第19話 ミラ 3
「オーリがそんななら、私も言うわ」
言いおいて、ミラは屋台の方へ駆けて行き、すぐに木のカップを二つ持って戻ってきた。そこには果物を潰して牛乳で混ぜたような飲み物が入っている。
「どうぞ、オーリに飲ませてあげたかったの」
「え? ご馳走してくれるの?」
「私だってもう子どもじゃないの。働いているし、お祭りに誘ってくれる人もいるんだから!」
ミラは程よい曲線を描いた胸を張る。よく見たら、うっすらと化粧もしているようで、唇が紅い。
「へぇ! ありがとう。あの小さかったミラがねぇ。綺麗になったよ」
オーリが何気なく言った言葉が娘の気持ちを害したようで、ミラは悲しげにオーリを見つめた。
「えっと……言いたいことがあるって言ってたね。なに? 聞くよ」
「聞いてくれるんだったら私を見て。さっきから心ここに在らずじゃないの。ずっとあの人を探してる」
「……ごめん」
「さっきは好きかって尋ねたけど、聞き方を変えるわ。あなた、あの方とデキてるの?」
「は? デキ? できてる!?」
オーリは仕事場の若い衆や、町の衛士達とも交流があるから、その手の話は聞いたことがある。男と女が何をするのかくらいは知っているし、そういう場所へ、誘われたこともある。
しかし、オーリは興味がなかったし、そんな話を極力避けてきた。
ユカリノのことは女性だと思っていても、《《そういうこと》》の対象とは思ってもいなかったのだ。
ましてやデキてる、などという下世話な言葉で、二人の関係を表したくはなかった。
オーリはもらった飲み物を一口含んだ。美味い。だが、甘ったるすぎる。
「どうなの?」
「……ユカリノ様をそんな風に見たことはないよ」
確かにそんな風に見てはいない。だけど、本当に本当か?
俺は、ユカリノ様のことが可愛くて、大切で、そして……。
「じゃあ私も言うわ。オーリが好き」
カップを置いてオーリを見上げるミラの目は、真剣だった。
「ずっと前からオーリが好きなの。ユカリノ様よりずっと長く見てきた」
「ミラ……」
オーリは初めて見るような面持ちで少女を見た。
「私の恋人になって」
「恋人……?」
その言葉をオーリは知らない。
いや、言葉としては知っている。けれど、自分と結びつけて考えたこともなければ、口に出したこともなかった。
「オーリ以外の人は皆知っているわ。私があなたのことを好きだって」
「好き……俺、誰かに、そんなこと言われたことなくて……よくわからない。ごめん」
「そうよね」
ミラはやれやれという風に両手を上げた。
「私だけじゃないのよ、オーリを好きな子は。施設や市場、酒場の女の子も、オーリのこと好きだった。恋人になりたかった。でも、オーリがユカリノ様のことしか見てないから、諦めちゃっただけ。そんなこと知らなかったでしょ?」
「……」
沈黙は肯定だった。不意にミラが顔を上げる。その視線の先に、こちらを見つめるユカリノの姿があった。
「オーリ、私の恋人になってくれる?」
ミラはユカリノに聞こえるように言った。
「ごめん……俺、そんなこと考えられない。ミラのことは好きだけど……わぷ!」
ミラが強引にオーリの首に抱きつき、口づけたのだ。
「な、なに……何を!?」
「ごめんね。私、本当は振られるってわかってた。でもどうしても、伝えたかった。ずっと一緒だったし、親を亡くして泣いてた私をいつも慰めてくれたし」
「ミラ……」
「困らせてごめんなさい、オーリ兄さん。本当に好きだったの。だから一度だけ許してね」
そう言ってミラは、もう一度オーリの唇に自分のそれを重ねた。それはふた呼吸ほどの出来事。そしてゆっくりと離れていく。
オーリは自分の頬が熱いことがわかった。
「これで諦める。ありがとう」
「ミラ……俺は」
「いいの。でも悪いと思ってるんなら、今から私がいいと言うまで、ここを動かないって約束してくれる?」
互いの吐息がかかる距離で、ミラはオーリを見つめた。
「多分、絶対動きたくなるだろうけど、絶対にしないって約束して。そんなに長い間じゃないから、ここで見ていて」
「わ、わかった。約束する」
ミラの勢いに、オーリは頷くしかなかった。
勢いよく立ち上がり、歩き出すミラの背中を、オーリはぼんやり見送った。しかし、その向こうに限りなく慕わしい姿を見つける。
「え? え?」
ミラは、ユカリノと向き合い、ユカリノはオーリを見ていた。
二人の視線が絡む。
「ユカリノ様! さっきは失礼しました!」
人通りがある往来の中で、ミラの声はなぜか大きい。
「ユカリノ様は悪霊をやっつける、大変なお仕事をされているんですよね? ヤマトでしたっけ?」
「それしかできないから」
ユカリノは、布をたっぷり使った、ミラのエプロンやスカートを見下ろした。
「お願いがあるんです。こんなこと言ってすみません! でも、どうしてもお伝えしたくて! あの、オーリを危険なお仕事につきあわすこと、やめていただけませんでしょうか?」
向こうではオーリの腰が浮いている。今にも飛び出してきそうな様子だが、なぜか動かない。
オーリ……。
ユカリノは見てしまった。オーリがミラと仲良く語り合い、口づけをしたところを。
「ユカリノ様のおかげで、この街が悪霊から守られてるってことは知ってます。町の人も感謝してます!」
