顔が好きだから、多分絆されている
鼻腔を通って伝わる薔薇の甘い香りに誘われ、鉛の如く重い瞼を開けた先に見えたのは真っ白な天井。顔を左右に動かすと見覚えの有りすぎる室内が映り、小さく溜め息を吐いたヴァレンティーナは上体を起こした。気を張って起きる必要がなくてホッとしたのも束の間、扉がノックの後開けられた。
入って来た相手を見てげんなりとなりそうだった。プラチナブロンドの癖っ毛に美しい湖を思わせる水色の瞳が冷たくヴァレンティーナを射抜いていた。
「おはよう、ヴァレンティーナ」
「おはようございます、旦那様」
彼はマルクス。ヴァレンティーナの夫。
とは言っても名ばかりの夫婦だ。
「昨日のような失態は二度と晒すな。解ったら、今日はゆっくり休むといい」
夫マルクスとは政略結婚。代々魔法研究に勤しむヴァレンティーナの実家ヴィスコンティ侯爵家の力を欲したマルクスが侯爵に自分を売り込み婚約が成立した。マルクスは優秀な魔法使いで、研究の手伝いと多額の資金援助を理由にヴァレンティーナと婚約後、ヴィスコンティ家の魔法研究を大いに活用して帝国魔法使いとして活躍している。
――やっぱり格好いいわね、マルクス。
メディチ公爵家の嫡男として、更に絶世の美貌を持つ女性と持て囃された義母の美しさをそのまま遺伝子が取り込んだからか、マルクスの美貌は帝国一。そんな彼に好意を寄せる女性は数多くいた。
ヴィスコンティ家にいた頃は早く家を出たくて仕方なかった。自身は父の愛人の子で、母を心の底から愛していた父は自分を産んで体を壊し、母が亡くなると憎悪の目で見るようになり。本邸で暮らすようになっても本妻や本妻の子供から虐めを受け、無論使用人達にも虐められた。どこにも居場所は無かった。部屋に閉じ込められ、数日食事を抜かれる事も多々あった。自分を引き取った父は多少愛情は残っていたようで、死にかけたヴァレンティーナを発見してからは本妻と子供を近付けさせないよう専属侍女を二人つけ、以降は本妻と子供を離れに住まわせ両者の接触を絶たせた。
普通は愛人の子であるヴァレンティーナを離れに住まわせるべきだと本妻が吠えていたのを覚えている。ヴァレンティーナも同意見だ。
年頃になると父から婚約者が出来たと告げられた。それがマルクスだ。夜会でヴァレンティーナを目にした時から一目惚れしただのなんだのと口説き、自分の優秀さを売り込んで婚約者になった訳だが――はっきり言ってマルクスはクズだ。
――私に惚れた、なんて嘘。マルクスには愛する女性がいる。
マルクスの幼馴染で儚い見目とあまり表に出て来ない事から『妖精姫』と呼ばれている。
定期的に開いたお茶の席にマルクスが座ったのは何度で、幼馴染の都合でキャンセルすると使いの者がお詫びの品と一緒に頭を下げに来たのは何度で、結婚してからも度々幼馴染が訪問してはヴァレンティーナを放置したのは何度あったか。
マルクスが言った昨日の失態。
昨日は今朝から珍しくマルクスが昼に出掛けようと誘ってきたのでヴァレンティーナは気合を入れてお洒落をした。なのに、出掛ける間際になって幼馴染が突然訪問した。折角だから彼女も同行させると言い放ったマルクスに今まで溜めていた鬱憤が爆発し、事前の報せもなく訪れた幼馴染を罵倒すると激怒したマルクスに頬を打たれた。打たれた際に体勢を崩し、頭を打ってしまった為さっきまで眠っていた。
頭を打ったお陰か、マルクスに抱いていた好意がすっかりと亡くなっている。姿を見ると感じる愛おしさは多少あれど、謝罪もせずヴァレンティーナが悪いと言う彼にはもう愛想が尽きた。
はあ、と溜め息を吐き何かを言い掛けたマルクスの声を遮って離縁を要求した。
「は?」と一瞬呆けたマルクスに更に言葉を紡いだ。
「離縁です、離縁」
「何を馬鹿な」
「昨日のあれでよおく分かりました。旦那様、お互い自分の気持ちには正直になりましょう。旦那様はマルガレーテ様をお好きなのでしょう? でもヴィスコンティ家の魔法研究が欲しいが為に私と結婚せざるを得なかった。違います?」
