セレン・リグロス
――善を求めすぎた男の果て
セレン・リグロスが勇者に選ばれた理由を、誰もが「慈悲深い心」と語った。けれどリンデルだけは、その奥に潜む“別の色”に気づいていた。
それは優しさではなく――世界を自分の思う形に矯正しようとする、静かな傲慢。
遥かな丘の上から、ハーフエルフの男は黙ってその若者を見つめていた。
■勇者任命の日
祭壇に立つセレンは、どこか誇らしげだった。貧民街で育った青年らしい粗末な衣服。それなのに胸を張る姿だけは、立派な王族にも劣らない。
神託を告げる巫女が言う。「四代目勇者セレンよ。世界に救済を」
しかしその言葉にかぶさるようにセレンは微笑んだ。「もちろんです。救いますよ。全部、救ってみせます。世界も、人も、魔王でさえも」
その瞬間――リンデルは確信した。
(彼は“救う”のではない。“救いたい自分”を完成させたいのだ)
千年以上勇者を見送ってきた観察者には、それがよく見えた。
■旅立ちと“過剰な善意”
セレンは最初の街へ向かう道すがら、出会う全てに手を伸ばした。怪我した旅人に薬を与える。泣いている子供に未来の夢を語る。喧嘩する兄弟を抱きしめ、強引に和解させる。
その行為は清らかだ。だが、清らかすぎた。
リンデルは森の影から静かに観察する。感情を持たぬように、ただ記録する者として。
セレンの善意は、触れたものすべてに長い影を落としていった。
薬草の村では、セレンの大量の施しに人々が甘えて働かなくなり、冬に飢えかけた。仲直りさせられた兄弟は、表面上和解しながらも、互いへの憎悪をより深く沈めただけだった。助けられた孤児は商人の弟子入りを勧められたが、厳しさに耐えられず逃げ、以前より荒れた生活へ転げ落ちた。
セレンは決して悪人ではなかった。むしろ誰よりも善人だった。
だが――善意を振り回す者ほど、世界は壊れやすい。
リンデルはそれを何度も見てきた。
■道草の果て
魔王討伐の旅は、普通の勇者なら一年で終わる。だがセレンは三年を費やしても、まだ城に近づかなかった。
「助けたい人がまだいるんです。救えるのに見捨てるなんて、できないでしょう?」
そう言っては、また一つの街で事態をかき乱し、さらに一つの村で新たな混乱を芽吹かせた。
リンデルは遠くでため息をつく。だが近づかない。言葉もかけない。それが記録者としての彼の“掟”であり、“罪”でもあった。
■魔王城と、説得という名の暴力
四年目の冬、ようやくセレンは魔王城へ辿り着いた。魔王は老い、もはや戦う気力すらない状態だった。
「あなたも……救ってあげます」
魔王は鼻で笑った。
「救いなど……望んでおらぬ」
だがセレンは聞かない。聞き入れない。自分の“善”を押し通す。
善は時に、最も強い暴力となる。
リンデルはただ筆を走らせながら、その光景を眺めていた。
二時間、三時間、四時間……終わらない説得は、魔王の精神を徐々に削っていった。
ついに魔王は剣を落とし、呆然と座り込む。
「好きに……しろ」
セレンは満足げに頷いた。「救ってあげますよ。あなたも、世界も」
■終焉:光が落ちた瞬間
その瞬間だった。
音もなく、匂いもなく。ただ、空気の温度がひとつ分変わった。
リンデルは遠くからでも、それが“神の光”であると理解した。
魔王すら震え上がる、あの静かな輝き。祝福とは似ても似つかない、透明で、無慈悲な光。
セレンは胸を押さえ、ゆっくりと膝をついた。表情には恐怖はない。ただ――悟りの色があった。
「……そうか。俺が求めた“善”は……神さまのそれとは……違ったのか」
次の瞬間、光は消え、セレンの姿も消えた。まるで世界が彼の存在だけを静かに削除したように。
魔王はただ呆然と呟いた。「……これが……神の裁き、か」
答える者はいない。
■記録者の祈り
丘の上。リンデルは長い沈黙の後、筆を取った。
「第四代勇者セレン。善を欲し、善に呑まれ、ここに旅途を閉じる」
淡々とした文字。しかし筆先は微かに揺れていた。
「……どうか。次に選ばれる者には……光が落ちぬように」
祈りにも似た呟きは、冬の風にさらわれ、誰の耳にも届かない。
リンデルは記録帳を閉じると、次なる勇者を待つためにゆっくりと歩き出した。
長命の旅は続く。まだ何十代もの勇者が、この世界に生まれるだろう。そして男はそのすべてを、ただ静かに見届けるのだ。




