制御不能な少年戦機
視界がうっすら、白っぽくぼやけていた。
男に殴られたせいもあった。けどそれはたぶんきっと涙だった。何故か薄く滲んだそれが、その時の私には何なのか分からなかった。
涙を堪えながら、意識が飛んでしまいそうになるのも堪えていた。息もだんだんと浅くなっていたけれど、どうにか呼吸を乱さないようにと必死でいた。
こんなところで泣きたくなんかない。
こんなところで犯されたくも、ない。
こんなところで、わたしは……
そう思った時に、思わず声が漏れた。え、っていう声にもなってない声だった。そんな声が出たのは、驚いたから。
驚いたのは、大きな音がしたからだ。
けたたましい音だった。
古そうな扉がいきなり勢いよく開いた。何故かと思ったが、数秒して気付いた。何者かによって扉が力任せに蹴破られたのだ、と。
思い切り開いた扉はギィ…、と先程の余韻のような音を立てている。薄暗い倉庫の中に対してかなり明るい入口に、逆光した真っ黒な影――長い脚がある。それは歩いてきて、真っ黒な人影に形を変える。倉庫の中の誰もが固まっていた。まるで時間の止まったように、その人影に注目していた。
長身で体格がいい、男だ。所々跳ねたその髪型に見覚えがある。目が明るさにだんだんと慣れてきて、少しずつその人物が見えてくる。そいつは息を切らして眉間に皺を寄せ、機嫌の悪そうな低い声で言った。
「………バッカじゃねぇの?」
……なんで?
なんで、ここに。
いつもの10倍のしかめっ面をした篠原くんだった。
女子達は口をぽっかりと開けて、というか開けてる癖に驚いて何も言わなかった。面食いであろうそいつらは、突然邪魔をしてきた奴に文句を言うつもりが、そいつが意外にイケメンだったので言葉を失ってるっぽかった。
「……ちょっと。何してんのよ斉藤。あの男、どうにかしてよね」
平静を取り戻した老け顔ツインテールが男に言った。この金髪は斉藤というらしい、案外普通だった。私の上にいた斉藤はのっそりと立ち上がった。全身に付けた無駄なアクセサリーがじゃら、と鳴る。うるさい。束縛のようなものから解放された私はまだ朦朧とする意識のままゆっくり身体を起こし、膝を崩して床に手をついてやっと座った。息が少し乱れる。まずい…意識が飛びそうになる。
斉藤は篠原くんのすぐそばまで近付き、ガンを飛ばした。
「何だお前……コイツの男か?」
「違ぇよアホ。盛ってる奴は色事しか頭にねぇのな」
表情を崩さずに不機嫌そうなまま言葉を吐いた篠原くんの顔を、斉藤は問答無用だと言うように殴った。
「しのはらく……っ!」
私は声を上げかけた。けど頭に激痛が走る。私の後ろにいる女子の鼻で笑う音がした。けど篠原くんは顔を少し斜めに傾けただけで、自分よりも図体のデカい男の攻撃をものともしない。
篠原くんは、斜め下に向いた顔をゆっくりと正面に戻す。そして僅かに垂れた鼻血を手の甲で乱暴に、強引に拭うと斉藤を思い切り睨みつけた。
誰もが怯むような、怖いというより、
それらの仕草が妙に色気があって、私には彼のその眼力の鋭さや迫力、強さも全てがかっこよく見えた。
私はその時、彼に視線とか注目とか色んなものを奪われていた。
篠原くんは殴られた事で導火線に火が点いたらしい。
効果音で表現のできない、人が殴られる音がした。
篠原くんは見てるだけでも露骨に分かるくらいの物凄い力で、斉藤を殴り飛ばした。文字通り飛ばされた斉藤は、横にドスンと倒れた。
「ぶっ、げほ、ちょ…待っ、て」
「もう終わりか?」
斉藤は情けない声で顔を押さえ、命乞いするような目で篠原くんを見上げていた。立つ事すらできないらしい。一方篠原くんはといえば、冷徹な目で男を見下していた。
篠原くんは倒れている斉藤の近くしゃがみ、胸倉を掴み無理に起き上がらせる。ぐいっと顔を引き寄せて顔を間近に迫らせて言った。
「ふざけてんのか? 女に手ぇ出すとか、人として最低だな」
「ごめっ…す、いませ、だって、お、そこの、女が言ったから」
そう言い終える前に篠原くんは容赦なく斉藤をぶん殴った。情けない謝罪も虚しく攻撃を受けた斉藤は、鼻血をだらしなく垂らして女子の足元に転がり、気絶した。
圧倒的な強さだった。自分よりも大柄な相手をものの数分もしないうちに倒し、自分は無傷と言ってもいいものだった。彼が殴られ、そして殴りまた殴る。一連の流れは瞬間的なものだった。彼は男を見下しながら、息を上げて喘ぎ額の汗を手の甲で拭った。
女子3人は、目の前で起こった出来事が読み込めずに唖然としていた。老け顔も茶髪も開いた口が塞がってないし、キノコに至っては全身ががくがくと震えていた。3人はすぐそばの足元に転がっているアホ面と、その斉藤を見下す篠原くんの顔を交互に見ていた。そして我に返ると、化け物を見たかのように悲鳴を上げて逃げて行った。
篠原くんは動かなかった。私のいる場所から横顔が見えた。
彼は振り返ると私を見る。
彼はこちらに歩み寄ってくる。私は力がほとんど身体から抜けていて、彼らが戦ってる間中も今も、ぼーっとした頭で腕を垂らし、倉庫の壁にもたれてずっと篠原くんを見ていた。
私は息を切らしつつ、立とうとして起き上がる。するとふらついて、立つ前に倒れ込んだ。
「おい! 無理すんなっつの……」
「…………ご、め」
もう随分と意識がなくなりかけていた。篠原くんは倒れた私の肩を受け止めると、私を胸に抱いたままゆっくりとしゃがんだ。
何で篠原くんはここにいるの?
どうして助けてくれたの?
聞きたい事は山ほどあった。けれど口がうまく動かない。
篠原くんは慣れた手つきでネクタイを解くと、自分の着ているYシャツを脱いで私にかけた。彼はシャツの下に黒いタンクトップを着ていたけど、流石に4月上旬の気温では寒そうだった。
「待っ……風邪ひく……」
「俺はいい。……つーか、目のやり場に困んだよ」
曖昧な記憶はここで完全に途切れた。
安心したのか、私は篠原くんの腕の中で意識を失った。
意識が無くなる前、最後に感じたのは、誰かに抱き締められるような暖かさだった。