻は6時で、3時間しか寝ていない体はかなり重だるく感じられる。目が覚めて顔を洗う、着替える。弁当を作る。いつもの日常に戻ったような気がした。だけど正直日常ってものが何なのか、もうよく分からなくなってきた。今でも昨日の事件は夢に思える。だけど今年買った新しい制服は明らかに意図的にボタンが弾け飛んでて、広子さんの使っていたという使用感のある制服がそれを思い出させる。
昨日拉致されて殴られて、暴行されかけた? そんでもって彼が助けにきた、と。客観的に聞けば真実味のない話だった。
無駄に早く起きたから、時間が余る。梨華に弁当を作ってやると言ったいつかの約束を思い出して、自分のとは別に梨華の弁当を作った。
それから、篠原くんのも。
お礼、ってことでいいのか。
だってあの時来てくれなかったら、今頃絶望の真っただ中にいた。
言葉だけじゃ伝え切れないから、だから。せめてものお礼。
梨華の分と自分の分は普通に鞄に入れる。篠原くんに作った分は、昨日Yシャツを入れた紙袋の中に一緒に入れた。シャツと弁当じゃ意味不明だから、一応メモみたいな手紙もつけた。昨日は助けてくれてありがとう。お礼です。そんなことを書いた。
さっき顔を洗う時にもしみたけど……
鏡を見ると、いつものセーラー服から伸びる首、その上にあるいつもの仏頂面を張り付けた顔が明らかにおかしい。頬が片方変色して腫れているし、口の端が切れて赤黒く滲んだ血が固まっている。頬骨の辺りは擦れてかさぶたになってる。そういえば、昨日広子さんに言われた。ちゃんと学校行く前に手当てして行きなさい、って。
どうせ血だって止まってるし、怪我が目立つだけなのに。私はそう言ったけど、この顔のまま外を歩かせる事を許さなかった広子さんはガーゼと傷パットにテープに塗り薬まで置いて、方法まで説明すると帰って行った。
彼女に頭の上がらない私は、大人しく鏡の前で救急箱を持ってきて手当てを始める。頬骨の辺りの擦り傷には大きめの傷パットを貼る。殴られた頬には薬を塗ってガーゼをテープで貼る。これだけでかなり怪我人っぽい顔になった。切れた口には小さな絆創膏を貼った。ここまでしないと広子さんは許さない。
まだ7時15分。
随分と早いけれど、もう学校に行こうか。家にいたってやる事はない。学校に行ってもないけど。
部屋を出てマンションのロビーから出ると、入口になんと篠原くんが立っていた。私は驚いて思わず足を止めた。
彼は私を見つけると、耳にはめていたイヤホンを引き抜いた。
「……はよ」
おはよう、って…朝からますます低い声。機嫌の悪そうな顔。
けどいつもと違う事がひとつ。彼の整った顔の右の頬に、青黒く殴られた痕がある事だった。
「……ストーカー?」
私の放った第一声はそれだった。だってそりゃあ、朝から人のマンションのロビーに突っ立ってたら怪しいだろう。
「バッカ、ちげーし。朝からそれはねーだろ。結構待ったんだぜ」
いやだって、マンションの前にいたらさ。
しかも“待った”って、待ち伏せしてたって事だよね。
「話は歩きながらでいいじゃん」
長い脚を持て余すようにけだるそうな歩き方をする篠原くんを、私は追う。
「お前、朝早ぇのな」
「は?」
「まだ7時半前だぜ? 主婦かよ」
主婦だよ。
スーパーに買い物も行くしご飯だって作ります。広子さんが毎日来る訳じゃないんだから。特売だって見逃せない。朝のゴミ出しだって欠かせない。
「何、黙ってるけど。怒った?」
「別に怒ってない」
朝の住宅街にはほとんど誰もいなかった。こんな早くに学校へ行く学生なんていないし、いるとすれば大人か散歩してる年配の人くらいだった。そんな道を篠原くんと歩いている。妙だと思った。
