とある魔王と
我は玉座に座っていた。
この百年、勇者たちは変わった。
本来選ばれる者であったはずが、いまや神に“召し出される”だけの存在だ。
誇りも目的も、個人の意思も薄れ、ただ循環を維持するための駒。
だからだろう。
今日、我のもとへ辿り着いた勇者は、まるで地獄から這い上がってきたような姿をしていた。
扉が軋んで開く。
血で固まった髪、砕けた鎧、皮膚に刻まれた無数の傷。
勇者は剣を杖にして立ち、息をするたびに胸から血泡が漏れた。
そしてその背後に、二つの影。
力尽きて壁に寄りかかる戦士の男。
腕を失い、呪文を唱える声すら枯れた僧侶の女。
誰もが限界を超えていた。
我は、思わず息を呑んだ。
「……ここまで来たか」
思ったより、声が震えていた。
■称賛の言葉
「どれほどの苦難を越えた。
どれほどの死と絶望に膝をつき、なお立った……人の子よ」
勇者は、剣を支えに前へ進む。
だが、もう剣を構える力すら残っていなかった。
それでも彼は我を見据え、声を振り絞った。
「……頼む……これ以上……仲間を……苦しめたくない……」
その言葉に、胸が軋んだ。
まだこれほどの“心”を残す者がいたのか。
だが、彼の身体はもう限界だった。
膝が折れ、地に伏し、咳き込むたびに血が飛び散る。
その音は、我の胸に小さな杭のように刺さった。
我は静かに歩み寄った。
「苦しむな」
ひどく自然に、その言葉が口をついた。
「我が終わらせてやる。
最期だけは――我が手で」
一閃。
音も光もなく、苦痛だけを取り除く斬撃。
勇者は安らかな顔で、静かに息を引き取った。
その瞬間――背後で二つの気配が揺らぐ。
「勇者……!」
「こんな……こんなの……!」
戦士と僧侶の拘束が解けたのだ。
神の強制力が、勇者の死とともに消えた。
彼らは倒れ込むように勇者の亡骸へ走り寄った。
泣きながら、その名を呼び続けていた。
(……解放されたか)
我はその光景に目を閉じた。
この二人が歩んだ苦痛を思えば、当然の結末だった。
本来戦う必要もなかった者たち。
それでも勇者がいたからこそ、ここまで来ざるを得なかった。
我は視線を逸らし、彼らに背を向けようとした。
――だが。
■記録者の男
広間の端に、奇妙な気配がある。
我はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、見たこともない男だった。
黒い外套をまとい、手には古い帳面。
戦場に似つかわしくない、静かな佇まい。
彼は倒れた勇者と泣き崩れる仲間たちを見て、ただ筆を走らせていた。
まるで、その苦痛さえ“記録”として取り込むかのように。
「……貴様は何者だ」
我は低く問いかけた。
男は筆を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「リンデル。記録者だ」
「記録者だと? この哀れな戦いを、一体何のために書き記す」
怒りがあったわけではない。
ただ理解できなかった。
どうしてこの地獄のような循環を“残そう”などと思うのか。
リンデルは勇者の亡骸を見つめ、静かに答えた。
「まだ何も知らないのです。勇者たちが何を背負い、どんな道を歩き、どうしてここで終わるのか」
彼の声は震えていた。
それでも揺らがなかった。
「知らないまま終わらせたくない。だから……全てを知りたい。知って、次の時代へ渡したいのです」
我は言葉を失った。
(ただの物好きか……それとも……)
胸の奥に、奇妙なざらつく感情が残された。
「……好きにしろ」
それだけ告げて、我は背を向けた。
リンデルと名乗った男は深く頭を下げ、泣き続ける二人と勇者の亡骸にそっと一礼すると、静かに歩き去った。
広間には、我と死者、そして二人の嗚咽だけが残された。
我は床に広がる血を見下ろした。
「……勇者と魔王、か」
その呟きは誰にも届かず、砕けた石床へ吸い込まれた。




