未亡人と…… :約3500文字 :コメディー
昼下がり、とある一軒家の一室。
穏やかな日差しは厚手のレースカーテンに遮られ、室内には薄く濁った光が静かに広がっていた。外界を拒むかのように窓はぴたりと閉じられ、空気は重く沈んでいる。
カーペット敷きの床に広げられた布団の上には、この家の夫の遺体が横たえられていた。顔には白い布がかけられ、その下にかすかに鼻や顎の輪郭が浮かび上がっている。かつてこの家に音を刻み、熱を巡らせていたその身体は、今はもう微動だにしない。
布団の手前に置かれた小さな机には花や蝋燭、線香立てが整然と並べられている。たった今火を点けた一本の線香が、細く白い煙をゆらゆらと立ち上らせ、湿った香りを部屋に溶かしていた。
机の前で正座をしていた男は、ゆっくりと身体を横に向け、深く頭を下げた。
隣に座る女――故人の妻も小さく会釈を返した。
男は亡くなった夫の上司。連絡を受け、この日線香を上げに訪れていたのだ。
「……彼は本当によくできた男でした」
上司は低い声でそう言い、一度小さく息を吐いた。
「細かいところまで気がつき、仕事も丁寧で、同僚からの評判もよく……私にとっても心から頼りにしていた部下でした……」
「ありがとうございます……。夫も……きっと誇らしく思っているでしょう……」
喪服に身を包み、茶色の髪を後ろでまとめた妻は袖口で目尻をそっと拭った。
「奥さん……」
「はい……」
「奥さあああん!」
「え、ちょ、はあ!?」
妻は思わず声を上げた。上司が突然、がばっと身を乗り出し、勢いよく抱きついてきたのだ。生暖かい鼻息が首筋に吹きかかった。
妻は両手で上司の顔を押し返し、身体を捻るようにしてなんとか引き剥がすと、ずるりと後ずさった。
「いや、ちょっと何を考えているんですか!」
「はあ、はあ……いや、その、すみません……いけるかな、と……」
「いける……?」
「はい……寂しいから抱かれたいんでしょ?」
「は!? あなた、何を言っているんですか! しかも夫の前ですよ!」
妻は布団に横たわる夫の遺体へ勢いよく顔を向け、声を張った。
「あ、あ、あ……それはその、すみませんでした……!」
遺体へ視線を向けた上司はようやく我に返ったらしく、慌てて頭を下げた。
「二人きりだし……これ、絶対AVのやつだと思って……ダメだったかあ」
「どうかしていますよ。ダメに決まっているでしょ」
妻は呆れたようにため息をついた。
「……まだ」
「まだ? まだって……? お、お、奥さあああん!」
「だから来ないでくださいってば!」
再び身を乗り出してきた上司を、妻は両手を突き出して押し返した。
上司は荒い息を漏らしながら床に膝をつき、じっと妻を見つめた。その目は血走っていた。
「す、すみません……つい興奮してしまって……。“まだ”ということは、いずれはいけるのかなって……」
「そういう意味じゃありませんし、仮にそうだとしても早すぎるでしょ。せめて四十九日が過ぎてからにしてくださいよ。……いや、嫌ですけどね」
「いやあ、喪服っていいですよねえ。黒タイツにうなじが見えるまとめ髪。それに、その沈んだ顔……お、お、お、奥さあああん!」
「だから来ないでって言っているでしょうが! 沈んでいるのはあなたのせいですし! もう、警察を呼びますよ!」
「あ、あ、すみません……そうですよね、どうかしていました……その、経験が少ないものですから……。もう帰りますね……」
「別に帰れとは言っていませんよ……もう、やだ」
「お、お、お、ど、どっちだ……?」
「とにかく、大人しくしていてください」
妻はきっぱりと言い放つと、再び机の前へ戻った。背筋を伸ばして正座し、両手を合わせて静かに目を閉じた。そして低い声でお経のようなものを唱え始めた。
上司も慌てて正座し直し、同じように手を合わせた。
「センサパサランノムパサホラサ……」
「やっぱり喪服って色気があるよなあ……」
「スラメタノハウフソソクシンノウ……」
「うなじがいい」
「ソワカソワカササヌノホウジ……」
「未亡人って響きがすでにエロい」
「ココイニバンヌクヌクソソコワ……」
「これ、絶対ヤレる」
「……いや、うるさいんですけど!」
妻はぱちりと目を見開き、鋭く上司を睨みつけた。
「あ、あ、今の声に出ていましたか!? すみません! その……彼に『奥さんのことは心配するな』と伝えようとしまして……」
「まったく違うことを言っていましたけど」
