「生贄」として冷血辺境伯に売られたら、なぜか「契約だ」と不器用な優しさで(想像以上に)溺愛されています。……私を捨てた実家? 大変みたいですが自業自得ですよね?
((……また、空気が重い))
私、イリーナ・フォン・ハイゼンベルクは、胸元に澱む息苦しさを、そっと飲み込んだ。
ここ、ハイゼンベルク子爵家の屋敷は、いつも空気がよどんでいる。 まるで水底にいるかのように、肌にまとわりつく湿った魔力の残滓。
目には見えないが、確かに存在する「瘴気」。
それは、この家に代々伝わる「血の呪い」の現れだった。
「まあ、リゼット! なんて素晴らしい力でしょう!」
「さすがは私たちの子!」
階下のサロンから、両親の弾んだ声が聞こえる。 今日もまた、妹のリゼットが「奇跡」を見せているのだろう。
私は、手すりに捕まりながら、ゆっくりと階段を降りる。 瘴気の影響で、私の体はいつも鉛のように重い。
サロンの扉を開けると、まばゆい光が目を刺した。
「ご覧になって、お姉様!」
妹のリゼットが、得意げに両手を広げている。 彼女の手のひらの上には、光の玉が浮かび、きらきらと輝いていた。 派手な「精霊魔法(光)」。
「まあ……!」
「リゼットの力があれば、この屋敷の呪いも祓えるわ!」
母がうっとりと呟き、父が満足げに頷く。
((……あれは、祓ってはいない))
((ただ、強い光で、よどんだ瘴気を一時的に『覆い隠して』いるだけ))
本質的な解決にはなっていない。 むしろ、蓋をされた瘴気は、より濃く、深く、屋敷の隅々に蓄積していく。
「それに比べて……」
父の視線が、私を捉えた。 途端に、その目は侮蔑の色を帯びる。
「イリーナ。お前は本当に『無能』だな」
「リゼットの爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ? その陰気な顔が、少しはマシになるかもしれんぞ」
「お父様、ひどいわ! お姉様は……その、いらっしゃるだけで空気をよどませるのですから!」
リゼットが悪気なく笑う。
((……違う))
((空気をよどませているのは、貴方たち(家族)が放つ「瘴気」なのに))
私、イリーナの力。 それは、何の魔法も使えない「無能」なものとされている。
だが、その本質は「瘴気を吸着し、浄化する」体質。
この一族に伝わる「血の呪い」――周囲に瘴気をまき散らし、精神と肉体を蝕む呪い――。 それをただ一人で引き受け、浄化し続けること。
それが、私の『義務』だった。
私がこの屋敷にいるから、家族はまだ正気でいられる。 私が「呪いのゴミ捨て場」になることで、妹は派手な精霊魔法を使う余裕がある。
((誰も、気づいていない))
私は、家族の健やかさだけを願って、この『義務』を果たし続けてきた。 その結果が、この「陰気な無能」という評価だ。
もう、慣れてしまった。 何も感じない。 自己評価など、とうの昔にすり減って、欠片も残っていない。
「……失礼いたします」
私は、逃げるようにサロンを後にした。 光の眩しさが、瘴気を吸った私の肌をチリチリと焼くようだった。
自室に戻ると、私は鍵をかけ、クローゼットの奥に隠した小さな祭壇の前に膝をつく。
そこにあるのは、一族の瘴気を溜め込むための「黒水晶」。
((今日も、どうか、家族が健やかでありますように))
私は祈りながら、その黒水晶に手をかざす。
屋敷中に漂っていた、あの重くよどんだ瘴気が、私の体を通り抜け、黒水晶へと吸い込まれていく。
ゴポゴポと、水が湧くような、不快な感覚。 全身の血が逆流し、骨がきしむ。
((……う……っ))
吐き気をこらえる。 これが私の日常。 これが私の『義務』。
私が『義務』を果たし終えると、屋敷の空気はほんの少しだけ軽くなる。 その代わり、私の顔色は紙のように白くなり、目の下には濃い隈が浮かぶ。
「陰気」と言われる所以だ。
もう、何年、こんな生活を続けているのだろう。 家族の笑顔を見るたび、胸の奥が小さく痛んだ。
◇◇◇
その日の夕食。
父と母が、珍しく機嫌よさそうに話していた。
「聞いたか、アシュレイ・フォン・バルバドス辺境伯からの返事!」
「ええ、もちろん! なんという幸運でしょう!」
アシュレイ・フォン・バルバドス辺境伯。
その名を聞いて、私はカトラリーを持つ手を止めた。
北の辺境を治める当主。 「呪われた一族」「触れた者を凍らせる冷血漢」と、王都では誰もが恐れる人物だ。 彼に嫁いだ花嫁は、誰も生きて戻ってこないという。
「あの『冷血漢』が、娘を一人、差し出せと」
「ええ。それも、『呪い除けの生贄』として、ね」
