第38話 北東からの風 3
トモエが死んだ。
サキモリの手紙を握りしめ、ユカリノは炉の前に座り込んだ。オーリは何も言わない。言えなかった。
話しかけるのを躊躇う、それほどユカリノの顔は険しかった。
投げ出された手紙に書かれているのは、一見連なった模様のように見える、ヤマト独特の文字であった。オーリには一文字も読めない。
ユカリノは黙って寝間に入ると、晴れ着から普段の服に着替えて戻ってきた。オーリが結い上げた髪も解いている。髪飾りもない。
「オーリ、硯箱を持ってきてくれないか?」
「かしこまりました」
スズリとは、ヤマトたちの間のみで交わされる文書で使われる文具である。
少し重い綺麗な箱には、窪みのある黒い石と、スミと呼ばれる黒い棒が入っている。ペンではないフデと呼ばれる、動物の毛を丸くまとめた筆記具も二、三本。
ユカリノは滅多にこれらの道具を使わない。
それはヤマトが受け継いだ通信手段で、普段は使われることはない。あまり頻繁に使うと、セルヴァンテに不穏を疑われてしまうからだ。
「どうぞ」
オーリは低い卓にスズリを用意し、小さな水差しに水を入れて渡した。
「ありがとう」
ユカリノは床に直に座ると、きちんと背を伸ばして目を閉じ、水を差した硯に墨を擦りつけていく。水は次第にインクより深い黒に染まっていく。スミを擦るユカリノの姿は静かだ。まるでその段取りを踏むことで、昂った気持ちを整理していくように。
「書紙は」
「こちらに」
セルヴァンテから支給される普段使いの紙よりも、やや分厚く丈夫で吸水性の良い紙が広げられる。
垂直に筆を立て、ユカリノは縦に文字を書きつけた。滑らかに強弱をつけながら、美しい墨痕を紙に描いていく。そう。それはまるで、文字というよりも芸術だ。
「できた」
スミを十分乾かしてからユカリノは紙を折りたたみ、別の紙で丁寧に包んだ。
「オーリ、この書状をサキモリに持っていってくれるか? 信頼できる通信手段がない。サキモリは今、ここから二日ほど東にある、廃れた守屋にいるそうだ。昔、使われていたところだ」
それは、サキモリの手紙の最後に記してあるのだろう。
「承知しました。でもユカリノ様は?」
「私は今から神聖セルヴァンテの都に行く」
セルヴァンテの都とは、先日行ったソドラの町から更に遠くにある、聖都セルヴァのことである。位置的には大陸の最北東になる。
「セルヴァに! 俺もお供します!」
「だめだ!」
いつにないユカリノの強い口調に、オーリは怯んだ。
「どうしてです! お一人で行かれるのですか? 危険です」
「心配ない、自分の身くらい守れる」
「でも、不穏じゃないですか! サキモリさんからどんな知らせがあったのか、伺ってもいいですか? トモエさんはなぜお亡くなりに? どうして俺を連れていけないんです? 理由があるはずです」
「わかった。オーリ」
ユカリノは、畳み掛けるオーリを正面から見つめた。
「だけど、優先順位があるんだ。まず、サキモリへ私の手紙を届けておくれ。それからセルヴァで落ち合おう」
「本当ですか?」
オーリはユカリノの挙動を見逃さないように見つめた。その目が少し光っている。
「本当だ。だが、サキモリの話を十分聞いておくんだ。きっとトモエのことも聞ける。彼の方が詳しい」
「……わかりました。準備は?」
「要らない。すぐに発つ」
「じゃあ、せめて」
オーリは流したままのユカリノの髪を一房すくい上げた。そこには先ほどの結い後すら、もうない。
「いつも通りの髪型に。花はありませんが。飾り紐で」
「ありがとう。頼む」
ユカリノはいつも髪を結ってもらう低い椅子に腰を下ろした。
オーリはその艶やかな黒髪を丁寧に梳り、いつものように耳の横で輪にして括った。オーリが編んだ飾り紐だ。
結い紐をきつく縛るとき香りを吸い込むのは、密かな彼の特権だ。
「できました」
毛先を胸元に垂らしてオーリは言った。
「すぐにもご出発ですか?」
「ああ」
「本当に、セルヴァで俺を待っていてくださるんですよね?」
「ああ。だからこれだけは持っていこう」
ユカリノは胸元から、オーリが贈った髪飾りを見せた。
「これがあれば、オーリといつでも一緒だってことだから」
「……」
それはかえって不吉ではないかと、オーリは言おうとしたが、ユカリノの優しい瞳を見て思いとどまる。
「では行こう。くれぐれも気をつけて」
「ユカリノ様こそ」
守屋の前で二人は別れた。
未だ冷たい春の夕風が二人を隔てる。オーリは小さな背中が見えなくなるまで、見送っていた。