「そんな訳あるか、私は確かにお前を愛している」
「反吐が出るわ」
ベッドから離れ、吐き捨てるように言葉を放ち下からマルクスを睨んだ。
「愛している? 散々マルガレーテ様を優先して茶会をキャンセルし、夜会でもマルガレーテ様を見つけてはファーストダンスを踊り終えたらすぐに向かって、昨日だって急にやって来たマルガレーテ様を同行させる? ふざけるのも大概にしてください」
「マルガレーテが急に来たのは私も想定外だった。勝手に同行させようとしたのは謝る。だがあのまま帰す訳にはっ」
「言い訳は結構。貴方にはほとほと愛想が尽きました。さっさと離縁の手続きをしてください」
起きたからには人間活動をしないと何も始まらない。先ずは侍女を呼んで朝の支度を済ませ、朝食を食べたらすぐに荷物を纏める準備に入る。頭の中で計画を立てながらマルクスの横を通ると腕を掴まれた。げんなりとした顔で振り向くと美しい相貌には強い焦りが出ていた。
「待て、待ってくれ、済まなかった、今までの事を全て水に流せとは言わない。もうマルガレーテが来てもヴァレンティーナを必ず優先するから」
「信用しません。だって旦那様、過去に私が何度もマルガレーテ様ではなく私をと言っても聞く耳を持たなかったではありませんか」
「悪かったっ、ただマルガレーテとは昔から付き合いがあるから……」
「だから何ですか、一目惚れしたと言う割に私は放置して冷たくして、マルガレーテ様にはとってもお優しくて。馬鹿にするのも大概にして」
「ヴァレンティーナっ」
離縁を要求してからのこの態度。ヴァレンティーナは自分を愛しているから何をしても決して離れないと高を括っていたのだろう。ヴァレンティーナを馬鹿にし過ぎだ。確かに実家に帰っても居場所はなく、他に行く所がないヴァレンティーナが離れて行くとは考えない。人間その気になればどうとでもなる。
幸いにもヴァレンティーナには魔法使いの才能や魔法研究を手伝っていたのもあり魔法は得意だ。帝都にある組合に行けば一人で生きていけるくらいなら可能だ。
マルクスの手を振り払い、制止の声を聞かずヴァレンティーナは部屋を出た。
早速、脳内で組み立てた計画を実行した。その後は何度も声を掛けて来るマルクスを徹底して無視し続け、侍女に鞄を用意させた。何に使うのかと訊ねられるも上手くはぐらかし、必要最低限の物を詰め込んだ。
亡くなった実母が愛用していた手鏡、友人の刺繍入りハンカチ、愛読書、自分で着用可能な服を数着と下着類、それとお金。メディチ家では好きに買い物をしろと言われたが物欲も無ければマルクスとマルガレーテの仲良しこよしを見続けて自分を着飾るのも馬鹿らしくてあまり買っていない。公爵夫人のお小遣いとして毎月一定の金額を渡されていたのでこれを持って行く。
荷物の準備が終わるとマルクスが飛び込んできた。
「ヴァレンティーナ、頼むから機会をくれ」
「離縁を要求されてそんなに慌てるなんて、お父様には私達夫婦は仲が良いとでも言ってましたの?」
「い、いや、普通としか言ってない」
「なら、離縁の理由は旦那様のお好きなように。ヴィスコンティ家に戻るつもりはないのでさようなら」
「ヴァレンティーナ! お願いだから、少しだけ猶予をくれ! これからは絶対にマルガレーテを――!」
「貴方への愛はもう尽きたの。離縁を要求されてから慌てるなんて意味不明よ。さようなら、マルガレーテ様とお幸せに」
本当はもっと言いたい言葉は沢山あるのだがメデューサに睨まれたかのように固まったマルクスを見て少しは溜飲が下がり、今の内だと鞄を持って部屋を出た。擦れ違う使用人達に怪訝な目で見られ、玄関に着くと家令が慌ててやって来た。
「奥様、一体何方へ」
「お世話になったわ。今までありがとう。マルガレーテ様が新しい公爵夫人になるから、これからは仲睦まじい公爵夫妻が見られるわよ」