「いやいや、そんなことないですよ……ははは……。そ、それはそうと、お経ですか? いやあ、ずいぶんしっかり覚えていらっしゃるんですね」
「ええ。うちはもともとそういう家系ですので」
「ははあ、なるほど。それはすごいなあ。じゃあ、もしかして彼と話せたりもして……なーんて」
「ええ、まあ。こちらの言葉を伝えるくらいならできると思いますよ」
「え、本当に? すごいなあ……」
上司は感心したように目を丸くした。
「ええ。何か伝えたいことでもあるんですか?」
「ええ、じゃあ、こうお伝えください……。今から奥さんと、とびきり激しいセック――」
「しませんよ!」
「いやあ、ははは。冗談ですよ。奥さあぁん」
「その間延びした呼び方やめて」
「ははは。よっこいしょっと……。さてと、とりあえず、これどかしましょうか」
「これって……いや、それ夫! 手を放して! 何を考えているんですか!」
上司は夫の両足を掴んだまま、きょとんとした顔で首を傾げた。
「え? だって、布団使うなら邪魔になるじゃないですか」
「ここでするわけないでしょ! いや、ちょ、ちょ、何をしているの!?」
「えっ、だって死装束に着替えないと……」
「どんな設定なんですか、それ! もう、とにかく邪魔しないでください!」
上司は脱がしかけていた死装束を元に戻すと、しぶしぶ妻の隣に座り直した。妻は深いため息をつき、再び両手を合わせて目を閉じた。
「ファタフタスメリオノササントカウワチカ……」
「奥さん、夫に先立たれて不安なんでしょ……」
「ソソイクササンカタタライタアラ……」
「肉欲に溺れる未亡人……」
「ケケンカオコルタニカイウラカ」
「喪服に包まれた悲哀で卑猥な肉塊……」
「ソソイヤササンカフワトムライカンコ」
「あなた、許して……狙われた未亡人、背徳の八時間半……」
「テムシノンムピワシワタタイアノイチ」
「宇宙からの弔問客。夫の正体はまさかの――おっ」
妻の声がぴたりと止まった。静寂が重く落ち、ぴしりと家鳴りが響いた。
妻はすっと手を下ろすと、静かに上司へ顔を向けた。
その耳元で囁き続けていた上司は、はっとして身を引き、床に膝を擦るように後ずさった。
また怒られる。上司はそう思った――ある種の快感を覚えていた――しかし、そうはならなかった。
妻はやわらかく微笑んだのだ。そして、ゆっくりと上司へ顔を寄せた。
距離が縮まり、互いの吐息が先んじるように触れ合う。そのまま自然に二つの唇は重なった。
女の匂いが線香の香りを掻き分けて鼻腔をくすぐり、体温とかすかな息が唇に伝わってくる。唐突に押し寄せた感覚に、上司の脳はぴりぴりと痺れた。下腹部から熱が込み上げ、心臓が高く打ち鳴った。
上司はゆっくりと目を閉じ、震える腕で妻の身体を強く抱きしめた――その瞬間だった。
妻がふっと息を吹き込んだ。
「あ、あ、お、あ、お……」
白い煙が、密着した唇の隙間から細く立ち上る。それは次第に勢いを増し、上司の鼻孔や耳から蒸気のように噴き出した。
上司の身体がびくびくと跳ねるように痙攣し、目玉はぐるりと裏返り、喉の奥から濁った呻き声が漏れた。
やがて腕から力が抜け、だらりと垂れ下がると、妻は静かに唇を離し、身を引いた。
「あなた……あなた?」
「うう……」
妻が優しく肩を揺すると、上司は小さく呻き、ゆっくりと顔を上げた。
「あなた、どう?」
「……ああ、うまくいったみたいだ」
低く落ち着いた声だった。
「さすが、イタコの血を引いているだけある」
妻はほっとしたように微笑んだ。
「ふふっ、成功してよかった。……でも、他にもっといい候補はいなかったの? 私、これと暮らしていくの?」
妻はまじまじと顔を見つめ、不満げに口をへの字に曲げた。
上司――夫は吹き出すように笑った。
「しょうがないだろ。僕の周りで独身で、ある程度の立場があるのが他にいなかったんだ。それに同じ職場なら馴染みやすいし、成り代わっても違和感を持たれにくいだろうしな」
「それはそうだけど……顔もお腹もちょっとねえ……」
「まあまあ、そのうち慣れるさ。ダイエットもするし」
「本当かな……」
「ああ。でも今はほら……“奥さん”」
「もう、ふふっ……」
妻は呆れたように笑い、夫の胸へ顔を預けた。
二人はそのまま静かに抱き合い、唇を重ねた。先ほどよりも熱く、激しく。閉ざされた部屋の空気を温めていく。
小さな机が揺れ、線香の灰が音もなく崩れ落ちた。




