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第2話

 小学五年生の夏休みだった。

 幼稚園のころから通っていたスイミングスクールで使う水着を新調したいっていう大地に付き添って、近所のショッピングモールに行った。

「大地」

 大地が気に入った水着が見つかったころ、大地の友達と鉢合った。大地の中で、「友達と遊びたい」っていう気持ちと、大地のお母さんに言われた「ちゃんと二人で帰ってくるのよ」って言葉がせめぎ合ったのだと思う。

「おー」と複雑な表情で友達に応える大地に、和はちょっと恩を売ろうかな、って思った程度だった。

「いいよ、遊んできたら?」

 その頃は、ちょうど異性というものを意識しだすころで。一年ほど前だったら、一緒に遊ぶと言っていたかもしれない。大地とは赤ちゃんのころから一緒にいて、和の中では異性どうこうの前に「幼馴染」という枠に括られているから、二人で出掛けることに何も抵抗感はなかった。けれど他のクラスメイトとなると話は変わってくる。

 だから、ここで大地とはバイバイしようと思ったのだ。ショッピングモールから家まで、自転車で十分もかからないし。

「大地のお母さんには私が上手いこと言ってあげるから」

「マジ!? ありがとう! 和様、天才! 女神!」

「今度、スイミング終わったあとジュース奢ってよね」

「奢る! 百本くらい!」

「そんなに飲めないよ」

 大袈裟、と和は大地に手を振って、スポーツ用品店の前で別れた。

 下のフロアに行くには、エスカレーターよりエレベーター乗り場のほうが近かった。だから、その日はエレベーターに乗ろうと思った。ただ、それだけ。

 逆三角形の形をしたボタンを押すと、エレベーターはすぐにやって来て和は乗り込む。夏休みだけれど、平日だったからだろうか。エレベーターの中には和だけだった。閉ボタンを押して、ゆっくりと閉まる扉。行き先の階数を押したそのとき、ガガンと大きな音がした。顔を上げる。お父さんくらいの年齢の人が閉まる扉に体をねじ込むようにして入って来た。

「ごめんね」

 その人は和に笑いかけた。和は、「はい」と頷いて、もう一度閉ボタンを押した。その人は、右奥に立つ和とは反対の左奥に立った。

 五階から下っていく回数表示を眺めていた。それが、三階へと数字が変わったとき、和に影が落ちた。

「怖くないから」

 耳元でそう囁かれた瞬間、体のどこかを掴まれた感覚が走る。

 喉がきゅっと塞がり、息が浅くなった。目の前の視界が狭まり、全身が凍りついた。伸びて来る男の手から逃れるように、和は強く自分の瞳を閉じることしかできなかった。


 競技大会が終わり、数日後。和は、海原(うみはら)総合病院の三階にいた。

「高校生になってから、どうかな? 変わりはない?」

 淡いブルーを基調とした診察室。緩く毛先が巻かれたポニーテールの髪を揺らして、先生は和を見た。

 ショッピングモールでの事件以来、男性恐怖症を患ってしまった和を診てくれている女の先生だ。

「はい。落ち着いていると、思います」

「それは良かった。大地くんとは、同じクラスなんだっけ?」

「はい。色々助けてもらっています」

 そっか、そっか。と先生は穏やかに笑って、それをカルテに書き留めるためにペンを走らせた。

「男の子に肩を叩かれて呼ばれたりすると、冷や汗が出る日もあります。でも、前ほどはパニックにならなくなった……かな」

 あの事件直後から二年くらい、和は年齢問わず男性に触れられるとパニックを起こしてきた。

 その中で唯一発作が出なかった男性は、父親と幼馴染の大地だけだった。

「それは良いことだね。大きな波が来る日もあると思うけど、それも気に病まないで。そういう日もあるんだなって、考えられたらいいかなって思います」

「……はい」

「なにか、気になることがある?」

 和が一瞬目を伏せたからだろう。先生は、柔らかく問いかけながら首を傾げた。

 和は膝の上に置いた手を握り込んだ。

「大地に、ずっと迷惑をかけていて、申し訳なくて……」

 あの日以来、大地が自分自身のことを責めていることを知っている。あの日、自分が和と離れ、友達を優先してしまったから和が被害に遭ったんだ、と。

 それからというもの、大地は時間さえ合えば登下校を必ず一緒にするようになった。自分が少しでも離れるときは、防犯ブザーを持っているかと必ず確認される。症状が落ち着いてきている今も、それは変わらない。

――和の傷が癒えるまで、俺がずっと傍にいるから。

――俺が和を守るから。

――それが一生かかるなら、一生、傍にいるから。

 中学一年生のとき。パニックを起こして保健室に運ばれた私に、大地はそう言った。

 それからだ。大地が、自分の恋心を隠すようになったのは。

 小学生のころから、大地が環さんに恋をしていることを知っている。アピールだってたくさんしていた。

 けれど、今は、その感情に蓋をしている。

 それが分かるから、和は苦しかった。早く大地を手離してあげたい。私が早く『普通』になれたら……。

 そう紡いだ和の言葉に、先生は「そっか」と相槌を打った。

「先生、いつか大地くんともお話したいな。いつでもいいから、今度は一緒にここに遊びに来て」

 先生は、いつも受診することを「遊びに来る」と表現してくれる。それくらい、フランクに、友達と話すような感覚で話を聞きたいのだと、小学生のころに言われたことを和は思い出していた。

