第6話 ユカリノ 3
「なんで水浴びを? まだ夏には間があって、水が冷たいでしょ?」
「……習慣なんだ」
部屋に戻ったユカリノは炉の火をかき出し、細い薪をくべた、炎がぱぁっと上がって、部屋の中が一気に明るくなる。
ユカリノは椅子に掛けていた布で、髪や体を拭っている。
布はぴったりと肌に吸い付き、少女の薄い腰や、膨らみかけた胸の形を露わにしていた。下ろした髪は腰まで伸びている。
なにかいけないものを見た気がして、オーリは思わず目を逸らしたが、その途端、腹がくぅと鳴った。
「腹が減っているのか?」
「う……はい」
「鍋に残りの汁物がある。私が着替えている間に食べるがいい。食器はそこの棚に」
ユカリノはそう言って、奥の扉を開けて別室に入って行った。
オーリが言われた通りに、壁に取り付けられた棚を見ると、木でできた椀や皿、匙などが一つずつ仕舞われている。
鍋を見ると、濃い色をしたスープが半分くらい残っていた。火が通り始めて、部屋中に不思議な香りが漂う。
ちょっと変わった匂いだな。でも美味そうだ。
しゃもじで鍋の中をかき回していると、奥から着替えたユカリノが現れた。髪は背中に流したままだが、前で見ごろを重ねて帯を巻く、ゆったりとした服を身につけている。
ちょうどいい感じに鍋が煮立ってきたので、オーリは椀と皿にスープをよそった。匙は一つしかなかったので、ユカリノの皿に添えた。
「私の分はいい」
「でも、水浴びをしたし、体をあっためなくちゃ」
「お前、小さいのに生活力あるんだな。結構いい身なりしているから、いいところの坊ちゃんかと思った」
「パリスと二人で暮らしてたから、大体のことはできるるんです。服は届くものを着るから、いい身なりかどうかはわからないです」
「パリスは親切だったのか?」
「最後の世話役です。世話役は半年くらいで変わってたけど、この二年くらいはパリスで、生活に必要なことを教えてくれた。多分、結局は捨てられるからだろうと思います」
「……」
ユカリノは何も聞かなかった。ただ黙って匙をオーリの椀に移し、自分は棚から棒切れのようなものを二本出してきた。
「それはなに?」
「箸というものだ」
それだけいうと、ユカリノは二本の棒を器用に使って、皿の中の具を摘んでいく。
棒で食事をする人など初めて見たオーリは、その綺麗な所作に見惚れた。
「見ていないで食べろ。私が作ったものだから、不味いだろうが」
「不味くないです! 食べたことのない味ですけど!」
オーリは慌てて、残りのスープを飲み干した。
「さっきは暗くてよくわからなかったが、お前も私と同じような髪色だな」
ユカリノはオーリをつくづく見やってつぶやいた。
「この大陸は、明るい髪色や瞳が多いから目立つだろう?」
「大陸?」
「知らないのか? ここはエストア大陸という大きな島だよ」
「知らないです。僕はあんまり字が読めなくて、絵のない本は読めません。でも俺の髪はユカリノ様みたいに綺麗な黒色じゃないです」
オーリの髪も瞳も、灰色だ。
髪はこの国の男性のように短くはなく、常に肩の下まで伸ばしている。理由はまだ言いたくはなかった。
「黒が綺麗だって? ここでは誰もそんなこと言わないよ。オーリは……そうだな」
「……」
オーリはわくわくしながらユカリノの言葉を待った。
「狼に似ている」
「狼?」
「そうだ。賢くて強い獣だ。この森にも少しはいる。彼らはケガレを恐れない。オーリの色は狼に似ている」
「だったら僕も強くて賢くなります!」
勢い込むオーリを、ユカリノは口の端で笑った。
「すまんが、寝床は一つしかないから、狭いのを我慢して一緒に寝るしかない。着替えもない。顔や口を洗いたいなら、そこに水瓶と桶がある。柄杓も」
