地獄耳令嬢と呼ばれていますが、舞踏会で聞こえてしまったので助けに参ります
わたしの耳は、少しどうかしている。
十歩先のささやきが、隣の声みたいに聞こえる。大広間の楽団の向こう側、扇の内側で交わされる「ねえ、あの方のドレス、去年のよ」が、聞こえる。柱の陰の「例の件、今夜片をつける」も、聞こえる。
聞きたくて聞いているのではない。耳に、蓋がないだけだ。
十五の社交デビューの夜、わたしは無邪気にも、聞こえたことを口にした。「まあ、先ほどあちらで、あなたのお噂をなさっていましたわ。とても素敵な方だと」。善意だった。善意だったのだが、「あちら」は大広間の反対側の端だった。
その夜のうちに、渾名がついた。地獄耳令嬢。
以来、夜会でのわたしの定位置は、バルコニーの隅と決まっている。人の輪から遠く、音の少ない場所。ご婦人方はわたしの前で扇を二重にし、殿方はダンスの誘いの前に警戒する。当然だ。秘密の漏れ穴と踊りたい人はいない。
わたし、オディール・フォンテーヌ、二十二歳。壁の花ですらない。壁の外の花である。
◇
ただ、誰にも言っていないことが、一つある。
バルコニーの隅は、音の少ない場所ではない。大広間の音が、いちばん綺麗に「そろって」聞こえる場所だ。楽団の音、笑い声、グラスの音。その調和の底で、時々、濁った音がする。
悪意の相談は、音が濁る。声をひそめるからではない。ひそめ方に、力が入るからだ。
「――例の小娘、今夜こそ吠え面を」
「――グラスに一滴でいい。倒れて醜態を晒せば、殿下の心も冷める」
三年前のあの夜が、最初だった。聞こえてしまった。子爵令嬢のグラスに何かを入れる算段が、東の柱の陰から。
衛兵に言う? 何と? 「聞こえました」と? 大広間の端から端まで? 地獄耳令嬢の証言など、誰が信じるものか。信じられたら信じられたで、わたしは今度こそ社交界の完全な化け物になる。
だからわたしは、別の方法を取った。
給仕長を捕まえて、こう頼んだのだ。「東側の卓のグラス、曇りが出ていましてよ。あちらの区画、全部替えていただける? ああ、給仕の方も別の方に――あの方、少し手が震えていらしたから、今夜は休ませて差し上げて」。
グラスは全交換され、買収されていたらしい給仕は持ち場を外れ、子爵令嬢は何も知らずに夜会を楽しみ、殿下と婚約した。悪意の主たちは「失敗した」ことにすら気づかず、次の機会を待って――次も、その次も、なぜか毎回、偶然に阻まれた。
偶然の名は、オディール・フォンテーヌという。
以来三年。聞こえてしまった悪意は、ぜんぶ先回りして潰すことにしている。令嬢を庭に呼び出す偽の手紙が聞こえたら、その令嬢の母君のもとへ「扇をお忘れでしたわ」と娘を向かわせる。醜聞をばら撒く算段が聞こえたら、ばら撒き役の夫人の天敵を、さりげなくその卓に案内する。
誰にも気づかれない。誰にも感謝されない。夜会は今夜も、何事もなく終わる。
それでいい。何事もないことは、わたしにしか作れない作品だから。
◇
その人に声をかけられたのは、秋の夜会の、いつものバルコニーだった。
「フォンテーヌ嬢。少し、いいだろうか」
振り向くと、騎士団の礼装があった。ギヨーム・ラルジャン卿。王宮警備の責任者で、社交界では「壁の目」と呼ばれる人。夜会の間、決して踊らず、壁際から会場全体を見ている無愛想な騎士様だ。
「警備の責任者どのが、壁の外の花に何のご用でしょう」
「礼を言いに来た。三年分の」
心臓が、跳ねた。
「……何のことやら」
「先月の夜会。北の庭に令嬢を呼び出す偽の手紙が動いた。俺は手紙の存在を掴んで、庭に人員を回した。だが令嬢は庭に来なかった。母親に呼ばれて、会場を出なかったからだ。おかしいと思った。手紙を知り得たのは、俺の他にいないはずだった」
