目覚めたら王様でした(しかも最悪の)
第一章 転生と沈黙
鯨岡壮児は、自分が「目覚めた」瞬間を、今も鮮やかに思い出せる。
それは地下鉄のホームだった。夕方のラッシュ、疲労の滲んだアナウンスと、何か焦げたような匂いが漂っていた。混み合う人波の中、誰かが倒れるのが見えた。ただの体調不良か、あるいはもっと――。彼は自然に、その人へと駆け寄った。何のためらいもなく。医師ではないが、彼は手当たり次第に応急処置を身につけていたし、何よりも、そうせざるを得なかった。
しかし――次の瞬間、彼の視界は白く塗りつぶされた。
目を開けると、そこには絢爛たる天蓋付きの寝台。黄金の彫刻が施された柱、手触りの柔らかすぎる絹のシーツ。そして、全身を包み込むような温もりと香り。
まるで芝居のセットのような部屋に、最初は現実感がなかった。
「お目覚めでしょうか、陛下」
耳元で囁く声。振り返ると、初老の男が恭しく頭を垂れていた。医師のような白衣姿だったが、その態度はあまりに丁寧すぎる。戸惑いを隠せずにいると、さらに数人の男たちが控えの間から現れた。皆が膝をつき、沈黙の礼を捧げている。
「なにこれ……夢か?」
呟いた声が、部屋の静寂に吸い込まれていった。
彼は立ち上がろうとした。身体は思ったよりも重くなかった。ただ、何かが違う。腕の長さ、視界の広さ、微かに響く声のトーンさえ、自分のものではないような気がする。
何かが抜け落ち、そして何かがはまり込んだような感覚――。
しばらくして、部屋の片隅にある大きな鏡の前に立った。
そして、見たのだ。
鏡に映るその顔は、自分が知っている鯨岡壮児のものではなかった。東洋人特有の面影はどこにもなく、代わりに彫りの深い顔立ち、栗色の髪、そして薄青の瞳――。
「……これは、死んだのか?」
声に出してみる。響きは滑らかで、それでいてどこか気品がある。いや、死んだかどうかなど、今はどうでもいい。もっと重要なのは――
「この立場か」
貴族たちの呼称、医師の言葉、そして鏡の中の衣装や装飾が、徐々に意味を帯びていく。彼が今、憑依している存在、それはこの国の王。
ミハアントニス・テ・ハムショウ。
ドルー王国の君主にして、世継ぎなき孤高の王。
だが、国民の間での評判は最低だった。
“寝取り王”――複数の貴族令嬢に手を出したとされる醜聞。
“増税王”――民の暮らしを顧みず、重税を課した過去。
“改悪王”――制度改革を謳いながらも、失敗続きの政策。
名目上の地位は「国王」でも、実態はすでに形骸化していた。
貴族たちは私腹を肥やすことしか考えておらず、庶民の不満は日増しに高まっていた。王宮を取り囲むのは高い城壁と鋼鉄の門だが、それすらも暴徒の火によっていつ崩れるかわからない。
それでも、王政がいまだに続いているのは、ただ一人の存在によるものだった。
キエ・エッシェンバッハ大公――。
ドルー王国随一の名家にして、先代王にも仕えた名臣。軍事と行政、双方において非凡な才能を持ち、今や実質的な統治者とも言える存在。
“王室の盾”と呼ばれ、その統制力と実行力は国内外に知られていた。
――だが、果たして彼は味方なのか?
鯨岡は、というよりミハアントニスとしての彼は、ベッドの端に腰掛けてじっと思案した。
鯨岡壮児は、もともと物語や政治に興味があった。大学では現代史を学び、古代政体から近代憲政に至るまでの転換を好んで研究していた。そうした背景もあって、今のこの状況を冷静に受け止めようとしている自分がいる。
「キエ公……」
口に出してみると、その響きには威厳があった。
「俺は……この国を変えられるか?」
その問いは、誰に向けたものでもなかった。けれど、心の奥底で何かが静かに応えた。
――お前ならば、可能だ。だが、それには覚悟がいる。
変革とは、血と犠牲の上にしか築けぬもの。
この地の人々は、もはや理性や論理では動かない。彼らの「王」たるには、ただ優しさや理想では足りないのだ。
過去の王が滅びたのは、信を失ったからではない。力を示すことを恐れ、決断を先延ばしにしたからだ。
鯨岡は立ち上がり、深く息を吸った。
目の前には、地図のように広がる世界がある。
剣と策謀、忠誠と裏切り、革命と反動。
現代日本の倫理や価値観は、ここでは何の盾にもならない。
だがそれでも、心のどこかで燃え上がる想いがある。
「やってやろうじゃないか、王様として」
彼は、もはやただの傍観者ではない。歴史を、運命を、己の手で書き換える覚悟を――いま、静かに胸に灯した。