エピソード4「分岐点」
あれから二年。私は『白百合と暁の王子』の世界に転生した公爵令嬢ルイーゼとして、地道な努力を続けていた。
「全く、こんなの何の役に立つというのです!」
家庭教師のラディスラフ先生の眉間の皺は、私が社交界の歴史よりもこの国の地理や主要貴族の経済状況に関心を示すたびに深くなる。
「先生、将来は王妃として国を支える立場になるかもしれないのですよ? 歴史も大事ですが、今の国の基盤を知ることはもっと重要かと存じますわ」
形だけ淑女の微笑みを浮かべながら、内心では『そんでどうせ婚約破棄されて追い出されるんやけどな!』と毒づいていた。
10歳で階段からすっ転んで以来、『アホらしい物語に抗う』という一大目標を掲げた私は、前世の知識とアラサーの危機感をフル活用して、破滅回避への道を模索してきた。まず手当たり次第に本を読み漁り、この世界の政治、経済、文化について叩き込んだ。公爵令嬢という身分は伊達ではなく、膨大な蔵書と優秀な家庭教師陣が揃っているのは非常にありがたかった。
そして、最大の転換点。
原作の物語では、12歳で行われる王子との見合い茶会で、腹違いの皇太子の母である皇后の差し向けた刺客に王子が襲われる。原作のルイーゼは恐怖で逃げ出し、それが王子との関係を冷え込ませる一因となる。
『ここが最初の分岐点だ』
そう考えた私は、逃げ出さないための手段を考えた。護衛はいるだろう。近衛騎士も駆けつける。しかし、原作では近衛騎士が間一髪だったという描写がある。その「間」を、私が埋めなければならない。
「……近衛騎士が到着するまで、なんとか私がその場をもたせるしかない」
アラサーの私が、12歳の子供の体で物理的に抵抗するにはどうすればいい?
「そうだ……剣や!」
閃いたのは、最も直感的かつ物理的な手段だった。公爵令嬢が剣術? と周囲は驚くだろうが、護身術としてなら通じるかもしれない。父上は私が望むことには甘い。頼み込めばなんとかなるだろう。
そして、私は懇願した。護身術を習いたいと。最初は乗り気でなかった父上も、私の熱意と、王族との婚約という立場を慮ってか、熟練の元騎士を師範として雇ってくれた。
それから二年。社交界デビューの準備と並行して、私は人目を忍んで剣を握った。最初はその重さに辟易し、体の節々が痛んだが、破滅ルート回避という強い意志が私を突き動かした。素早く動くこと、相手の動きを読むこと、急所を狙うこと。実戦で刺客を倒せるレベルではないが、時間を稼ぐ、相手を牽制する、隙を作る、あるいは防御する程度の技量は身についたはずだ。何より、極度の緊張下でも体が動くよう、訓練を重ねてきた。
そして、約束の12歳。見合いのお茶会の日がやってきた。
王宮の広間は、格式張った空気に満ちている。ドレスは豪華だが動きにくい。護身用具は……剣を仕込むわけにはいかないが、小型のナイフくらいならドレスの裏地に縫い付けてある。
通された部屋で待っていると、侍従に伴われて彼が現れた。
第三王子、アルフレッド殿下。
物語のヒーローであり、私の婚約者になる(そして破棄する)相手。
スラリとした容姿。整った顔立ちだが、表情は乏しい。紺碧の瞳はどこか遠くを見ているようで、目の前の私に対する関心は薄そうだ。原作通りの『他者への興味が薄い』王子。帝王学の塊といった雰囲気。
「ルイーゼ・フォン・ア〇〇〇〇〇〇ですわ。アルフレッド殿下にお目にかかれて光栄です」
用意しておいた完璧な挨拶を述べ、優雅にカーテシーをする。
「……ああ。ルイーゼ公爵令嬢」
王子の返答は短く、声にも抑揚がない。
侍従や侍女が紅茶を準備する間、沈黙が流れる。王子の視線はカップの柄に向けられているようだ。
(おいおい、マジで興味なさそうやな。これはこれで助かるけど……。まあ、今のうちに『友人』レールを敷いておくか?)
「殿下は、最近どのような書物をお読みでいらっしゃいますか?」
あたりさわりのない話題から入る。
「……国の歴史に関するものだ」
やはり短い返事。
「まあ! 実は私も最近、帝国の創世記について学んでおりましたのよ。特に、初代皇帝が制定された税制について興味深く……」
ちょっとでも共通の話題を、と頑張って話しかける。王子は少しだけ顔を上げた。
「……そうか」
また短い。
(あかん、これは無理や。会話続かへん。彼が心を許すのは、やっぱりあのヒロインちゃんだけなんやろな……)
内心ため息をつきながら、私は紅茶に口をつけた。まあ、いい。ここで無理に仲良くなろうとする必要はない。目指すは『友人』程度。あるいは、いざという時に足を引っ張らない、最低限の信頼関係だ。
その時だった。
「っ!」
部屋の空気が、一瞬で変わる。鋭い金属音。
背後から、悲鳴ともうめき声が上がった。
王子の護衛騎士が、何者かに斬りかかられている!
