第三章 キエ公の疑念
第三章 キエ公の疑念
夜の帳が王宮を静かに包み込む頃、書斎の重厚な扉が静かに開かれた。外套を纏ったキエ・エッシェンバッハ大公は、いつになく厳しい表情で室内を見渡す。かすかなランプの灯りが、深い彫刻の入った書架や重厚な机をぼんやりと浮かび上がらせ、書斎全体に薄暗い影を落としていた。
「……陛下。あなたは、まるで別人のようだ」
低く響く大公の声に、ミハアントニスは書見台に積まれた書類の山から顔を上げた。かつての怠惰な君主の面影はどこにもなく、瞳には強い意思と冷徹さが宿っている。
「……王家の血に、突如として理性が宿るなど――奇跡か、あるいは狂気か」
キエはひと息つき、重い革張りの椅子に腰掛けた。大公の眉間には深い皺が刻まれ、その声には警戒と戸惑いが入り混じっている。
ミハアントニスはランプの炎を一度見つめ、静かに口を開く。
「どちらでもいい。国が壊れている。収支のバランスは崩壊寸前だ。貴族は税を懐に入れ、庶民は飢えと重税に喘ぐ。今、改革を始めなければ、王政どころか国家そのものが瓦解する」
書斎の空気が一瞬、凍りつく。キエは眼鏡越しに王を見つめ、その言葉の重みを噛み締めているようだった。
「……改革をすれば、必ず敵を作ります」
キエの声は低いが、確かな響きを帯びていた。数々の戦役と政変をくぐり抜けてきた彼の言葉には、重みがある。
「覚悟している」
ミハアントニスは、書類の上にそっと手を置いた。そこには新たに起草された税制改正案、貴族特権の一部剥奪に関する覚書、官僚機構の刷新プランなど、数えきれないほどの改革案が並んでいる。王としての権威を振りかざすのではなく、冷徹なデータと論理を武器に、腐敗した仕組みを根底から変えようという決意が、ページの隅々にまで刻み込まれていた。
「私は、これらを実行に移す。キエ公、あなたにはその“盾”として、私の意志を護ってほしい」
大公はしばらく黙したまま、王の手元に視線を落とす。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「陛下の覚悟、確かに受け止めました。しかし――」
言葉を切り、大公は立ち上がる。書架の影から取り出したのは、古びた軍用地図と、先代王時代の極秘報告書だった。
「これは、先代王の時代にまとめられた南東辺境の防衛強化計画です。当時、私はこの計画の策定に深く関わりました。地形分析、敵勢力の動向、住民保護のシミュレーション……すべてを尽くして練り上げたものです」
キエは地図を広げ、赤い印と青い線が入り乱れた図面を指で辿る。
「しかし、実際に執行されたのはその一割にも満たない。貴族たちの思惑、財政難の言い訳、官僚の怠慢……様々な理由で、計画は改竄され、机上の空論と化した。あの時、私は王に直訴しましたが、耳を貸されることはありませんでした」
大公の声音には、かつての苛立ちと失望が滲んでいた。ミハアントニスは黙ってそれを聞き、やがて静かに頷く。
「キエ公、その失敗を繰り返すつもりはない。私は既存の計画を尊重しつつも、必要ならば根本から見直す。貴族の圧力も、官僚の抵抗も、すべて排除する。だが、そのためにはあなたの力が必要だ」
王の言葉に、書斎の空気が再び動く。キエは地図をたたみ、深い息をついた。
「……陛下。あなたの言う改革が真に国を思ってのものならば、私は喜んで盾となろう。だが覚えておいてください。盾は時に、剣にもなる」
その言葉を最後に、キエは鋭い視線を王に向けた。その瞳には、忠義だけでなく、これから訪れるであろう苦難への覚悟と覚悟に伴う不安が交錯している。
ミハアントニスは静かに立ち上がり、机に向かって一礼した。
「共に歩もう、キエ公。王と大公――この国の未来を賭けた、新たな同盟を」
書斎のランプは、二人の影を長く伸ばした。夜の静寂の中、王と大公の新たな誓いが、ひそやかに交わされたのだった。