ラルジャン卿は、手すりに軽く手を置いた。
「それで過去の記録を洗った。この三年、俺が『未然に防いだ』と報告してきた事案の半分は、俺が動く前に、なぜか終わっていた。グラスの全交換。給仕の配置換え。卓の案内の妙な偶然。……全部の現場の、音の届く範囲に、あなたがいた」
「…………偶然ですわ」
「偶然は、三年で二十六回も続かない」
数えていたのか。わたしの「作品」を、この人は、二十六個も。
「安心してほしい。誰にも言っていない。言うつもりもない。ただ、どうしても直接確かめたかった。――君だろう。この三年、夜会の『何事もなさ』を作っていたのは」
三年間、誰にも見つからないようにやってきた。見つかれば化け物と呼ばれるだけだと知っていたから。なのに、いま。
「……気持ち悪い、とは、仰らないのですね」
声が、思ったより小さく出た。
「大広間の端の音が聞こえるのですよ、わたし。あなたの部下の方々が先週、詰所であなたの真似をして笑っていたのも聞こえておりました。『職務、以上』ですって。似ていましたわ」
「あいつら……」卿は額を押さえ、それから、ふっと真顔に戻った。「気持ち悪い? まさか。俺は三年間、会場の全部を見ようとして、見きれずにいた。目は一度に一方向しか見られない。だが君の耳は、全方位を同時に守っている。……羨ましい、が正しい。警備の人間として、あれほど欲しい能力はない」
欲しい、と言われたのは、この耳を持って生まれて初めてだった。
◇
その夜から、わたしたちは共犯になった。
手口はこうだ。夜会でわたしは、いつものバルコニーに立つ。濁った音を拾ったら、扇の開き方で方角を伝える。右に三度なら東、左なら西。ラルジャン卿は「たまたま」その方向を巡回し、「たまたま」未然に防ぐ。
功績はぜんぶ、卿のものになる。それでいいと言ったのは、わたしだ。「壁の目」の評判が上がるほど、悪意はそもそも夜会に持ち込まれなくなる。抑止こそ、最良の警備なのだから。
ただ、卿は律儀な人だった。夜会が終わるたび、必ずバルコニーに来て、報告をした。
「本日の事案、一件。処理完了。……あの扇の合図、右に二度と三度の区別がつきにくい。改善案を持ってきた」
持ってきたのは、扇の合図表の草案だった。方角八通り、緊急度三段階、対象の身分四通り。几帳面な字で、図解まで入っている。警備の鬼はどうやら、根が職人であるらしい。
「まあ。では、こちらからも改善要求を。あなたの巡回、歩幅が正確すぎます。三十歩ぴったりで折り返すので、勘のいい悪党には読まれますわ。時々、酔ったふりでも?」
「……酔ったふりは、訓練していない」
「不器用ですのね」
「ああ。不器用だ。だから」
卿はそこで、なぜか合図表に目を落とした。
「……いや。本日は以上。また次の夜会で」
いま、何か言いかけましたね? 聞こえていましたよ、息を吸う音まで。でも、続きの音は出てこなかったので、わたしは聞かなかったことにした。地獄耳にも、聞こえない音はある。人が飲み込んだ言葉だけは、どうしても。
◇
冬の大夜会は、王太子殿下の婚約披露を兼ねていた。
つまり、悪意の書き入れ時である。わたしは宵の口からバルコニーに立ち、耳を澄ませた。案の定、音は次々に濁った。扇、右に三度。左に一度。緊急度二。卿の背中が、そのたび正確に動く。
夜半、ひときわ深く濁った音を、わたしは拾った。
「――披露の乾杯で決行だ。騎士団の目は殿下に集まる。狙うのはその隙、標的は――」
音が、風で途切れた。標的が、聞こえない。方角は西の回廊。乾杯まで、あと僅か。わたしは扇を開いた。左に三度、緊急度三。卿が動く。回廊へ。よし――
