記録者リンデル・フェイラン
二百年が過ぎた。
私は今日も筆を持ち、ただ世界を記録するだけの影のような存在として在り続けていた。
勇者の力は、積み重ねの果てに、ついに一つの結論へ至った。
一代の勇者が、五度の魔王を討伐する。
その事実が確かめられたとき、私は背筋にひどい寒さを覚えた。
魔王は、生まれた時点では幼い。
その魂が災厄へ育つ前に、勇者は淡々と処理した。
五体の魔王――その全てが、幼女や幼子、少年の姿だった。
勇者は表情ひとつ変えない。
迷いもなく、怒りもなく、憐れみもなく。
ただ、それが“世界のため”だからだと、刻まれた正義のままに剣を振るった。
私はその様子を遠くから見つめながら、筆を走らせていた。
だが書きながら、胸の奥がどこかひどく軋むのを感じていた。
世界は、確かに静かになった。
魔王は次第に生まれなくなった。
災厄が根絶され、人々は安堵し、笑い、歌った。
だが――私は、どこかで理解していた。
“消えたのは魔王ではなく、均衡だった”と。
不穏は、静かに、確実に、勇者へ集積されていった。
■歪む正義
勇者に変化が現れたのは、魔王が途絶えてからわずか三年後のことだった。
最初は些細なものだった。
軽犯罪者を討つ。
逃げた盗人を斬る。
泣き叫ぶ罪人に、勇者は静かに剣を下ろした。
周囲は恐れたが、誰も止められなかった。
彼は世界で最も“強すぎる”存在だったからだ。
そして、誰よりも正義を求める性質を持っていたからだ。
やがて勇者は、悪意のある者だけでなく、
悪意に“なり得る者”をも断罪し始めた。
小さな嘘。
些細な罪。
軽い口論。
不満、嫉妬、怠惰。
勇者の目には、それら全てが魔王と同列に映った。
そうして勇者は、わずか数年で人類の半数を処刑した。
血に濡れた剣を抱えたまま、彼は静かに歩く。
その歩みの先で、人々は叫んだ。
「……魔王だ」
「人の姿をした、最悪の魔王だ……!」
だが勇者自身は気づかない。
自らが最も忌むべき存在に変わり果てたことを。
■記録者の最期
私は勇者の前へ立った。
もちろん、戦うためではない。
私はただ記録者だ。
この世界の“変わらぬ循環”を書き綴る役割を担っただけの存在にすぎない。
それでも私は、語りかけずにはいられなかった。
「……勇者とは、何なのか」
元・勇者は答えなかった。
我が問いを理解したのかどうかすら分からなかった。ただ――剣を静かに構えた。
その刃が振り下ろされる一瞬、私はようやく悟った。
勇者と魔王は、ただ別の言葉で呼ばれるだけの、同じ“均衡の器”なのだと。
世界は魔王を失い、勇者を歪ませた。
歪んだ勇者は、人類を半減させた。
そして今――私をも断罪する。
剣が走った。
痛みはなかった。
ただ、書きかけの記録帳だけが、乾いた音を立てて石床に落ちた。
■数百年後
私の手を離れた書は、やがて拾われ、読み継がれていった。
そこには延々と続く“勇者と魔王”の記録があった。
循環は壊れず、形を変えて続く。
どの時代にも、勇者がいた。
どの時代にも、魔王が生まれた。
そしてどの時代にも、私の代わりは……いなかった。
これまでの記録は残ったが、これからの記録は残らない。
――勇者とは、何なのか。
――魔王とは、何なのか。
――世界とは、誰の意志で回り続けるのか。
答えは、今もどこにもない。