「だが、その見返りが凄まじい。莫大な結納金だ! これさえあれば、我が家の財政も立て直せる!」
父と母の視線が、交錯する。 そして、二人の視線が、ゆっくりと、私に向けられた。
((……ああ))
((そういう、こと))
心臓が、冷たい水に浸されたように冷えていく。
リゼットは「一族の希望」。 派手な精霊魔法の使い手。 こんな「生贄」に出せるはずがない。
では、誰が行くのか。
「イリーナ」
父が、言った。
「お前に、縁談だ」
「……はい」
「北のバルバドス辺境伯様がお前を望んでおられる」
「……はい」
「名誉なことだ。ハイゼンベルク家のために、しっかりと『義務』を果たしてこい」
『義務』。 また、その言葉だ。
私は、頷くことしかできなかった。
「お姉様、すごいわ! あんな恐ろしい方に嫁ぐなんて!」
「さすがはお姉様ね! 私にはとても真似できない!」
リゼットが、無邪気な顔で拍手をしている。 彼女の目には、私を案じる色など一切ない。
ただ、「厄介者(ゴミ捨て場)」がいなくなることを喜んでいるだけだ。
「自分は生贄として死ぬのだ」
そう、理解した。
「……謹んで、お受けいたします」
私は、深々と頭を下げた。
食事が終わり、自室に戻る。 荷物をまとめるように言われた。 持っていくものなど、ほとんどない。
古いトランクに数枚の着替えを詰めながら、涙も出ない自分に驚いていた。
((死ぬんだわ))
((「冷血漢」の「呪い除けの生贄」になって))
((きっと、苦しんで死ぬ))
恐ろしかった。 体が、小刻みに震えている。
けれど。
((……でも))
((もう、あの黒水晶に触れなくてもいい))
((家族の瘴気を、吸い取らなくてもいい))
((「無能」と、蔑まれなくてもいい))
死への恐怖と諦観。 そして、その奥底から、黒い泥のように湧き上がってくる、微かな安堵感。
重い、重い『義務』から、ようやく解放される。
その事実に、私は、震えながらも、笑っていたのかもしれない。
◇◇◇
翌朝。
私を乗せる馬車は、裏口に用意されていた。 莫大な結納金と引き換えに、私は「売られた」のだ。
見送りは、誰もいない。
((さようなら))
私は、よどんだ空気に満ちた屋敷を振り返ることなく、馬車に乗り込んだ。
ガタン、と重い音がして、車輪が回りだす。 「呪われた」北の辺境へ向けて。 私の、生贄としての旅が始まった。
◇◇◇
私を乗せた馬車は、王都を離れてから何日も走り続けた。
南とは明らかに違う、冷たく乾いた風。 窓から見える景色は、次第に荒涼としたものに変わっていく。
((ここが、北の辺境……))
実家の屋敷も瘴気でよどんでいたが、ここは次元が違った。 空気が、痛い。 肌を刺すような、濃密な瘴気の気配。
((「呪われた一族」……噂は、本当だったんだわ))
生贄として死ぬのだという実感が、今更ながら胸に迫る。 私は、ただ固く目を閉じて、この旅の終わりを待った。
やがて馬車が止まり、外が騒がしくなる。
「イリーナ様、ご到着です」
御者台から、事務的な声がかかった。
ゆっくりと馬車の扉を開ける。 目に飛び込んできたのは、空を突くような黒い城。
バルバドス辺境伯の居城だ。 城全体が、まるで瘴気を凍らせて固めたような、異様な威圧感を放っている。
城門の前には、一人の男性が立っていた。
((……あの人が))
アシュレイ・フォン・バルバドス辺境伯。
噂通りの、人ならざる美貌。 銀に近いプラチナブロンドの髪が、瘴気の風に冷たく揺れている。 だが、それ以上に目を引いたのは、彼の瞳。 全てを凍てつかせるような、絶対零度の蒼い瞳。
そして、彼がそこにいるだけで、周囲の気温が明らかに下がっていた。 彼が吐く息は、白く凍っている。
((「冷血漢」……「触れた者を凍らせる呪い」……))
私は死を覚悟し、馬車から降りて、彼(死刑執行人)の前に膝をついた。
「この度、ハイゼンベルク子爵家より参りました。イリーナと申します」
震える声で、最後の挨拶を絞り出す。
彼は、私を見下ろしたまま、何も言わない。 値踏みするような視線が、私の頭のてっぺんから爪先までを撫でる。
((早く、殺してくれればいいのに))
この緊張感に耐えられず、気を失いそうになった、その時。
「顔を上げろ」
低く、温度のない声が降ってきた。
私は、おそるおそる顔を上げる。 彼の蒼い瞳が、真正面から私を射抜いていた。
「契約だ」
「……え?」
「お前は、ハイゼンベルク家との契約に基づき、ここに来た」
淡々と、彼は続ける。
「お前の『義務』は一つだ」
「……」
「ただ、私のそばにいればいい」
((そばに、いる……?))