「――標的は『壁の目』だ。あの男さえ消えれば、次の夜会から仕事がやりやすくなる」
全身から、血の気が引いた。
罠だ。事件を起こすと見せて、駆けつける警備責任者そのものを、人気のない回廊で。
そしてわたしの合図が、いま、彼をそこへ送り込んだ。
考える前に、体が動いていた。バルコニーを出て、ドレスの裾をつかんで、大広間の縁を回る。走ってはいけない、騒ぎになる、でも間に合わない、回廊はもう目の前で、卿の背中が角を曲がる――
届かない。声を出せば悪党にも届く。出さなければ卿に届かない。
どうする。どうすれば、あの人にだけ――
……ひとつだけ、あった。
わたしは立ち止まり、手の中の扇を、床に落とした。
静かな回廊に、乾いた音が、ぱん、と鳴った。
合図表にない音。でも、あの人なら。三年間わたしの「偶然」を二十六回数えた、あの几帳面な人なら――夜会で決して床に物を落とさないわたしの、落とした音の意味を。
卿の背中が、止まった。振り向かず、半歩だけ、立ち位置を変えた。
次の瞬間、暗がりから出た刃は、そこにいたはずの騎士の、いない場所を裂いた。あとは一瞬だった。「壁の目」は伊達ではない。乾杯の鐘が鳴るころには、賊は三人とも、音もなく縛り上げられていた。
◇
人払いの済んだ回廊で、卿はわたしの前に立った。拾い上げた扇を、両手で差し出しながら。
「……助かった。あの半歩がなければ、刺されていた」
「わたしの合図が、あなたを罠に送ったのです。差し引きで言えば」
「差し引きの話をするなら」
卿は、扇をわたしの手に戻して――戻した手を、離さなかった。
「三年と、今夜の分で、俺の借りのほうが重い。返し方を、ずっと考えていた。考えて、その、先日から何度か、言いかけては」
「存じています。息を吸う音まで、聞こえておりましたので」
「……地獄耳め」
「化け物ですので」
「化け物なものか」
卿の声が、静かに、まっすぐになった。
「君は三年間、誰の感謝も受け取らずに、この会場の全員を守ってきた。俺はそれを知っている、この世でただ一人の人間だ。だから、これは求婚であると同時に、職務上の提案でもある。――オディール嬢。あなたの隣は、うるさすぎる会場の中で、いちばん静かな場所であるらしい。生涯、そこの警備を、俺に任せてもらえないだろうか」
わたしの耳は、少しどうかしている。
十歩先のささやきが聞こえて、大広間の端の悪口が聞こえて、そして今夜、目の前の人の心臓が、鎧越しにひどくうるさいのまで、聞こえてしまう。
「……お受けします。ただし、一つだけ条件が」
「何なりと」
「先ほどから心臓の音がうるさくてよ、騎士様。警備責任者が、そんなことでどうしますの」
「壁の目」が耳まで赤くなるのを見たのは、後にも先にも、あの夜のわたしだけである。
◇
翌年の夜会から、バルコニーの隅には二人分の定位置ができた。
壁の外の花と、壁の目。会場でいちばん遠い場所から、わたしたちは今夜も「何事もなさ」を作っている。誰にも気づかれず、誰にも感謝されず――いいえ。
隣で一人だけ、数えている人がいる。
それで、十分すぎるのだ。
(了)
お読みいただきありがとうございました。
「聞こえすぎる人」と「見えすぎる人」がバルコニーで出会ったら、最強の警備網では? という思いつきから生まれた話です。世の中の「何事もなかった日」の陰には、たぶん誰かの先回りがあります。
フォンテーヌ夫妻(扇の合図表・改訂版を作り続けている)のその後も、ご要望があれば書くかもしれません。
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