第4話 ユカリノ 1
それからのことは、後から思い出しても夢を見ていたようだと、オーリは感じている。
たった八年の人生の中で、一番美しく幸せな夢。
しかし、それは夢ではなかったのだ。
弱い月光が届かない、森の奥から《《それ》》が忍び寄ってくる。じわじわと、じりじりと。
「あ!」
唐突に、闇の中から赤黒い塊が出現した。そこから手のような黒いねばねばが分岐し、ユカリノを狙って、触手の先が鎌のように変化する。
「危ない!」
オーリが叫んだ時、白い影が宙に翻った。
「リン・トウ・ビョウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン! 無に還れ!」
澄んだ声が不思議な音を紡ぐ。
あとは一瞬のことだった。
残像を引く銀光が、触手を掻い潜り、塊の一番太い部分を横に薙いだ。その瞬間、それは赤い霧となって、文字通り霧散する。
しかし、それで終わりではなかった。
弱い月光しか届かない夜の中で、オーリは見た。
他の個体から伸びた触手が束になって迫ったとき、少年は大きく真横に飛び退ったのだ。まるで化け物の動きが、わかっているように。
ケガレは邪悪だが、知性はないのだろう。ただ悪意でもって人を襲う。
対して、白い少年は無心だ。
澄んだ黒い目は、ケガレを憐れんでいるようにすら見えた。そして、右へ左へと跳んでは刀を振るい、ケガレを霧へと変えていく。
それらを全部オーリは見ていた。見てはいけないと言われたのに、見つめずにはおれなかったのだ。
その姿を例えるなら、軽やかに舞う白い猫──とても美しくて、とても強い。
オーリの恐怖はいつの間にか消えていた。
「見るなと言ったのに」
どのくらいの時間が経ったのか。
多分、ほんの数分程度だったのだろう。少年が呆れたようにオーリを見ている。
「お前、怖くなかったの?」
「最初だけ……少し」
「大した度胸だな。オーリ」
綺麗な声の関心したような口ぶりに、オーリは途端に気持ちがよくなって、まだ薄い胸を張る。
「喧嘩じゃ負けたことはなかったんだ。食べなくても寝なくても、大して疲れない!」
「ふぅん。なら、どうしてこんなところに?」
「……捨てられた」
「捨てられた?」
輪にしたした髪を揺らして首が傾ぐ。大きな目を細める様子は、ますます猫に似ていると、オーリは思った。
この人ともっと一緒にいたい。この人のことを知りたい!
「一緒に連れていって!」
それは孤独なオーリが、初めて他人に対して願ったことだった。
が、その人の言葉はつれない。つれないというか、冷たい。
「私はお兄さんじゃない」
「え? じゃあお姉さんなの?」
オーリは素直に驚いた。
「……お前のお姉さんでもないが、性別なら女だ」
「ユカリノ様、おんなのひとなの?」
ユカリノ。
風変わりな名前が持つ意味はわからないが、聞いたこともない不思議な響きだ。
オーリの知っている女は、世話役の妻くらいだが、たいてい中年で踝まであるスカートを履いていた。ユカリノが着ているものは、変わってはいるが、どう見ても男が着る下衣だ。だから男の子だと思ったのだ。
「様は別にいらない。私は偉くないから」
「でも」
オーリにはどうしても、この不思議な人を呼び捨てにする気持ちは起きなかった。
「でも、僕には偉い人だ。だって命を助けてくれたんだから……ねぇ、ユカリノ様ってって呼んでいい?」
オーリはおずおずと尋ねた。
得体の知れない化け物が消えて、空気はさっきよりも澄み渡り、月光が鮮やかに”少女”を照らした。
言われてみれば、この人が男のはずがなかった。中世的な雰囲気はあるが、男特有の荒々しい匂いがしない。
肌は白くなめらかで、少し切れ上がった双眸は大きく、わずかに切れ上がっている。歳は十代半ばというところだろうか?
この人、すごく綺麗だ……。
「勝手にするがいい」
「ありがとう、ユカリノ様」
ユカリノは薄い肩をすくめた。その仕草も猫に似ている。
「捨てられたのなら、仕方がない。今夜だけは拾ってやる。私と一緒にくるがいい、オーリ」
こんなふうに優しく、労わるような声で名前を呼ばれたのは初めてだった。
オーリの灰色の目に涙が溢れる。
「泣いているのか?」
「……泣いてません」
「悪かった……怖かったな。よく耐えた。偉いぞオーリ」
鈴のような声音から硬さが取れた。指先がオーリの目元を拭う。
「私についておいで」