何でここにいるの。何で家知ってるの。
聞くタイミングが掴めない…。
っていうか、昨日の事とか。いっぱい聞く事があるじゃないか。
「篠原くん、って」
「は?」
考えずに口を開いたから、何を言えばいいのかわからなくて、口ごもる。
「昨日。何で? だから…どうして、私がいる倉庫が分かったの?」
「あー、あれ。ごみ箱ん中の果たし状。丸めて捨ててるお前、朝に見たから。悪いけど見さしてもらった」
「……そう」
何を言えばいいか分からなくて、なんとなく俯いた。自分の小さなローファーと、その隣を歩く大きいスニーカーが見える。その足を見て、彼が私の小さな歩幅に合わせてくれている事に気付いた。
その時何故だか、どうしようもない感情が溢れた。
私は思わず立ち止まってしまった。道の途中だっていうのに。
「……どした。置いてくぞ」
「あの、」
彼ははてなマークを貼り付けたような顔でこちらを見ていた。
「何」
「……あの、篠原くん。昨日は…ありが、とう。本当に…」
「別に。気にすんなよ」
そのまま歩き始める篠原くんの後を小走りで追い掛ける。変な奴だと思われただろうか。
「……もっと早く行けたらな。そしたら、お前は殴られる事もなかったのに」
呟くように言った彼を見ると、いつものけだるそうな顔だった。
「顔。そんな傷作らして、俺も悪かった」
何それ?
そんな、いいのに。
最後までやられる前に助けに来てくれただけで、十分なのに。
なのになんでそんなこと言うの?
あなたはたったひとりで、助けにきてくれたじゃない。
口に出せないから黙っていた。
生まれつきらしい茶色の、適当に伸ばした髪の毛。長身で体格がよくって。整った顔の眉間にはいつも皺が寄っていて、眼力は鋭い。着崩した制服。まるで不良のような外見。ピアスを開けている訳でもない、アクセサリーをつけている訳でもない。それでも何処か迫力があって、大人しい女の子だったら怖がってしまいそうな。最初はただの怪力だと思った。むかつくチンピラ。そんな感じ。
このひと、やさしい、ひとなんだろうか。
隣にいる張本人は、眠そうに欠伸なんかしてる。
「……眠いの?」
「あー? 当たり前だ、ねみぃよ」
「昨日何時に寝たの」
「そっちじゃない。今日は早起きしたの」
「……どうして?」
「別に」
あ。
私の家に来る為に、早く起きたのか。
私がいつ家を出るか分からないから待ち伏せしてた。
それはどうして?
「家まで行って損した。近所のばーさんに変な目で見られたんだぜ? お前んとこの同じ階の住人っぽいばーさんがよ、“瀬村さんとこの娘さんに用?”ってさぁ。霜高の制服だってバレてやがんの。お前はぴんぴんしてるし」
ぴんぴん…
心配してたってこと?
だから迎えにきたの?
「怖かったんだろ」
「え?」
「泣いてた。お前、あん時」
あぁ。
あれは、大事な生徒手帳がなくなったから…
本当に?
それでもあの時は何故か、涙が出ていた。
「怖かった。すごく」
「……うん、」
言ってみたら、本当にそうだったのだと確信できた。
毒を吐いては人の心を殺すつもりだった。
そうやって近づいてくる奴らを突き放した。そうしていくいつに誰も近寄らなくなっていった。そうして生きてきたつもりだった。
だって誰も信用できないから。
生き抜く為には敵を殺す毒が必要不可欠だった。
だけど私は強くないから、そんな建前はすぐに崩れる。今は何故か彼の隣にいるだけで弱るみたいだった。
確か果たし状がきた日の昼、彼は何となく私を心配してくれていた気がする。
あの時からもう篠原くんは気付いてたんだ。
じゃあ勝手に毒を吐いてたのは私だけって事だ。
その日、私は彼と友達になれた気がした。