表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】夜明けの猫は、致死量の愛の夢を見る  作者: 文野さと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/62

第38話 北東からの風 3

 トモエが死んだ。

 サキモリの手紙を握りしめ、ユカリノは炉の前に座り込んだ。オーリは何も言わない。言えなかった。

 話しかけるのを躊躇う、それほどユカリノの顔は険しかった。

 投げ出された手紙に書かれているのは、一見連なった模様のように見える、ヤマト独特の文字であった。オーリには一文字も読めない。

 ユカリノは黙って寝間に入ると、晴れ着から普段の服に着替えて戻ってきた。オーリが結い上げた髪も解いている。髪飾りもない。

「オーリ、硯箱を持ってきてくれないか?」

「かしこまりました」

 スズリとは、ヤマトたちの間のみで交わされる文書で使われる文具である。

 少し重い綺麗な箱には、窪みのある黒い石と、スミと呼ばれる黒い棒が入っている。ペンではないフデと呼ばれる、動物の毛を丸くまとめた筆記具も二、三本。

 ユカリノは滅多にこれらの道具を使わない。

 それはヤマトが受け継いだ通信手段で、普段は使われることはない。あまり頻繁に使うと、セルヴァンテに不穏を疑われてしまうからだ。

「どうぞ」

 オーリは低い卓にスズリを用意し、小さな水差しに水を入れて渡した。

「ありがとう」

 ユカリノは床に直に座ると、きちんと背を伸ばして目を閉じ、水を差した硯に墨を擦りつけていく。水は次第にインクより深い黒に染まっていく。スミを擦るユカリノの姿は静かだ。まるでその段取りを踏むことで、昂った気持ちを整理していくように。

「書紙は」

「こちらに」

 セルヴァンテから支給される普段使いの紙よりも、やや分厚く丈夫で吸水性の良い紙が広げられる。

 垂直に筆を立て、ユカリノは縦に文字を書きつけた。滑らかに強弱をつけながら、美しい墨痕を紙に描いていく。そう。それはまるで、文字というよりも芸術だ。

「できた」

 スミを十分乾かしてからユカリノは紙を折りたたみ、別の紙で丁寧に包んだ。

「オーリ、この書状をサキモリに持っていってくれるか? 信頼できる通信手段がない。サキモリは今、ここから二日ほど東にある、廃れた守屋にいるそうだ。昔、使われていたところだ」

 それは、サキモリの手紙の最後に記してあるのだろう。

「承知しました。でもユカリノ様は?」

「私は今から神聖セルヴァンテの都に行く」

 セルヴァンテの都とは、先日行ったソドラの町から更に遠くにある、聖都セルヴァのことである。位置的には大陸の最北東になる。

「セルヴァに! 俺もお供します!」

「だめだ!」

 いつにないユカリノの強い口調に、オーリは怯んだ。

「どうしてです! お一人で行かれるのですか? 危険です」

「心配ない、自分の身くらい守れる」

「でも、不穏じゃないですか! サキモリさんからどんな知らせがあったのか、伺ってもいいですか? トモエさんはなぜお亡くなりに? どうして俺を連れていけないんです? 理由があるはずです」

「わかった。オーリ」

 ユカリノは、畳み掛けるオーリを正面から見つめた。

「だけど、優先順位があるんだ。まず、サキモリへ私の手紙を届けておくれ。それからセルヴァで落ち合おう」

「本当ですか?」

 オーリはユカリノの挙動を見逃さないように見つめた。その目が少し光っている。

「本当だ。だが、サキモリの話を十分聞いておくんだ。きっとトモエのことも聞ける。彼の方が詳しい」

「……わかりました。準備は?」

「要らない。すぐに発つ」

「じゃあ、せめて」

 オーリは流したままのユカリノの髪を一房すくい上げた。そこには先ほどの結い後すら、もうない。

「いつも通りの髪型に。花はありませんが。飾り紐で」

「ありがとう。頼む」

 ユカリノはいつも髪を結ってもらう低い椅子に腰を下ろした。

 オーリはその艶やかな黒髪を丁寧にくしけずり、いつものように耳の横で輪にして括った。オーリが編んだ飾り紐だ。

 結い紐をきつく縛るとき香りを吸い込むのは、密かな彼の特権だ。

「できました」

 毛先を胸元に垂らしてオーリは言った。

「すぐにもご出発ですか?」

「ああ」

「本当に、セルヴァで俺を待っていてくださるんですよね?」

「ああ。だからこれだけは持っていこう」

 ユカリノは胸元から、オーリが贈った髪飾りを見せた。

「これがあれば、オーリといつでも一緒だってことだから」

「……」

 それはかえって不吉ではないかと、オーリは言おうとしたが、ユカリノの優しい瞳を見て思いとどまる。

「では行こう。くれぐれも気をつけて」

「ユカリノ様こそ」

 守屋の前で二人は別れた。

 未だ冷たい春の夕風が二人を隔てる。オーリは小さな背中が見えなくなるまで、見送っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