((それだけ……?))
「生贄」として、すぐにでも命を奪われると思っていた私は、拍子抜けして彼を見つめ返してしまった。
アシュレイ辺境伯は、私の反応など意に介さない様子で、城に背を向けた。
「来い」
それだけ言うと、彼は凍てつく廊下を歩き出す。 私は、慌ててその後に続いた。
城の中は、外以上に冷気が満ちていた。 使用人らしき人々もいるが、誰もが主を恐れるように距離を取り、息を潜めている。
彼らが私(新たな生贄)に向ける視線には、憐憫の色が浮かんでいた。
((やっぱり、私はここで死ぬんだわ))
そう覚悟を決め直した時、アシュレイ辺境伯が、ある部屋の前で立ち止まった。
「ここがお前の部屋だ」
「……!」
開かれた扉の奥を見て、私は息を呑んだ。
実家で私に与えられていた、屋根裏の物置のような寒い部屋とは、比べ物にならない。 天蓋付きのベッド。 上質な調度品。 そして何より――
((暖かい……))
大きな暖炉には、赤々と火が燃えていた。
「食事はすぐに運ばせる」
「あ……あの……」
「なんだ」
「私は……何をすれば、よろしいのでしょうか」
((「呪い除けの生贄」とは、具体的に何をするの……?))
私の問いに、彼は初めて、怪訝そうな顔をした。
「言ったはずだ」
「そばにいればいい、と」
「……」
「今夜の晩餐は、私の執務室で取る。それまで休んでいろ」
彼はそれだけ言うと、冷気を残して去っていった。
残された私は、暖かい部屋の中で、ただ呆然と立ち尽くす。 ベッドに触れると、ふかふかと柔らかい。 実家では、固い藁のベッドしか与えられていなかった。
((……どういう、こと?))
「生贄」を、こんな風に扱うものだろうか。
戸惑っていると、侍女が食事を運んできた。 温かいスープと、焼きたてのパン。 湯気の立つ肉料理。
((……夢、みたい))
実家では、いつも厨房の隅で、冷めた残り物をもらえれば良い方だった。
私は、恐る恐るスプーンを口に運ぶ。 温かいスープが、凍えた体に染み渡っていく。 涙が、こぼれそうになった。
「死ぬ前の、最後の晩餐……なのかしら」
そうだ。 きっと、そうに違いない。 どうせ死ぬのだから、最後に贅沢をさせてくれているのだ。
そう納得して、私はゆっくりと食事を終えた。
◇◇◇
夜。
侍女に案内され、私は辺境伯様の執務室へと向かった。 部屋の扉を開けた瞬間、凄まじい「冷気」が肌を刺した。
((ひっ……!))
部屋の中央。
アシュレイ辺境伯が、不機嫌そうな顔で書類の山を睨んでいる。 彼が放つ冷気(呪い)で、部屋の壁がうっすらと凍りついていた。
「来たか」
「は、はい……」
「そこに座れ」
彼が指さしたのは、彼の机のすぐそばに置かれた、小さな椅子だった。
((……ここで、殺される))
私は、震える足で椅子に向かう。 彼に近づくにつれ、冷気が密度を増し、呼吸が苦しくなる。 これが、彼の「呪い」。
私は、死を覚悟して、目を閉じて椅子に座った。
……。
……。
((……あれ?))
