アルノルト・ハーヴェスト
■再臨の理
リンデルはただ遠くから見守っていた。
勇者アルノルト・ハーヴェストが、運命の幼子と出会った日の空は、不思議なほど澄み渡っていた。
小さな影が森の奥から現れた。
見た目は七つ、いや六つほどの少女。裸足で、傷だらけで、胸に黒い紋章が浮かんでいる。
魔王の証。
幼くとも、それは歴代の魔王が宿していた“確定した運命”。
世界が拒む存在。
神が監視し、祝福ではなく“滅び”を背負わせた生まれ。
だがアルノルトは、その小さな瞳を見つめた瞬間、剣を抜かなかった。
「お前……名前は?」
少女はふるふると首を振るだけ。
言葉を知らない。ただ怯え、野生動物のように周囲を観察している。
リンデルは丘の上から筆を走らせながら、それを見ていた。
英雄と魔王の邂逅は、こうあるべきではない。
本来なら戦い、勇者が勝ち、世界が安堵するはずだった。
しかし――
「そんな目、してないだろ」
アルノルトは少女の肩にそっと手を置いた。
「誰かを滅ぼしたり、呪ったり……そんなこと、したそうに見えねえよ」
柔和な笑み。
それは歴代勇者の中でも際立って豊かな善性だった。
だが、善は、時に最悪の“引き金”になる。
リンデルは細く息を吐いた。
――ここからすべてが狂い始める。
■使命を拒む勇者
アルノルトは魔王の幼子を村に連れて帰った。
角以外は人間の子供のそれ故に、アルノルトは彼女の角を折り、名を与え、衣を着せ、読み書きを教えた。
少女は言葉を覚え、笑い、庭を駆け回り、人を好きになることを知った。
魔王にあってはならないものばかりを、吸い込むように得ていった。
それは、世界の理への“反逆”だった。
ある夜。
リンデルは村の外れで、不自然な光を見た。
――神の粛正。
だがその光は、魔王には触れもしなかった。
焼かれたのは、アルノルト自身の身体だった。
膝をつくアルノルトを前に、リンデルは確信する。
神は魔王を直接裁けない。
必ず勇者を介して滅ぼさねばならない。
そして勇者が使命を果たさなかった場合――裁かれるのは勇者の方。
アルノルトは穏やかな声で言った。
「……俺は間違ってんのか。
けどな、あの子を殺すなんて、俺にはどうしてもできねえよ」
その夜、光は消え、アルノルトも消えた。
ただ、名もなき幼女魔王だけが、ぽつんと取り残された。
少女は泣いた。
世界でいちばん大切な人を奪った存在――神を、深く憎むようになった。
■百年の成長
魔王の時間は、人の十倍以上の速度で成長し、そして長命だった。
十年で少女は成熟した女魔王へと成長した。
五十年で歴代の魔王を超える力を得ており、百年が経つ頃には、空に浮かぶ影だけで王都全土が震えるほどになった。
リンデルはすべてを記録し続けた。
幼かった少女の笑顔も、アルノルトが消えた夜の涙も、そして――
世界を憎む炎を宿した瞳も。
魔王は決して暴れなかった。
ただ一つの目的のために力を蓄えた。
――神を殺す。
彼女は世界を滅ぼすつもりなど初めからなかった。
世界は、アルノルトが守ったものだから。
だが“神を滅ぼす”というただ一つの願いは、世界そのものを揺らすほどの規模を持っていた。
大陸の端々が歪み、空間が軋み、海が沈み、空が裂ける。
世界は、神を守るために自壊してゆく。
「見ていて、アルノルト。私はあなたを奪った存在を……必ず――」
その声は優しく、あまりにも悲しかった。
■六代目勇者
世界が限界を迎えたその年。
名もなき六代目勇者が選ばれた。
若く、素朴で、戦う理由も曖昧な青年だった。
リンデルはただ遠くから見つめる。
記録者は、決して干渉しない。
戦いは長く、世界の各地で裂け目が走った。
湖は蒸発し、山が鳴動し、光と影が天を交差した。
最後の瞬間。
元・少女であった魔王は、六代目勇者に向かいゆっくりと微笑んだ。
「あなたには……憎しみがないのね」
「……わからないよ。
でも、誰かを守るために戦うなら、迷っちゃいけないと思ったんだ」
魔王は、ふっと目を閉じた。
「そう……それは、アルノルトと同じ」
一瞬だけ、彼女は最初に出会った、あの幼い目を取り戻した。
そして次の瞬間、勇者の剣が光に包まれた。
世界を揺らした脅威は、静かに終わった。
■終わりなき再臨
魔王の消滅と同時に、世界は修復を始めた。
空の裂け目は閉じ、大陸は安定し、海は満ちる。
しかしリンデルだけは悟っていた。
これは“解決”ではなく、“延命”に過ぎない。
魔王は滅んだのではない。
勇者が使命を果たした瞬間、神の理は再び回り始める。
――次の魔王が生まれる。
それが、世界の設定された循環。
神が作り、神が維持し、神が管理する永遠の箱庭。
魔王は破壊の象徴ではなく、神の支配を保つための“必要枠”なのだ。
リンデルは冷たい夜風に呟いた。
「アルノルト……お前があの子を救ったせいで、世界は一つの真実を手にしてしまったよ」
――勇者を滅ぼすことでしか、魔王を消すことはできない。
そして勇者を滅ぼせば、神が世界の均衡を取り戻すために
新たな魔王を生み続ける。
この世界は折れた長針のように、同じ瞬間を永遠に刻み続ける。
リンデルは記録帳を閉じた。
永遠に続く旅が、またひとつ書き加えられる。
これが“魔王が再臨し続ける理由”。
そして――アルノルトが残した、優しさという名の最初の誤差。




