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温室のガラス壁の向こうには、未だに二羽のアゲハ蝶が飽きもせず青空を舞台に優雅に舞っている。暑くないのだろうか?ちゃんと水飲んでる?
得も言われぬ変な空気に耐え切れなくなったテルミィは、極めて不必要なことを考えてみる。
そんなふうに意識をよそに飛ばしていたら、ルドルクが顔を覆っていた片手を外した。
「す、すまない」
「い、いえ」
心の底から反省しているルドルクの声に、テルミィは慌てて「お気になさらず」と付け加える。
人見知りが激しく、自分の気持ちすら満足に伝えることができないテルミィにとって、これは飛躍的な一歩である。
だがルドルクは、ギロリとテルミィを睨み付けた。
「気にしろ。本気で気にしてくれ」
「は?」
人の好意を踏みにじったルドルクに、テルミィは傷付くよりポカンとしてしまう。
そんなテルミィの間抜け面を一瞥したルドルクは、空いている方の手をテルミィの頬に添える。
「すまないと言ったのは、自分の気持ちを伝える前に、相手の気持ちを聞こうとしたからだ」
「……っ……」
「テルミィ、俺はお前のことが好きだ。自由を得るための領主婚の相手がたまたま俺だったとしても、この気持ちは間違いなく同情や憐みなんかじゃない。一人の女性として、お前を好いている」
ルドルクの形の良い唇が紡ぐ言葉が耳に入るたびに、テルミィの胸に生まれて初めて覚える感情が広がる。
これまで与えられてきた温もりや労りとは違う、彼にしか生まれない特別な想いだ。
テルミィは気付けばルドルクの袖をギュッと掴んでいた。
「わ、わたし……わたし……」
胸に溢れる感情を伝えようと必死になるテルミィを、ルドルクはどう受け止めたかわからない。
ただただ、静かに抱きしめた。
テルミィの頭と背を抱え、しっかり己の胸に抱き込んだルドルクは、小さな耳にそっと唇を寄せる。
「お前はずっとここに居るんだ。いいな?」
「……はい」
「逃げ出しても捕まえるからな」
「に、にげませんよぅ」
「よし」
温もりと暗闇の中、満足そうな笑い声が降って来たと思ったら腕を解かれ、テルミィは自然とルドルクと目が合った。彼のアメジスト色の瞳は熱を帯びていた。
「……テルミィ」
「はい」
「もっとお前に触れていいか?」
これ以上無いほど密着している状態なのに?と訊こうと思ったテルミィだが、嫌と言ったら死んでしまいそうなほど切羽詰まったルドルクの顔を見てしまったら、口にできる言葉はこれだけだ。
「……は……い」
小さく頷いた途端、ルドルクはテルミィの頬に手を添える。
大きく節ばった彼の手には剣だこがある。それが頬に当たって、少しくすぐったい。
もっと強く触っても大丈夫ですよ──そう言おうと思った時には、もうルドルクの顔が間近にあった。
彼は瞳を閉じていた。テルミィも慌てて目を閉じる。なぜかそうしなきゃいけないような気がして。次の瞬間、唇に何かが触れた。
指より柔らかく湿っていて温かいそれが何なのか……薄目を開けたテルミィは驚愕した。ルドルクの唇と、自分の唇がくっついていたのだ。
「……甘い」
うわ言のように呟いたルドルクは、もう一度テルミィに口付けを落とす。
触れるだけのそれは何度も角度を変え、テルミィはされるがままギュッと目を閉じる。
──し、心臓が……爆発しちゃう……!!
今、自分の身に何が起こっているのか、冷静に分析できるわけがない。
姉の友人である貴族令嬢から吹き込まれた知識は、もっとえげつないものだったから間違いなく役には立たないだろう。
しかしながら、こんなにドキドキしてアップアップな状態なのに恐怖は一欠けらもなかった。
「……ミィ」
唇を離したルドルクが吐息交じりに、名を呼ぶ。
引き寄せられるように目を開ければ、ルドルクはとても優しい目をしていた。ギュッと胸を締め付けられるような、慈しみに溢れた顔だった。
自分がこんな眼差しを誰かから向けられる日が来るなんて、テルミィは信じられなかった。
「……こういうの嫌だったか?」
目を瞠ったテルミィをルドルクは悪い方に受け取ってしまったようで、整った眉が下がる。
「い、いえ……ただ、びっくりは……しました」
「そうか」
「あ、でも……本当に嫌じゃなかったです。ほ、本当です」
「そうか」
ルドルクの二度目の「そうか」は、なんだか危険な香りを孕んでいた。
まさか自分が失言したとは気付いていないテルミィは視線をさ迷わす。だがルドルクは、容赦ない一言を放った。
「なら、もう一度していいか?いや、するぞ」
質問から宣言に変わったルドルクの発言に、テルミィの頬はボボボッと火が付いたかのように真っ赤になる。
「ミィ、本当に可愛いな。……可愛くてどうにかなりそうだ……」
どうにもならないで!とテルミィが心の中で悲鳴を上げたと同時に、ルドルクの顔が近づき、口付けをされる。
兄レオシュがやってきて連れ戻される恐怖を覚えたけれど、ラジェインとルドルクとハクに救われ、その後すぐに追い出される恐怖で噴水にダイブしかけた挙句、ルドルクに怒鳴られ、想いを告げられ口付けをされた。
これは、たった1時間にも満たない間に起きた出来事である。
並大抵の人なら、短時間でこれだけの出来事があれば、心は間違いなく疲弊する。まして犬と植物だけに囲まれていたテルミィなら、なおのこと。
ずっと気合で意識を保ってたテルミィだが、ここに来て限界を迎えてしまった。
──もう……もう、無理……。
ルドルクの唇が離れ、呼吸ができるようになったテルミィは息を整えようとするが、間近にある彼の顔が邪魔して上手くできない。
「……テルミィ、大事なことだから覚えておけ」
喘ぐような息しかできないテルミィの唇に指を這わせたルドルクは、蠱惑的な笑みを浮かべて囁いた。
「これは愛する人に向けてやるものだ。だからテルミィ……お前は一生、俺とだけこれをするんだ。わかったな?」
威圧的なのにどこか甘さを含んだその言葉に対して、テルミィは頷いたかどうか覚えていない。
しかし、叩き起こされることは無かったので、おそらく頷いてから意識を手放したのだろう。