何も、起こらない。 それどころか。
((……少し、息がしやすい……?))
目を開けると、アシュレイ辺境伯が、信じられないものを見るような目で、私を凝視していた。
「……お前」
「は、はいっ」
「……いや」
彼は、何かを言いかけて、口をつぐんだ。
((……?))
よく見ると、あれほど部屋に満ちていた「冷気(呪い)」が、少し和らいでいる。 壁の氷も、心なしか薄くなっているようだった。
((どうして……?))
私には、何が起こっているのか理解できない。 ただ、彼のそばに座っているだけ。 まるで、実家で家族の「瘴気」を吸っていた時のように。
((まさか……))
((この人の「呪い」も、「瘴気」の一種……?))
((だから、私がそばにいると、「浄化」されて……?))
アシュレイ辺境伯は、私をじっと見つめたまま、やがて、フッと短く息を吐いた。
「……ハイゼンベルク家め」
「え?」
「いや。……契約は、履行されたようだ」
彼は、侍女に食事を運ばせる。 私たちは、無言で食事を始めた。
彼が放つ冷気は、私がそばにいることで、明らかに制御可能なレベルまで落ちついている。 彼自身も、驚きと……そして、安堵のような、複雑な表情を浮かべていた。
((この人……私が「瘴気を浄化する」体質なのを、知ってた……?))
((だから、「呪い除けの生贄」として、私を……?))
もしそうなら。 私は、ここでも「呪いのゴミ捨て場」として利用されるだけなのだ。
そう思った瞬間、胸が小さく痛んだ。 暖かい部屋も、温かい食事も、全ては私の「能力」を利用するための『餌』だったのだと。
((……でも))
((それでも、いいのかもしれない))
実家のように、ただ「無能」と蔑まれ、感謝もされずに瘴気を吸い続けるより。 「契約」として、私の価値を理解した上で利用される方が、ずっといい。
((私は、ここでなら、「いてもいい」んだわ……))
初めて得た、小さな肯定感。 「生贄」として死ぬ覚悟だった私の心に、ほんの少し、何かが芽生えた瞬間だった。
◇◇◇
翌日から、私の奇妙な「義務」が始まった。
「契約だ。城の中を歩いてこい」
「……は、はい」
「中庭もだ。隅々までな」
アシュレイ辺境伯は、私にそう命じた。
私は、言われた通り、広い城の中や、凍てついた中庭をただ、とぼとぼと歩いて回る。 使用人たちは、「新しい生贄様は、ついに気が触れられたか」と遠巻きに噂しているのが聞こえた。
だが、数日後。 不思議なことが起こり始めた。
「……様、あれを……」
「……ああ。嘘だろう……」
使用人たちが、中庭の一角を指差して、息を呑んでいる。 私も、そっと近づいて、目を見開いた。
((……花……?))
私が毎日歩いていた、あの凍てついた地面。 その黒い土を割って、小さな、白い花が芽吹いていたのだ。
辺境伯領は、長年強力な瘴気に覆われ、冬以外は花が咲かないと言われていた。 ましてや、今はまだ春先だ。
((私が、歩いたから……?))
((私の「浄化」の力で……領地の瘴気が……?))
それは、妹リゼットの派手な「精霊魔法(光)」とは違う。 命を育む、地味だが、本質的な奇跡。
その夜。 執務室に呼ばれると、アシュレイ辺境伯が、ぶっきらぼうに一つの包みを差し出した。
「……これを」
「……なんでしょうか」
開けてみると、中に入っていたのは、上質なウールで仕立てられた、分厚く暖かいドレスだった。 地味な深い森の色だが、丁寧な刺繍が施されている。
「あ……」
私が実家から持ってきた、ボロボロの服を見かねたのだろう。
「契約だ」
彼は、そっぽを向いたまま言った。
「お前に風邪を引かれると……」
「……私が、困る」
(え……?)
その一言が、イリーナの胸を不意に温めた。
(私の、体を……心配して……?)
