ミーナ・リュザ
■神託の声は、残酷に響く
あれは、夏前の陽光が麦畑を照らす朝だった。
村人たちの笑い声が聞こえる、いつも通りの平穏な日。
その中心に、一人の少女がいた。
ミーナ・リュザ、十二歳。
この村で最も小柄で、最も働き者で、最も未来を期待されていなかった子供。
水汲みも雑草抜きも、誰よりも丁寧にこなす少女。
――世界は、ときどき最も静かな者を選ぶ。
井戸が光った瞬間、村は騒然となった。
天から降る声は澄んでいたが、その内容は容赦がなかった。
“選ばれし勇者ミーナ・リュザよ。魔王を討て。”
手桶が地面に落ち、転がる音がやけに大きく響いた。
少女は目を瞬かせ、呆然とした。
この時点で私は、村の影から様子を記録していた。
ミーナは、まだ自分の身に起こった出来事を理解していなかった。
村人たちは戸惑い、悲しみ、そして怯えていた。
「ミーナが……勇者?」
「子供だぞ……」
「神託に逆らえるわけがない……」
母親だけは少女を抱きしめ、震えながら泣いた。
私は遠くから見つめながら、淡々と筆を走らせる。
“勇者任命。対象は明らかに非戦闘的。その命運、薄し。”
記録者としての冷静さは、残酷さと紙一重だ。
■旅立ちの朝 ― その背は小さすぎた
旅立ちの日。
ミーナは渡された勇者の杖を抱きしめるように持ち、震える肩を隠すようにフードを深くかぶった。
村人は祝福の言葉をかけようとするが、皆どこか後ろめたさを抱えていた。
勇者を送り出すのは誇りではなく、“犠牲を出したくない”という恐怖から逃れるためだった。
ミーナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
私は村の背後の丘に立ち、少女の一歩を見届ける。
声はかけない。
名乗りもしない。
記録者は、ただ目撃して書き残すだけ。
“勇者、旅路に出る。同行者なし。護衛なし。存命確率、低。”
ミーナは幾度も振り返りながら歩き出し、やがて覚悟したように前を向いた。
彼女の小さな背は、風に消えそうだった。
■戦う術を持たぬ勇者
ミーナは旅慣れていなかった。
靴擦れに泣き、夜の獣の遠吠えに怯え、焚き火をつけるにも戸惑った。
私の位置から見れば、彼女の手元の震えさえ分かる。
杖を構える姿は稚拙で、魔法の放ち方は危なっかしく、
前方に跳ね返った火花に驚いて尻もちをつく場面も何度もあった。
だが彼女は、それでも前に進んだ。
頼れる者がいなくても、誰も見ていなくても。
――いや、見ている者はいた。
私が、だ。
そのことを、彼女が知ることは永遠にない。
四日目には、カルナの街が見えてきた。
旅の目的地として最初に通る、大きな城壁の街。
ミーナは疲れていたが、安堵の息を漏らした。
街に入ると、彼女は冒険者制度の説明を必死に受け、
魔法訓練場での簡易テストにも挑んだ。
結果は、限りなく不合格に近かった。
しかし、“勇者”の肩書きが全てを覆す。
試験官たちは言葉を選びながら、最低限の助言だけを与えて解放した。
私は街の外壁の上から、その様子のすべてを観察していた。
■襲撃 ― 小さな光
その夜だった。
街に突然の悲鳴が走り、魔物の群れが乱入した。
小鬼に毛が生えた程度の獣ではない。
狂乱獣アロウルフ。
単体でも脅威となる凶暴な魔獣の群れ。
兵士が次々と倒れる。
ミーナは、恐怖で膝が震えつつも、杖を構えた。
私は屋根の陰から記録する。
勇者、初の実戦。魔力総量は少。成功率は三割未満。
ミーナは必死に呪文を唱え、小さな光の球を放つ。
それは魔獣の目を直接貫くほどの威力はなかったが、
目を眩ませ、ほんの一瞬、狼の動きを鈍らせた。
その隙に兵士が反撃する。
――わかっているのか、少女よ。
今の一撃は、戦況を変えた。
しかしミーナは、振り向いて喜ぶような余裕はなかった。
連発した光球が、彼女の小さな魔力を削り取っていた。
それでも必死に叫び、魔法を放ち続けた。
その姿は、勇敢というよりも、
**“必死に生きようとする子供の抵抗”**に近かった。
それがまた、胸を痛ませた。
■死角からの牙
ミーナが放つ光が、また一つ、魔獣の進行を止めた。
街の人々が避難し、兵士が態勢を整える。
――あと少し。
――もう少しで、この街は守られる。
ミーナはほんの少しだけ、安堵の息を吐いた。
そのとき。
彼女の背後の闇が動いた。
別のアロウルフが影から飛び出し、
少女の小さな体に牙を突き立てた。
肉の裂ける音。
骨の砕ける衝撃。
血飛沫が地面に散る。
ミーナの身体が宙を舞い、瓦礫に叩きつけられた。
遠くから見ていた私は、瞬きすら止めてその光景を記録した。
“勇者、負傷。致命傷の可能性大。”
少女の胸が上下し、呼吸が乱れていく。
誰も気づかない朽ちた倉庫の影に私は立ち、
その最期を目に焼き付けた。
■記録者は手を伸ばさない
ミーナは血の中で、震える手を伸ばした。
誰かを呼ぶように。
助けを求めるように。
だが、勇者とはいえ彼女はただの子供だ。
その手は、宙を掴むばかりだった。
私はそこから距離を置き、見ていた。
「お母……さん……ごめ……な……」
途切れた声が夜気に吸い込まれていく。
兵士が駆け寄るには間に合わず。
治癒術師が到着するには遅すぎた。
ミーナは泣きながら、自分の胸元を握りしめた。
その瞳には、恐怖と、
“もっと生きたかった”という幼い願いが浮かんでいた。
私は――動かない。
記録者は手を伸ばさない。
助ける資格も義務も持たない。
ただ、歴史を見届けるのみ。
ミーナの最後の息が消えた瞬間、
私は静かに目を伏せた。
“第二代勇者ミーナ・リュザ、死亡。
死亡地点:カルナ外郭路地。
原因:狂乱獣アロウルフの噛撃。
年齢:十二。”
冷たい文字だけが、彼女の生を確かな事実に変える。
■記録の余白に
カルナでは、ミーナは“小さき守護者”として語られる。
街を救う光を放った勇者だと称えられ、
祈りの像まで建てられるという。
しかし――
その栄誉は、
ミーナが“望んだ未来”ではない。
彼女が望んだのは、おそらく、
明日も母の隣で眠れる普通の日々だった。
だが記録は、感情を含まない。
私は記録帳を閉じ、次の空白ページを開いた。
新たな勇者が選ばれる。
ミーナのように望まぬ者か、
英雄を夢見る者か――
いずれにせよ、私はただ記すだけ。
歴代勇者の“旅の始まりから終わりまで”。
それが、私――
ハーフエルフの観察者リンデルに課された役目なのだ。




