第12話 14歳の日常 3
ある日の午後。
いつものようにユカリノの守屋に行こうと、東の門を出ようとしたオーリは、役所の前に佇むイニチャに声をかけられた。
「よう、オーリ。今日も行くのか?」
「行くよ。どうして?」
「いや、俺んところに知らせが来たんだ。あまりないことなんだが」
「知らせ? なんの?」
「来るんだ」
「来る?」
「うん。えっと……今まではユカリノが出向いていたんだけど、今回は向こうからやって来るっていうんだよ」
「だから何が来るのさ!」
いつになく要領を得ないイニチャの様子が、オーリを不安させる。
「だから使者だよ。神聖セルヴァンテの」
「神聖セルヴァンテの使者?」
「そうだ。今、ユカリノのところにいる」
「今!? じゃあ、すぐに俺も行く!」
「いや、その……お前が行くと、ややこしいことになるかもしれないから、今日はやめといたほうがいいと思ってさ。わざわざここで待ってた」
「ややこしい? とにかく行く! 止めるなよ、イニチャさん」
「……そうかぁ。まぁ、お前ももう、かれこれ六年ユカリノ様のところに通っているんだもんなぁ。そろそろ知ってもいい頃合いかもしれん」
「なにをさ!」
オーリは、はやる気持ちを抑えて尋ねた。
「ユカリノ様……というか、ヤマトのこと」
「ヤマトのこと」
ヤマト。
それはユカリノの仕事であると同時に、彼女の民族の名称でもある。
今までにもその民族のことについて、尋ねたことはあったが、ユカリノがあまり話したくなさそうだったので、オーリは尋ねるのをやめた。
彼にとっては、ユカリノと過ごせる時間が最優先だったからだ。
ユカリノ様が何者でも構わない。
オーリはそう思っていた。
「教えてもらうんなら、ユカリノ様に直接尋ねる。ユカリノ様が話したくければ聞かない」
「やれやれ、お前らしいよ。なら、聞けることは全て聞いてこい」
「ああ」
「だがな、お前のことは何も喋るなよ。ただの町の子でいるんだぞ」
「……」
オーリは頷いた。
イニチャが何を言わんとしているか、わかったからだ。
異形の肌のことだ。
イニチャは、神聖セルヴァンテの下っ端役人である。
しかし、権力に媚び諂う様子のない飄々《ひょうひょう》とした中年男であった。
だから、誰もが遠巻きに尊敬するユカリノにも敬称はつけないし、セルヴァンテの指示をクソ真面目に遂行するわけでもない。要するに食えない男なのである。
そのことが却って、ユカリノが彼の言葉を信頼する根拠となり、オーリも同様であった。
「気をつけろよ」
イニチャに頷き返し、守屋への慣れた道を駆けると、階段の下に馬が繋がれていた。ユカリノは普段馬を使わないから、イニチャの言う、神聖セルヴァンテの使者の馬だろう。
ユカリノの家を訪うのは自分だけではないとは知っていたが、鉢合わせをするのは初めてだ。
オーリは急いで高床式の守屋の段を駆け上がる。
「ユカリノさまっ!」
そこには低い椅子に腰掛けるユカリノと、その前に立つ二人の男の姿があった。
一人はユカリノとよく似た服装の黒髪の男だ。彼は右腕がなかった。そしてもう一人は、長い衣をつけた眼鏡の男だが、顔は下ろした布で包み込まれていて、よくわからない。
「オーリか。今日は外してくれ。客人だ」
今日のユカリノは、やや疲れたように見える。二人の男は黙ったまま、オーリを眺めた。奇妙に肌が泡立つ雰囲気を感じ取り、少年の本能が警報を鳴らす。
何かすごく嫌な感じだ。
「ごめんなさい。お邪魔はしません。ここにいちゃいけませんか?」
「聞きわけてくれ。な? お願いだ」
「……っ!」
オーリの目が大きくなる。ユカリノに願われたことは初めてで、嬉しいよりも驚きの方が勝ってしまった。
「わかりました」
不本意だという表情を隠しもせず、オーリが部屋を出ていく。
「さて」
扉が閉まるのを確認して、ユカリノは二人の男に向き直った。
「失礼した。あれは町の子どもだ。私が珍しいのか、時々遊びにやってくる」
「お前が子どもをそばに置くなんて、意外だな」
隻腕の男が言った。
「別に置いているわけではない。立っていられると鬱陶しいから座ってくれ。もっとも椅子は二つしかないから、サキモリ、お前は床に座れ」
「ご挨拶だな。二年ぶりだというのに」
サキモリと呼ばれた男は、文句を言う割には素直に床に腰を下ろした。もう一人のフードの男は、いつもオーリが座っている椅子に静かに腰を下ろす。椅子はオーリが作ったものだ。
「あんたは少しは出世したのか? セルペス」
「出世していたらここに来ませんよ。出世したいとも思いませんし。私はヤマト達にこの薬を配り歩くことを理由に、旅ができるこの仕事を気に入っているのです。インゲルのイニチャとも気が合いますし」
言いながらセルペルはフードを下ろした。彼は眼鏡をかけている。
「まだ、下級神官のままか?」
「今年で八年目ですわ。ではユカリノ殿、今年もこれを」
セルペスは懐から小瓶を出すと、これまた自分で持ってきたガラスの杯に中身を注いだ。黒い液体は、とても飲み物の色ではない。
「相変わらず、気持ちの悪い色だ。まぁ、ある種の毒なのだから仕方がないか」
ユカリノは眉を顰めて杯を手に取ると、中身を一気に飲み干した。途端に顔色が悪くなり、ふらりと体が傾ぐ。サキモリが左腕だけで素早く支えた。
「……うう。年々酷くなる」
ユカリノは喘ぐように言った。同時に表の扉が勢いよく開く。
「ユカリノさまっ!」
陽に焼けたその顔は、今は真っ青で、サキモリの腕の中のユカリノを奪い返そうと、その腕を掴んだ。
「お前ら、ユカリノ様に何をした! ユカリノ様を放せ!」
「おっと、子どものくせに結構な力だ」
サキモリが低くつぶやく。しかし、彼はオーリの力では微動だにしなかった。腕力では敵わぬと見たオーリは、飛び退ってベルトの後ろに差した短剣の柄を握る。
「オー……よせ」
ユカリノは、サキモリの腕に縋りながらオーリを制した。
「ユカリノ様!」
オーリは男の腕にもたれるユカリノに駆け寄ったが、サキモリの動きの方が早く、さっと彼女を抱えて奥の寝間へと運び入れる。
一連の所作は、この出来事が彼らにとって、初めてではないことを示していた。
「心配ない。強い薬の影響を受けているだけだ。三日ほど寝ていれば治る」
サキモリは片腕で、器用にユカリノを寝床に横たえながら言った。
「気がついてはいたが……オーリ、私の言いつけを破った……な?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! でも、俺、ユカリノ様が心配で! とても帰る気になれなくてっ……」
オーリは涙目になって、青い顔のユカリノの手を握っている。指先が氷のように冷たい。
「何か欲しいものありますか?」
「ない……寝てれば治る。オーリ、悪いが少し一人にしてくれ。サキモリ」
サキモリは何も言わずに、オーリの襟首を掴むと、居間の方へと引きずっていく。
「ユカリノ様……余計なことしてごめんなさい……お願い! 俺を嫌いにならないで!」
「いいんだ……ありがとう。お前の気持ちは宝だよ」
そうして寝間の扉は閉ざされた。