(……あたたかい)
ドレスの柔らかな手触りが、冷え切った私の指先に温もりを伝える。 実家では、新しい服など一度も買ってもらったことがなかった。
(「冷血漢」……)
噂とは、少し違うのかもしれない。 彼は、私の価値を「正しく」理解し、その対価として、私を「人間」として扱ってくれている。 ただ、その表現が、恐ろしく不器用なだけなのだ。
その夜のことだった。
ふと目を覚ますと、城の奥から、獣が唸るような、苦しそうな声が聞こえてきた。
((……今の、なに?))
胸騒ぎがして、私はそっと部屋を抜け出した。 声は、アシュレイ辺境伯の寝室の方から聞こえてくる。
((まさか……!))
恐る恐る、彼の部屋の扉に近づく。 扉の隙間から、凄まじい冷気(瘴気)が漏れ出していた。
((アシュレイ様……!))
私は、咄嗟に扉に手をかけた。
「……っ!」
中は、嵐のようだった。 彼が放つ制御不能の「冷気」で、部屋中の全てが凍りついている。 そして、その中央で。
アシュレイ辺境伯が、ベッドの上で蹲り、全身を痙攣させていた。
「……ぐ……ぅ……あああっ!」
彼は、自らの呪いを「凍結」させるために、たった一人で戦っていたのだ。 彼が「冷血漢」なのではなく。 彼自身が、その「冷血(呪い)」に、殺されかけていた。
「来るな……!」
私に気づいた彼が、苦痛に歪んだ顔で叫ぶ。
「契約違反だ……! 私に……近づくな……!」
((……ああ))
((この人も、苦しんでいたんだ))
((私と同じ……ううん、私以上に、ずっと))
彼は、人を遠ざけることで、他者を傷つけないようにしていた。 そして、その秘密(苦痛)を、誰にも見せずに戦っていた。
「生贄」として死ぬ覚悟だった私の心は、もうどこにもなかった。 私は、凍てつく部屋の中を、彼に向かって一歩、踏み出していた。
((この人を、助けたい))
それは『義務』ではない。 初めて、私自身の意志で。
「アシュレイ様……!」
私は、彼の凍りついた手に、自分の手を重ねた。
◇◇◇
一方。 イリーナが辺境伯領へ向かってから、数ヶ月が過ぎた。
ハイゼンベルク子爵家の屋敷は、崩壊しつつあった。
「いやあああああっ!」
サロンで、リゼットのヒステリックな悲鳴が響き渡る。 かつてあれほど輝いていた彼女の「精霊魔法(光)」は、豆電球のように弱々しく明滅している。
「なんで……! なんで効かないのよ!」
「私の光が……!」
彼女の魔法では、もはや「覆い隠す」ことすらできない。 屋敷の中には、どす黒い「瘴気」が、目に見えるほどの靄となって渦巻いていた。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
「空気が……息ができない……!」
母が胸を押さえて咳き込み、父は焦点の合わない目で虚空を睨んでいる。 二人とも、瘴気に精神を蝕まれ、顔色は土気色を通り越して青黒くなっていた。
「おのれ……イリーナめ……!」
父が、うわ言のように呟く。
「あいつが……あの『無能』が、『義務』を怠ったからだ……!」
「違う……違うわ!」
リゼットが、乱れた髪を振り乱して叫ぶ。
「あんな陰気な姉さんに、何ができるって言うの! 私が『一族の希望』なのよ!」
パァン! 乾いた音が響いた。 父が、リゼットの頬を張ったのだ。
「うるさい!」
「お前のその『派手な光』に、何の意味があった!」
「今になってわかった……! あの『無能』が……イリーナが、毎日あの気味の悪い部屋でやっていたことこそが……!」
「あいつが、この家の『瘴気』を……全部吸い取っていたんだ……!」
((あいつが、防波堤だった))
遅すぎる真実。
自分たちの「命綱」が、蔑み、虐げてきたイリーナの、あの地味な「浄化」能力であったこと。
彼らは、破滅の淵に立たされて、ようやくそれを理解した。
「……連れ戻す」
父が、血走った目で立ち上がる。
「そうだわ! 連れ戻しましょう!」
「あいつはうちの子よ! 『義務』を果たさせるのよ!」
「金で売った? 知ったことか!」
「あいつは『呪いのゴミ捨て場』なんだ! ゴミ捨て場が、勝手に持ち場を離れるんじゃない!」
焦燥と後悔は、すぐに自己保身と身勝手な怒りへと変わった。 瘴気に蝕まれ、みすぼらしい姿となった家族は、最後の望みを賭けて、北の辺境伯領へと向かった。
◇◇◇
その頃、イリーナは。
バルバドス辺境伯領の中庭で、アシュレイと共に、咲き始めた白い花を眺めていた。
あの日、アシュレイの寝室で、苦しむ彼の手を取ってから。 二人の関係は、静かに変わっていた。
私の「浄化」の力は、彼の「凍結(呪い)」の暴走を、穏やかに鎮めることができた。 彼は、あの日から、苦痛の発作を起こしていない。
「……綺麗だ」
アシュレイが、不器用に花に触れようとして、寸前で手を止める。 彼の指先が、もう凍てついていないことを、私は知っていた。
彼が「冷血漢」を演じる必要は、私の前ではなくなっていた。
((あたたかい))
彼がくれる、暖かいドレス。温かい食事。そして、穏やかな時間。
私の自己評価は、薄紙を重ねるように、少しずつ回復していた。 「いてもいい」と、心から思える場所。
そんな穏やかな空気を、けたたましい怒鳴り声が引き裂いた。
「イリーナアアアアアッ!!」
「いたぞ! あんなところで、のうのうと花なんぞ眺めやがって!」
((……え?))