「はい」

「じゃあ、今日はこれでお終い。お薬貰ったら、気を付けて帰ってね」

「はい、ありがとうございました」

 診察室を出て、会計処理が済むまで待合室のソファーに座って待つ。

 その間に、お母さんと大地に診察が終わったことと、もうすぐ帰ることをメッセージアプリで送信した。

 お母さんからはすぐに既読マークがついた。画面の左上に表示された時計を見る。学校が終わったその足で病院に来たから、まだ十七時にもなっていない。大地はまだ部活に励んでいる時間だ。

「笹原さーん」

 受付の女性が和の名前を呼ぶ。はい、と軽く手を挙げてソファーから立ち上がった。

「こちらが今日の処方箋。それから、お会計は……」

 会計を済ませ、「お大事に」という言葉に見送られて帰ろうとしたときだ。

「あれ? 潮高の」

 背中に当たる声は、耳馴染みがあった。どこで聞いた声だっただろうか、と記憶を探りながら和は振り向く。

 そこには白とブルーの、見覚えのあるジャージ。それを辿り、そのジャージを纏う人の顔を見て、数日前の競技大会で、クーラーボックスを控え場所まで運んでくれた藤原鳴海だと気付いたけれど、 まさかこんなところで出会うなんて思っていなくて上手く反応できない。

 受付の番号札の電子音だけが間を埋めた。スクールバッグのショルダーストラップを握る掌に、薄い汗がにじむ。

「急に話しかけてごめん」

 その沈黙を断ち切ったのは、鳴海のほうだった。何でもないから、と立ち去ろうとする鳴海に、和は「あのっ」と声を上げた。

「あの、どこか、悪いの?」

 そう口から言葉を吐き出したあとに、この質問は間違っていたかもしれない、と後悔が襲う。通院の理由なんて言いたくないことだってあるだろう。

 実際、自分自身、病院という場所でどんな顔をして鳴海と接すればいいのか分からなかった。ただ、「あのときはありがとうございます」という反応を最初にすれば良かっただけだったのでは、と今になって思う。そもそもどうして、自分は慌ててこの人を引き止めたのだろう、とも。

「……帰りながら、話す?」

 そう言って鳴海は出口のほうを指差した。他の患者さんたちの視線が自分たちに集まっていることに和はそれで気付いて、顔を赤くして俯いた。

 自動ドアを抜けると、そのすぐ先にエレベーターがある。鳴海はエレベーターのボタンへと指を伸ばした。数歩後ろを歩いていた和の靴底がきゅっと音を鳴らす。中途半端な場所で立ち止まった和に気付き、鳴海の指はボタンを押し切れないまま宙で止まった。振り向いた鳴海に、和は眉を下げる。

「あの、私はエスカレーターで下りるから」

 一瞬、鳴海は怪訝な顔をしたけれど、指を引っ込めた。そして、「じゃあ、俺も」と足先の向きを変える。藤原くんはエレベーターで良いんだよ、と和が返す間もなく、鳴海はあの日、クーラーボックスを和から攫ったときと同じように先を歩き始めた。

 和はその後ろを追いかける。

「潮高の何年?」

「えっと……一年」

「じゃあ、タメだ」

 和は大地から話を聞いていたから彼が同い年だと知っていたけれど、鳴海はこのときまで知らなかったのかと思いながら「うん」と和は頷いた。

 一階まで下りるエスカレーターに片足ずつ慎重に乗る。

「肩、悪くてさ」

 二つ前のステップに乗る鳴海は、和のほうを振り向かないまま数分前の質問に答えた。吹抜けになっている広い空間のせいか、鳴海のその声は一度浮かんで、静かに落とされていくようだった。

「それで、三階の整形、通ってる」

柔らかな髪がふわりと揺れるのを見ていた。鳴海の顔は見えない。

競技大会のとき、彼はレースに出ていなかった。大地が『いなかった』と落ち込んでいたのを覚えている。きっとこの肩の不調が原因で出場しなかったのだろう。

それでも淡々と話す様子を見ていると、そこまで深刻なものではないのだろうかと和は考えていた。

「あんたは? どこか悪いの?」

「……私、は」

 一瞬、言葉が迷う。

「三階の精神科に、通ってるの」

「精神?」

 ようやく鳴海が振り向いた。鳴海の丸く開かれた目に和が映る。きっと、自分と同じようにどこか怪我をしていて整形に通っていると思っていたのだろう。

「ちょっとトラウマが、あって。その治療。あ、でも、もう今はほとんど治っているから」

 あまり重い響きにならないようにと和は明るい声を心がける。

 表情を窺うように見る鳴海の目に、心の奥側まで見透かされてしまうような気がして、和は目を逸らし、唇を噛んだ。

――男の人が怖いんだ。

 そう言ったら、鳴海はどんな反応をするのだろう。話しかけてごめんと言って、走り去っていってしまうかもしれない。

 それは嫌だな、と漠然と思ってしまった。なぜそう思ったのかは和自身もよく分からなかった。

「そっか」

 大変だな、とも、どんなトラウマ? とも鳴海は言わずに、ただ相槌を打っただけだった。

もうすぐ一階に辿り着く。夕方の自動ドアから、消毒液とはちがう外の匂いが流れ込んだ。

「……うん、そうなの」

 涼しさを纏う初夏の柔らかな風が、そっと和の心を撫でていくようだった。


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