第1話 オーリ 1
「待って! 待ってぇ!」
少年は、暗い夜の森の向こうへ走り去る、馬車の後を追いかけながら叫んだ。
「パリス! 待ってぇ! 行かないで!」
「いいんですかい? 旦那様は殺せとおっしゃってましたぜ」
御者が追い縋る少年を振り返る。
「そんな必要はない! 私がやらなくても、どうせあいつらに殺されるさ! 行ってくれ! 早くあの子の姿が見えないように!」
馬車の中の老人は御者を急かした。その顔は苦悶に満ちている。少年の声がここまで届くのだ。
「お願い! 置いてかないで! パリス!」
しかしどんなに走っても、八歳の少年の足が馬車に追いつけるはずもない。
意地悪に張り出した木の根に躓き、盛大に転がる。
「パリス! パリス——!」
額に血を流しながら叫ぶ少年の声は届かず、馬車の小さな灯りは、無情に小さくなり、森の闇へと消えた。
「パリス……どうして? お母さんのところに連れて行ってくれるんじゃなかったの?」
涙と血に濡れた顔で少年、オーリはよろよろと立ち上がる。
物心ついた時から、オーリが暮らしていた小さな小屋に、突然知らない男が来て、世話役のパリスに耳打ちをするのを見たのは数日前。
それからパリスは、オーリに荷物を見せ「お母様のところに参りましょう」と言ったのだ。
オーリは親を知らなかった。
住んでいるところからは、梢越しにお屋敷が見えたが、誰が住んでいるのかも知らない。たまに森を巡回する衛士を見かけたが、彼らは決してオーリに話しかけたりはしなかった。
時々衛士の子どもがオーリをからかいにやってくる。
誰にも顧みられない彼を馬鹿にするためだ。彼らはオーリに親がいないから、こんなところに放置されているのだと思っていた。
「くそっ! こいつ、強いぞ!」
「気味悪くて捨てられた子どものくせに!」
「いらない子のくせに!」
だが体格が良く、力も強いオーリは、自分より年上の少年たちをぶちのめすことができた。もちろん、自分も少しはダメージを受けたが、傷の治りは早いので気にもならなかった。
しかし、喧嘩に勝っても心は晴れない。
気味の悪い子。
いらない子。
わんぱく共の言うことは、全て的を射ていた。
オーリは、自分が存在してはいけないと思っている。
彼の首の後ろ、頚椎と心臓の上に、生まれた時から青灰色の硬い皮膚があるのだ。それはまるで爬虫類のようで、成長とともに、周囲の皮膚に引っ張られながら少しずつ広がっている。
以前の世話役が教えてくれた。
大昔、大地にまだ人間が少なかった頃、竜族と言われる異種族が、この大陸を支配していた。
竜族は強かったが数が少なく、どんどん増えた人間に狩られていった。最後の竜族の王は、人間を呪いながら死んでいったという。
しかし、生き残った竜族の中には人間とつがうものもあり、その血は薄まりながらも受け継がれた。
オーリの皮膚の硬い部分は、竜族の血の残り滓のようなもので、殺すと禍があるかもしれないと両親は恐れ、屋敷から離れた小屋に隔離されているのだと。
話してくれた翌日、その世話役はいなくなった。
新しい世話役は無口で、オーリをまともに見ようとはしなかった。
オーリは異形の皮膚を隠すため、人前では服を脱がない事を覚え、首が見えないよう、灰色の髪を背中まで伸ばした。
そして、いつも一人だ。
自分の生まれた国の名も知らなかった。書物が与えられなかったから、字も読めないし書けない。
少年の慰めは、広い裏庭で棒切れを振り回したり、樹木に登って風と戯れること。そして、獣や鳥の友だちと遊ぶことだった。
衣服は誰かの使用済みを与えられ、食事や風呂など、世話をする者はいる。しかしそれも、しょっちゅう顔ぶれが変わり、名前も偽名だった。だが、生きていくのに必要なことはしてくれる。
必要なこと。
オーリは自分に何が必要か、考えたことはない
たまに世話役の交代が途切れ、誰も来ずに食事が与えられない時があった。腹は減ったが、案外平気だったし、気を紛らわすために激しく動き回っても、あまり疲れない。
幼いオーリは、自分は一生このままで、誰にも顧みられることなく生きていくのだと思っていた。最後の世話役となったパリスは老いた男で、一番長く彼に仕えてくれた。
しかし、それも昨日までのこと。
今オーリは、右も左もわからず、月も星も見えない夜の森の中で震えている。
彼は置き去りにされたのだった。