「感謝?」
「ええ、感謝! でも、同時に怖いとも思っているんです」
大きな外套を羽織ったユカリノに、畏怖の視線を向けるものはいない。しかし、ミラの瞳は、ユカリノの切長で大きな黒い瞳を、しっかり見つめていた。
「私が怖い?」
「ええ。だって、お顔立ちや御髪の色、瞳の色も、私たちとは違うでしょう?」
「確かにそうだ」
ユカリノは被っていたフードを跳ね除けると、外套をするりと脱ぎ落とした。
途端に傍を歩く人々の足取りが乱れる。
「……っ! こ、こんなところに」
「ヤマトのお方……」
慌てて礼をして急ぎ足で去って行く者。目が合わないように、顔を背ける者。反対に物珍しそうに足を止めて見つめる者もいる。
今までにも時々町に来ていた。だが、ユカリノが出向くのは、ほとんど役所の別館がある東の門の周辺ばかりで、必要な物資があれば、イニチャに前もって揃えてもらっていたから、市場に顔を出すのは数年ぶりなのだ。
だからインゲルの町の人々のほとんどは、ユカリノに免疫がない。
これが現実だ……。
ユカリノは真珠のような歯を食いしばった。
端正な眉に表情はない。オーリの方を見ると、必死の形相で首を振っている。その腕はユカリノへと伸ばされて、なのに足が動かない。
そして、ミラもユカリノを見つめていた。
この人、すごく綺麗だ……。
でも、私たちとは明らかに纏う雰囲気が違う。ずっと前から知ってるのに、どう見たって、私と同じ歳にしか見えない。
やっぱり異質。化け物をやっつけるのは、異質な存在なんだ。
「……わかった、ミラ。オーリに話してみる。確かに私の仕事は危険なものだ」
「ありがとうございます! でも、私たち感謝し、尊敬していることは本当なんです。ただ……」
「オーリを危険に巻き込みたくないのだろう?」
「そうです! わかってくださるのですね!」
「私も同じだ。彼は私の……」
ユカリノの声は、自分でも驚くほど感情がこもっていなかった。
「弟……みたいなものだから、本当は戦わせたくはない。申し訳ないと思っている」
ユカリノは、今にもこちらに駆けてきそうなオーリを見つめたまま呟く。ミラはユカリノが落とした外套を拾ってかけてやる。
「あなた達、本当によく似てるわ」
「似てる? 私達が?」
「なんで謝るんです? 意地悪してるのは私なのに。オーリもあなたも、我慢ばっかりして、おかしいったらないです! オーリを危険な目に合わせたくないのは本当だけど、選ぶのはオーリ自身だってことくらい、私にだってわかります」
「……ミラ?」
「ユカリノ様、オーリをよろしくお願いします。意地悪言ってごめんなさい。じゃあね、オーリ! もう動いていいわよ!」
ミラはそう言うと、後も見ずに駆け去っていった。
「ユカリノ様!」
オーリは三歩でユカリノまでたどり着いた。周りの人が驚いているが、オーリにはユカリノしか見えていない。
「ミラが何を言ったか知らないけど、気にしないでくださいね! いい子なんですけど、ちょっと考えなしなとこあって……」
「口づけ」
「え?」
「あの子と口づけしてた」
ユカリノは深くフードを下ろした。
「ちょっ……! こっちへ」
オーリはさっきまでミラと座っていたベンチにユカリノを導く。ユカリノは素直に手を引かれてついてきた。
「さっきのはね、ミラが勝手にしたんです。ミラが俺を好きだと言って、俺がびっくりしているうちに……だから」
「オーリ、わかってやれ。ミラはお前のことが好きで、心配している。だから私に危険な目に合わせるなと言った」
「俺はなんとも思いません。ケガレが怖いんだったら、最初から一緒に戦わない」
「ああ、そうだな。ミラもそう言ってた。私たち二人よりも、ミラの方がずっと賢くて大人だ」
「俺たちは、まだまだなんですか?」
「ああ。まだまだだ。私もお前も。だから」
「ええ」
「一緒に来てくれるか? オーリ」
「もちろんです!」
二人は同時に笑った。それから、二人はもう人目を気にしないで買い物を続けた。
「食い物買ってきます。あっ、それから甘い飲み物も。さっきミラに奢ってもらっておいしかったんですよ! そっちのベンチで待っててください!」
「わかった」
結局、俺の中では、なにもはっきりさせていない。
駆け出しながら、オーリは思う。
ユカリノが好きかと聞かれ、曖昧な返答しかできなかった。そしてミラに好きだと言われても、何も返してやれなかった。
結局俺は、自分の気持ちに踏ん切りをつけてない、つけられないだけの弱い奴なんだ。
いくらユカリノ様と一緒にいたいと思っていても、ひたすらケガレと戦うあの方に、邪な気持ちを抱くのはいけないって、必死で自分を縛っている……。
「オーリ、タレが垂れている」
串焼き肉を持ったまま、固まってしまったオーリの傍にいつの間にか寄ってきたユカリノが、オーリの手から直接肉を齧った。
普段の立ち居振る舞いは洗練されているのに、時々猫のように気まぐれなことをする。
「あっ、すみません! ど、どうぞ」
「嫌だ。タレがつくからオーリが持っていて。そのまま齧る」
「もう、行儀が悪いですぅ」
オーリは敢えて明るく笑った。
ずっと年上なのに、子どもっぽい仕草を見せるユカリノに、胸がずくりと疼いていることに封をして。