原作通りだ。来た。
数人の黒ずくめの人物が、窓から飛び込み、あるいは扉を破って部屋に乱入してきた。彼らの手には、鈍く光る刃が握られている。
王子の近侍が叫ぶ。「殿下を!」
原作のルイーゼは、ここで恐怖に固まり、逃げ出した。
しかし、今の私は違う。
「殿下! こちらへ!」
とっさに叫び、王子の腕を掴んでテーブルの影に引き寄せようとする。王子は一瞬驚いた顔をしたが、無抵抗で私の動きに従った。
刺客の一人が、私たちの方へ狙いを定めて突っ込んでくる。近侍が庇おうとするが、別の刺客に阻まれる。
(まずい! 近衛騎士はまだか!?)
恐怖は当然ある。体が震える。しかし、二年間磨いてきた危機回避の本能と訓練の成果が、私を突き動かす。
腰に隠したナイフを抜くのは躊躇われた。あれは最後の手段だ。
刺客の刃が、眼前に迫る。
「っ、はあああ!」
私は、二年間素振りを繰り返した右腕を、目の前のテーブルクロスごと相手に叩きつけるように振り上げた。剣術の師範が教えてくれた、相手の視界と動きを瞬間的に奪うための技。
ベテランの刺客には通用しないだろうが、一瞬でも、ほんの一瞬でも時間を稼げれば!
刺客は思わぬ抵抗に一瞬怯んだ。その隙を突き、私は王子の腕をさらに強く引き、別の家具の陰へと隠れようとする。
「グッ……!」
しかし、刺客の刃は私のドレスを掠め、僅かに左腕を切った。焼けるような痛み。でも、動ける。
「ルイーゼ公爵令嬢!」
王子の口から、初めて感情のこもった声が漏れた。驚きと、僅かな焦りのようなもの。
「殿下は下がって! 護衛の方々を援護します!」
何を思ったか、私は立ち上がろうとする王子をもう一度押しとどめ、傍にあった装飾用の騎士の槍(もちろん本物ではない、木製だがそれなりに重い)を掴み取った。
「ええいっ!」
剣術で鍛えた体幹を使い、木製の槍を精一杯振り回す。刺客の軌道を乱す、当たれば痛いが致命傷にはならない、時間を稼ぐための最善手だ。
槍が刺客の刃とぶつかり、鈍い音が響く。木製なのですぐに折れるだろう。だが、構わない。
「……っ、邪魔だ、この小娘が!」
苛立ちを募らせた刺客が、私を排除しようと再び刃を向ける。
その時だった。
「止まれ! 王宮近衛騎士団だ!」
部屋の扉がさらに大きく破られ、鎧に身を包んだ騎士たちが雪崩れ込んできた。
(よしっ! 間に合った!)
木製の槍を取り落とし、へたり込むようにテーブルの陰に座り込む。切られた腕がジンジン痛む。心臓はバクバクいっている。恐怖とアドレナリンで、全身が震えていた。
「ルイーゼ公爵令嬢!」
気がつけば、王子が私の傍に跪いていた。彼の紺碧の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。そこには、先ほどの無関心さは微塵もない。
「怪我を……」
王子の指が、私の腕の傷に触れようとする。
「いえ、大したことは……」
とっさに腕を引っ込めた。まだ混乱していて、彼に触れられることに違和感があったのだ。
近衛騎士たちが刺客を取り押さえ、部屋の制圧にかかっている。騒然とした空気の中で、王子と私は向き合っていた。
原作のルイーゼは、ここで逃げ出した。だから、王子の心に失望や不信感を抱かせたのだろう。
しかし、私は逃げなかった。いや、逃げるという選択肢は頭をよぎったが、それ以上にここで逃げれば破滅ルート一直線だという危機感、そしてほんの少しの『アホらしい物語に抗ってやったぞ』という反骨心が勝った。
結果として、私は怪我をしたが、王子は無事だった。そして、彼の私を見る目が、明らかに変わった。
(うわあ……これはまずいんちゃう?)
あれ? これって、婚約破棄して円満に別れるための『友人』ルートから、逆に『あれ? この子、案外面白い?』とか思われるルートに入っちゃったんじゃなかろうか?
「真実の愛」のヒロインが登場する前に、違う意味で王子の関心を引いてしまった?
うーん、まあ、でも、逃げ出して関係が冷え込むよりは、悪くないか。少なくとも、見下されることはないだろう。そして、この一件は間違いなく、公爵家にとって大きな功績となる。私の立場は盤石になる。
「……フッ」
気がつけば、私は小さく笑っていた。痛む腕と、未だ収まらない心臓の鼓動を感じながら。
「殿下、ご無事で何よりですわ」
改めて王子に微笑みかける。今度は、先ほどの社交辞令ではなく、本心からの安堵がこもっていた。
王子の瞳が、微かに揺れたように見えた。
『真実の愛』? 『アホらしい』物語?
関係ない。私の物語は、私が切り開く。物理のパワー(と、ちょっぴりの機転)でな!
今後の展開は、原作通りにはいかないだろう。
それは、喜ぶべきことなのか、それとも新たな破滅フラグなのか。
まだ分からない。
けれど、少なくとも、私は最初にして最大の分岐点を、『逃げない』という選択で乗り越えたのだ。
これから待ち受けるであろう波乱に、内心でツッコミを入れつつも、私は顔を上げた。