振り返った私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
父と、母。そして、リゼット。
((どうして、ここに……!?))
三人とも、上等だったはずの服は汚れ、髪は乱れ、目だけが瘴気で赤く充血している。 まるで、地獄から這い出してきた亡者のような姿だった。
「……っ!」
体が、反射的に強張る。 懐かしいはずの家族が、今は恐ろしかった。
アシュレイが、私を庇うように一歩前に出た。
「誰だ、貴様ら」
アシュレイの低い声が、中庭に響く。
「黙れ、冷血漢め! イリーナを返せ!」
父が叫ぶ。
「そうだ! イリーナ! お前は無能なくせに、一族の『義務』を忘れたのか!」
母が、甲高い声で私を指さす。
「お前のせいよ! お前がいなくなったせいで、屋敷が瘴気まみれじゃない!」
「お願い、お姉様! 帰ってきてよ!」
リゼットが、泣き叫ぶ。
「私の光が効かないの! 早く帰ってきて、あの汚い瘴気を『浄化』してよ!」
「さあ、今すぐ戻ってこい、イリーナ!」
「お前は、我が家の『呪いのゴミ捨て場』なんだからな!」
『義務』
『無能』
『ゴミ捨て場』
((……ああ))
全身の血の気が引いていく。
((そうだった))
((私は……やっぱり……))
((あの人たちの「ゴミ捨て場」でしかないんだ))
せっかく回復しかけていた自己評価が、音を立てて崩れていく。 私は、ただの「ゴミ捨て場」なのだ。 この人たちがいなければ、私には価値がない。
「……はい」
体が、長年の習慣で、勝手に動こうとする。 家族のもとへ戻り、あの黒水晶に手をかざさなければと。
((それが、私の『義務』だから……))
私が、一歩、踏み出そうとした、その時。
「待て」
冷たく、しかし力強い腕が、私の行く手を阻んだ。
アシュレイ様だった。 彼は、私の前に立ち、毅然とした態度で、私の家族を睨み据えていた。
「……彼女は、行かない」
◇◇◇
アシュレイ様の、低く、絶対的な拒絶。 その声に、父は逆上した。
「何を抜かすか、辺境伯ッ!」
「イリーナは我がハイゼンベルク家の長女!」
「一族の『義務』を果たすのは当然のこと!」
「『義務』、だと?」
アシュレイ様は、私を背中に庇ったまま、冷たく言い放った。
「貴様らが結んだのは、そんな崇高なものではないだろう」
彼は懐から、一通の羊皮紙を取り出した。 私が見たこともない、ハイゼンベルク家の蝋印が押された古い契約書。
「これは……!」
父の顔色が変わる。
「『――その身に宿す特異体質を、バルバドス家の「呪い除けの生贄」として差し出す――』」
アシュレイ様が、契約書の一文を読み上げる。
「『――その対価として、莫大な結納金を受け取る――』」
「……っ!」
父も母も、顔面蒼白だ。
「貴様らは、娘を『生贄』として私に売った」
「……」
「それは、ハイゼンベルク家による『義務』の放棄。そして、バルバドス家に対する重大な『契約違反』だ」
「そ、それは……!」
「だ、騙されたんだ! お前が『生贄』などというから!」
父が見苦しく叫ぶ。
「そうよ! イリーナ!」
「お父様を助けなさい!」
「お前は『ゴミ捨て場』なんだから、早く私たちの瘴気を吸い取れ!」
母の甲高い声が、私の頭に突き刺さる。
((……ゴミ捨て場……))
体が、また震えだした。 私には、価値がない。 私は、この人たちに「使われる」だけの……。
その時。 アシュレイ様の温かい手が、私の冷たい手を、強く握りしめた。
「……イリーナ」
(アシュレイ様……?)