「え? そ、それはどういう」
これ以上留まっていたらマルクスが来ると思い、清々しい笑顔で「さようなら」とヴァレンティーナはメディチ家を出て行った。
――これが二ヵ月前の話。現在は帝都で一番大きい組合に登録をして魔法使いとして働いている。
……が、主な仕事内容は全て実家ヴィスコンティ家からの依頼を請け負うこと。どれも簡単で危険がない仕事ばかり。魔道具の修復や帝都の外に森に生えている薬草の採取、魔法薬の調合等。離縁を要求して勢いのまま飛び出し、勢いのまま組合に来て登録を済ませた数日後にヴィスコンティ侯爵からの指名の仕事が入ったのだ。最初は何の冗談かと思ったものの、きっと離縁についてマルクスから話がいってヴィスコンティ家の娘なのに組合で働くようになったヴァレンティーナへの嫌がらせに違いないと思った。が、どうも違う気がする。依頼を達成すると報酬と手紙を毎回渡される。
最初の手紙は『離縁は許可する。組合で働く事も許可する。但し、ヴィスコンティ家の依頼のみを受ける条件でだ』とだけ書かれていた。その後は依頼品の感想ばかり。
一体何がしたいのかと首を傾げながらも、条件を断れば無理矢理ヴィスコンティ家に連れ戻されると危惧し、応じている。
更に組合に来て一週間後にマルクスがやって来てはメディチ家に戻って来て欲しいと訴えて来る。最初は聞く耳を持ちたくなかったヴァレンティーナも、あまりにしつこい為三週間目で話だけは聞くようになった。頬を打った際に体勢を崩し、頭を打った事をそこで謝罪された。テーブルに額を擦り付ける勢いで。今更不要だと突き放しても何度でも謝りそうなマルクスを予想して謝罪は受け入れた。
但し、二ヵ月経過しても諦めを見せないマルクスに呆れながらも、目の前で昨日の生活の話をするマルクスを見つめた。
――顔だけはすごく好きなのよね……
マルクスの好きなところは何かと問われると真っ先に出る回答だ。中身は後々知って好きになっていけばいいと気楽に考えていた頃の自分を殴りたい。一目惚れをしたと言いながら幼馴染の令嬢を優先する最低男。だが此処に来てからマルガレーテの話は一切しなくなった。自分とのやり直しを希望するのにマルガレーテの話をしたら終わりだとマルクスも解しているのだ。
「離縁は何時してくださいますか。お父様からは離縁を許可すると」
「絶対に離縁だけはしないとヴィスコンティ侯爵には言っている。ヴァレンティーナに許してもらうまで何度だって此処に来る」
「十分に生活出来ているのでお気になさらず」
「……ヴァレンティーナに一目惚れしたのは本当なんだ」
「で?」
「…………でも、いざ顔を合わせると何を言えばいいか分からなくなって。マルガレーテは子供の時からの付き合いだから……」
「楽で良いですわね」
無言になったマルクス。取り敢えず、一目惚れなのは百歩譲って認めるとしても一緒にいるのが楽な幼馴染に流れては無意味だ。嫌味のようにマルガレーテと再婚したらいいと告げても嫌だと首を振られた。
「必ず、ヴァレンティーナに好きになってもらうようにする。信じてくれ」
「そうですか」
「ヴァレンティーナ……」
しょんぼりと俯き、悲壮感を漂わせるマルクスを周囲の人達は哀れみを込めた眼を送っていた。二人がいるのは組合に設置されているカフェ。約二ヵ月毎日ヴァレンティーナに会いに来てはやり直しを希望するマルクス。初めの頃は女性陣から大ブーイングの嵐を受けていたが最近は同情されている。
小さく溜め息を吐いたヴァレンティーナは置かれたジュースを飲んだ。
きっと半年経とうが一年経とうが何年経とうがマルクスは諦めない。その時自分はどうするか。
――多分、絆されてマルクスと帰るのかしら。
何だかんだ言いながらもマルクスの顔は好きだ。毎日長時間理由もなく見られる今が一番幸せな気がする。
絆されて一緒にメディチ家に戻る自分を想像したヴァレンティーナは、悪くないと思うのだった。
読んでいただきありがとうございます。