「寝床……ぼ、僕が一緒に寝ていいの?」
そんな経験は一度もなかった。
パリスでさえ、離れたところに家族と一緒に住んでいて、その人たちはオーリを見ることを避けていたから、親しく口をきいたことがない。
「言ったろう? 寝床が一つしかないんだよ。私と寝るのが嫌なら、この部屋の炉の横で寝るしかないが、布団がない。さ、寝支度だ」
ユカリノは自分の手と顔を洗い、そして木の枝で歯を磨くと、からからとうがいをした。
「嫌じゃないです!」
「そうか。なら、手と顔を洗ったら奥においで。炉は放っておいていい」
「……」
水瓶のそばには流しがあり、オーリは二人分の食器を洗った。それから汚れた手や顔を清めて、奥の扉を開けると、そこには布を垂らした衝立が置かれてあった。外からは見えないようにしてあるのだ。
狭い部屋の真ん中には、床に直接伸べられた寝床があった。
寝床の部分だけ、分厚い敷物が敷いてある。敷物からは爽やかな植物の匂いがした。
「さ、寝るぞ。明日は町に送って行ってやる」
言いながら布団の端を持ち上げた。入れと言うことだろう。
誰かと眠ったことのないオーリが、遠慮しながら布団の端に滑り込むと、思ったよりも敷布が柔らかい。
「おやすみ」
ユカリノはオーリに背を向けた。その背中は小さいけれど、とても頼もしく優しく見えた。
「お……おい、なにを……」
ユカリノが体をよじった。少年が背中にしがみついている。
彼は声を殺して泣いているのだ。
「僕……本当に捨てられたんだ。もともと要らない子だったけど、多分お屋敷の偉い人が、僕が生きてちゃだめだから、パリスに殺せって言ったんだと思う……」
途切れ途切れの言葉。ユカリノに理解できたのは「要らない子ども」ということだった。
「要らない理由はわかるか?」
ユカリノは背を向けたまま尋ねた。
「多分……僕が変な子だから、だと思います」
「変な子? 私がさっき言った事を気にしているんなら、謝る。悪口のつもりじゃなかった。すまない」
ユカリノは寝返りを打ってオーリに向き合った。
黒い瞳がオーリを覗き込んでいる。その目を見つめ、オーリはユカリノになら、自分の秘密を伝えてもいいのでは? と思えた。
理屈ではない。肌が触れるように、魂の一部が触れ合ったような気がしたのだ。
「違います。ユカリノ様のせいじゃない。僕の体が変なんです」
オーリは言いながら、服の前をくつろげた。
「これは……」
そこには、硬い鱗のような皮膚があった。
はっきりとはわからないが灰色と青を混ぜたような色合いだ。少年の心臓の上を覆っている。
「ここと、それから首の後ろにも、こんな部分があるんです。だから変な子だって嫌われる。誰も僕を相手にしない」
「……お前も大変だったんだな」
「……」
「だが、綺麗だ。それはきっと、お前を守るものだと思う」
「綺麗? 僕を守る?」
この醜い硬い皮膚が? とオーリは目を向いた。そんなことを言われたのは初めてだった。
「ああ。人の体にはいくつか大切な部分がある。胸や首だ。これはそこを守っている。だからきっとよいものだ」
なぜそんなものがある、とはユカリノは聞かなかった。
聞いても多分オーリは答えられないだろう。こんな少年を悪霊の出る森に置き去りにする。そこには確かに意味があるのだろうに。
ユカリノは静かに涙を流す少年の頭を抱いた。
「まったく生きにくい世の中だ……私も、お前も」
「……ううっ!」
「今までよく頑張ったな」
「うううっっ! わあああああ!」
初めて人肌の温もりに触れたオーリは、声を上げて泣いた。
「温かいな、お前……」
ユカリノはその背中を優しく撫でていく。
少女と少年の運命は、ここから重なり始めたのだった。