第5話 ユカリノ 2
「どこまで行くんですか?」
オーリは森の中を先に立って歩く、ユカリノの背中に尋ねた。
「私の家まで」
そう言ってからユカリノは振り返る。輪にした髪が揺れた。
「怖いのか?」
「怖くない……です」
強がって見せても、オーリは不安でいっぱいだった。
あの黒い、ねばねばした奴がまた来たらどうしよう……。
さっきはユカリノが追い払ってくれたようだが、奴らがもう襲ってこないという保証はない。形状も力も、滲み出る悪意も、全てが悪夢のようだった、
けれどユカリノの様子を見ていると、恐れげもなく先へと進んでいる。その背中は小さいが、とても頼もしく見えた。
この人は信用できる。あいつらはもう来ない。
そういえば、倒すではなく、はらうって言ってたけど、どういう意味だろう? 突然見えなくなって……消えた?
考えすぎて歩みが鈍くなったオーリを、ユカリノが振り返る。かれこれ一時間以上歩いているのだ。
「オーリ、堂々としていろ。ケガレ……この大陸で悪霊というものは、人の弱い心や醜い心を道標にやってくる。来たら、私が祓ってやる。安心して進め」
ユカリノは平坦な口調で言った。
オーリとさほど歳が変わらないように見える顔には、微笑みさえないが、その言葉はオーリの心に深く染み込んだ。
この人は絶対嘘は言わない。
それは根拠のない確信。だが、確実に少年の足を支えた。
一方、ユカリノもまた、オーリについて考えている。
さっき、ケガレはこの男の子を一気に喰わなかった……気のせいかも知れないが、逡巡するような、奇妙な間があったように見えた。
まさかな。
ケガレに知性などない。人間を前にためらうなんてあり得ない。
「オーリは幾つだ?」
自分の考えを打ち払うように、ユカリノは唐突に尋ねた。
「はっ、八歳です! あのっ! ユカリノ様の家は、どこにあるんですか? 大きなお家なんですか?」
「なんで?」
オーリの言葉に、整った眉が顰められる。
「だって、ユカリノ様が……その、すごくかっこいいから。さっきの戦い方だって、すごかったし……きっと立派な騎士様だと」
「格好いい? 騎士? 私が? 変な子どもだ。私の家……まぁ、私の持ち物ではないけど、大きくもない、ただの守屋だよ。この森の外側、インゲルの町の城壁の近くにある。もうすぐだ。疲れたか?」
「疲れてません。家族と一緒に住んでるんですか?」
「一人で」
答えは短い。
「すごいですね! まだ子どもなのに!」
「……はぁ」
ユカリノは、ため息をついている。
「僕なんて、いつも世話役がついてました」
「じゃあ、おぼっちゃまじゃないか」
「坊ちゃんじゃないです。親も知らないし、たいてい一人で、誕生日も知らない。八歳だって教えてくれたのはパリス……世話役だったけど、結局す……捨てられたし。お母さんに会わせてやるって言ったのに……」
オーリの口調は弱くなり、最後は涙が溢れそうになった。
「前を見て歩け。森では絶対に下を向くんじゃない」
ユカリノの言葉はきついが、口調は柔らかだ。透き通るような美声がそう思わせるのかもしれない。
オーリは黙って顔を上げた。いつの間にかユカリノが横に立っている。そして黙ってオーリの手を取ると、今度は一緒に歩いてくれた。
その手は小さかったが、確かに温かかった。
「ああ、見えてきた。あれがそうだ」
やがて、ユカリノは森の外れの小さな家を指差した。
それは石柱で支えられて床が高く、床下が吹き抜けになっている、今まで見たことがない様式のものだった。
家の後ろからさらさらと水の音がする。
「ここ?」
オーリは十二段ある階段の下で、ユカリノを見上げた。その上の露台の向こうに入り口がある。
「そうだ。鍵はかかっていないから、お前は先に家に入っていろ。私はやることがある」
「やること?」
「ああ。すぐに戻るから」
そう言ってユカリノは、階段の脇から床下を潜って家の裏に消えた。
「お邪魔しまーす」
オーリは階段を登って扉を開ける。
意外なことに部屋は暗くなかった。ランプが隅の台に置いてある。小さく火が灯っている。つけっぱなしのようだ。
真ん中に四角く炉が作ってあり、埋み火が残っているせいか暖かい。天井から吊られた鍋と煙抜きの筒もある。低い卓と背もたれのない椅子が一つ。奥にもう一つ扉があるから、多分寝室だろう。
窓には木の扉がはまっていたので、空気を入れ替えようと開けてみると、家の裏の方から水音がした。
やっぱり水が流れているんだ。ユカリノ様は水を汲んでいるのかな? 僕も手伝ってあげなくちゃ。
オーリはとんとんと階段を駆け下り、床下を潜って家の裏手へと出た。
水音は茂みの奥から聞こえる。
踏み分けられた細い道を辿ってみると、正面には低い崖があり、細く白い滝が流れ落ちていた。その下は泉となっていて、そこにユカリノは身を浸している。
「……」
オーリは小さく息を呑んだ。
ぞっぷりと濡れた体に月光を受けて、衣が肌にへばり付いているのがわかる。輪に結った黒髪は今は解かれ、体に絡みついて、さながら神話の精霊のようだった。
「……っ!」
思わず踏み出したオーリに驚いて、虫が跳ねる。
振り向いたユカリノの黒い瞳がオーリを射た。吸い込まれそうな黒瞳の中に、自分がいる。
少年の時がしばし止まった。
ああ……この人綺麗な人のそばに、ずっといたい。
それがオーリの一生を、そして命をかけた恋の始まりだった。