「よく聞け、ハイゼンベルク子爵」
アシュレイ様の声には、侮蔑と……そして、私への絶対的な庇護の意志が宿っていた。
「貴様らは、イリーナの真価を、何一つ理解していなかった」
「な、何を……」
「お前たちが『ゴミ捨て場』と呼んだ、彼女の『浄化』の力」
「……」
「そして、我がバルバドス家が『呪い』と呼んだ、この『凍結』の力」
アシュレイ様が、握っていない方の手を軽く掲げる。 途端に、中庭の空気が、真冬のように凍てついた。
「「「ひっ……!」」」
父も母も、瘴気に蝕まれた体で、寒さに震え上がる。 リゼットの弱々しい光は、もはや何の役にも立たない。
「アシュレイ様……!」
((やめて……! そんな力を無理に解放したら、貴方の魂が……!))
彼が力を振るうたび、その魂がすり減っていくような感覚が伝わってきて、私の胸が苦しくなる。
だが、私は知っている。 どうすれば、彼が安らぐのかを。
私は、握られた手に、そっと自分の力――『浄化』を込めた。
瞬間。 奇跡が、起こった。
アシュレイ様の『凍結』の冷気と、私の『浄化』の温もりが、混ざり合う。
((……わかる……!))
((アシュレイ様の『凍結』が、暴れ狂う瘴気を「安定」させている……!))
((そして、安定した瘴気を、私の『浄化』が「吸着」して……消し去っていく……!))
((これが、本当の……!))
それは、消え去るのではない。 二つの力が螺旋を描き、全く新しい、清浄な魔力へと昇華されていく。
中庭を満たしていた、あの重い瘴気が、霧散していく。 私たちが立っている場所から、温かい光の波紋が広がり、地面で凍っていたはずの草花が、一斉に輝きを取り戻す。
「「「な……」」」
父たちが、信じられないものを見る目で、私たちを凝視していた。
「……これが、真実だ」
アシュレイ様が、静かに宣言する。 彼の声は、もう冷たくなかった。
「彼女の力だけでは、瘴気を吸い続ける『器』にすぎない」
「私の力だけでは、呪いを押し込める『氷の棺』にすぎない」
「だが、二つが合わさった時」
「我ら二家の『血の呪い』は、初めて『完全無効化』される」
((……完全、無効化……))
((私と、アシュレイ様の力で……?))
「そ……」
「そんな……」
リゼットが、膝から崩れ落ちる。
「嘘よ……あんな『無能』が……! 私こそが『一族の希望』で……!」
「……『希望』は、ここにいる」
アシュレイ様は、リゼットを冷ややかに見下ろした。
「そして貴様らは、その『希望』を、自ら捨てた」
「あ……」
「ああああああ……!」
父が、母が、リゼットが。 ようやく、自分たちが失ったものの価値を理解し、絶叫した。
「イリーナ! イリーナ! 助けてくれ!」
「娘よ! 私が悪かった! 戻ってきてくれ!」
「お姉様! 瘴気が……! 体が、溶ける……! いやあああ!」
『浄化』の防波堤を失い、瘴気に蝕まれきった三人の体は、もう限界だった。 肌は黒ずみ、指先から崩れ始めている。
((……!)
私は、あまりの惨状に息を呑む。 だが、アシュレイ様は、私の目をそっと手で覆った。
「見る必要はない」
「……彼女の『義務』は」
アシュレイ様は、崩れ落ちる三人に、最後の通告を突きつけた。
「本日をもって、私(バルバドス辺境伯)との『婚姻契約』によって、完全に上書きされた」
「貴様らの呪いは、貴様ら自身で受け止めろ」
「衛兵。この者たちを、領地の外へ『送り返せ』」
「「「いやあああああああ!」」」
「「「助けて! イリーナァァァァ!」」」
耳を塞ぎたくなるような絶叫が、衛兵たちによって引きずられ、遠ざかっていく。
彼らが、自らの瘴気に飲まれてどうなったのか。 それを、私は知らない。
◇◇◇
中庭に、静寂が戻る。
瘴気は浄化され、春の柔らかな日差しが、白い花を照らしていた。
私は、まだ震えが止まらなかった。
「……アシュレイ様」
「……」
彼が、私を覆っていた手を離し、正面から私に向き合った。 その蒼い瞳には、もう「冷血漢」の氷はなかった。 ただ、深い、深い優しさが湛えられている。
「……イリーナ」
「はい……」
「……怖かったな」
その一言で、張り詰めていた糸が切れた。 涙が、溢れて止まらない。
「う……っ……ああ……!」
彼は、何も言わず、私を優しく抱きしめてくれた。 あたたかい。 あんなに冷たかった彼の体が、今は、こんなにもあたたかい。
「……もう、いいんだ」
アシュレイ様の、静かな声が、髪に響く。
「お前はもう、『義務』のために自分を削る必要はない」
「『ゴミ捨て場』でも『生贄』でもない」
彼は、私の肩を掴み、そっと体を離すと、私の濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「正直に言おう」
「……」
「私は最初、自分の呪いを解くために、お前の『浄化』の力を求めた」
「はい……存じております」
「……だが、違った」
「え?」
「私は、お前の力ではなく」
「お前自身に、救われたんだ」
(……私、自身……?)
(「能力」じゃなくて?)
(「ゴミ捨て場」でも、「生贄」でもなく……)
(「イリーナ」として、私を……?)
アシュレイ様の指が、そっと私の頬に触れる。 ふと、彼が何かを思い出したように、自嘲気味に口元を緩めた。
「……王都では『花嫁が生きて戻らない』などと馬鹿げた噂が立っていたな」
「え……?」
「私自らが『契約』を求めたのは、後にも先にも、イリーナ。お前だけだ」
「……!」
(お前だけ……)
彼にとって、私は最初から「唯一」の存在だった。 他の誰でもない、私を求めてくれた。 その事実が、私の心の最後の氷を溶かしていく。
「イリーナ」
「これからは、もう『義務』のために生きるな」
「お前自身の、幸福のためだけに生きてくれ」
((……幸福……))
((私の、幸福……?))
(……幸福……)
(私の、幸福……?)
「そして、願わくば」 彼は、私の手を取り、その甲に、そっと口づけを落とした。
「私の、唯一の『番』として」
「この領地で、ただ幸福に生きてほしい」
重い『義務』から解放された、本当の瞬間。 私は、涙でぐしゃぐしゃのまま、人生で初めて、心の底から頷いた。
「……はい……!」
◇◇◇
あれから、一年。
「呪われた辺境」と呼ばれたバルバドス領は、今や「精霊に愛された地」と呼ばれている。 瘴気は完全に浄化され、大地は息を吹き返した。
かつて中庭に咲いていた小さな白い花は、今や領地中に咲き誇り、人々はそれを「イリーナの花」と呼んだ。
私は、イリーナ・フォン・バルバドス。 辺境伯夫人として、領地の花畑の手入れをするのが日課だ。
「陰気」と言われた私の顔色は、すっかり健康的な色を取り戻し、使用人たちは「奥様は、まるで太陽の光のようです」と笑ってくれる。
((……「ゴミ捨て場」じゃない))
((私は、イリーナ))
失われた自己評価は、もうすっかり取り戻していた。
「イリーナ」
背後から、優しい声がかかる。 振り返る前に、あたたかい腕に包まれた。
「アシュレイ様」
「また花と話していたのか?」
「ふふ。この子たち、アシュレイ様にも挨拶したいそうですわ」
かつての「冷血漢」は、もういない。 呪いから解放された彼は、穏やかな愛をもって、私だけを見つめてくれる。
目に見える派手な『奇跡』(リゼットの光)を追い求めた実家は、自らの瘴気に飲まれて破滅した。
目に見えない地味な『真価』(私の浄化)を、ただ一人、見出してくれた人。
私たちは、互いの『呪い』を解き合い、手を取り合った。
重い『契約』は終わり、私の本当の人生が、今、始まる。 この世界でただ一人、私を愛してくれる、不器用で、最高に優しい人と共に。
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