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いつかロスティーニ家の人間が自分を連れ戻すために、ここに来るかもしれない。
ニクル家の皆は心配いらないと言ってくれた。万が一、屋敷に来たら叩き切って粉砕すると心強い言葉をくれた。
もちろん、その言葉を疑ってなんかいない。心の底から信じている。
しかし、楽観的に物事を考えることができない性分のテルミィは、どうしたって最悪の事態を想像してしまう。そして想像し過ぎて、ふとした時に不安に襲われてしまう。
でも、独り相撲で生まれた不安を口に出すことは、俗にいう”フラグ”というものになる。
うっかり口にするだけで、現実になってしまう黒魔術より恐ろしい法則から逃げるため、テルミィは魔法植物の研究に励んだ。
その結果、サムリア領広域に水を沢山蓄えられる魔法植物を植えることができ、ついでに狼藉ものを捕縛できるハエトリ草の改良を重ねた結果、魔獣捕縛に使ってもらえるようになった。
ついでに土砂崩れが多発する地帯に、魔法石で改良を加えたシャクナゲを植えてもらった。
この花は着生植物で岩や石などに付着して育つ。テルミィは、この特性を利用して成長を早めれば砂防堰堤の代わりになると考えたのだ。
ヘルライン国で初めての試みだが、ラジェインは二つ返事で許可を与えてくれた。翌日、聖騎士団の手によって植えられたシャクナゲは、雨季の間、立派に役目を果たしてくれた。
全ては、テルミィがただただ不安な気持ちに支配されたくない気持ちで取り組んだこと。だが理由はどうあれ、今年のサムリア領は甚大な被害を受けないまま雨季を明けることができたのが揺るぎない事実である。
──雨季が明けて半月が経った。
初夏らしい澄み渡った空に、二匹のアゲハ蝶が舞う。
温室のガラス越しにそれを見つけたテルミィは、書き物をしていた手を止めて小さく微笑んだ。
「……きれい……仲良しさんなんだ」
雨季の間はカエルやカタツムリばかりを目にしていたので、空を舞う生き物を目にしてやっと夏が来たのだと実感する。
テルミィのすぐ横に控えていた専属メイドのダナも蝶に視線を向け、すぐに眩しそうに目を細めた。
「仲睦まじいアゲハ蝶でございますね。なんだか若様と若奥様を見ているような気持ちになります」
「な……!!」
青空を舞台にイチャイチャとダンスを踊っている蝶と一緒にされてしまい、テルミィの頬はみるみるうちに赤くなる。
「ハッ、ハクほら見て!蝶だよ、アゲハ蝶!きれいだよ、ほら!」
赤面した自分を誤魔化す為に、咄嗟に日陰で微睡んでいる相棒に声を掛けた。
けれど相棒は蝶より睡眠の方が大事のようで、尻尾を二回揺らしてくれただけだった。あまりに薄いリアクションに、テルミィはしょんぼり肩を落とす。
でも、仕方がない。虫嫌いというか、虫が怖いハクに、アゲハ蝶の美しさを訴えてもそれはちょっと無理がある。尻尾を振ってくれただけでも良しとしよう。
一つ頷いたテルミィは、未だアゲハ蝶と自分を交互に見ながらにっこにこしているダナから逃げるべく、テーブルセットから立ち上がる。
朝食を終えてすぐに作ったハーブウォーターがそろそろ噴水の中で冷えて飲み頃になっているはずだ。
今の時刻は、お昼直前。聖騎士達の午前の稽古がそろそろ終わるから、差し入れに持っていくタイミングは悪くない。邪険にされることもないだろう。
雨季の間、実用的な魔法植物を錬成したのを機に、テルミィと聖騎士達の距離はグッと縮まった。
聖騎士達は皆、強靭な身体と精神力を持っている屈強な男達だが、中身は気さくな青年である。加えて犬好きが多かった。
雨が降る中、少年のようにハクとじゃれ合う姿を見て、最初はオドオドビクビクしていたテルミィだが、警戒心は日増しに薄れていった。
今では聖騎士とすれ違えば、たどたどしいけれど挨拶だってできる。人見知りの激しいテルミィにとって、これはすごい快挙である。
だがしかし、暇があればいつでも傍にいたがるルドルクは、テルミィが聖騎士に挨拶をする時は、なぜか必ずテルミィの肩や腰に手を回す。
添い寝以上の触れ合いに慣れていないテルミィが平常心など保てるはずもない。案の定、アワアワしてしまい、上手く挨拶ができなかったりする。
いつかちゃんとした挨拶ができるようになりたいと、こっそりハクを聖騎士に見立てて練習するテルミィだが、今のところ努力は実っていない。
でも、聖騎士達はどれだけテルミィがポンコツでも常に笑顔で親切だ。……唯一人、フレインを除いては。
フレインは今でもテルミィの護衛として傍にいる。しかしテルミィを見る彼女の視線は、邪魔者を見るそれ。
──きっと自分が今死んだら、真っ先に喜ぶのは彼女だろう。
冷静さと自虐さの間で出した結論は思っていたより心を抉り、テルミィは噴水に浸してある水瓶に目を落とした。
「若奥様、こちらの飲み物は訓練所に?今日はいつもより大きな水瓶でお作りになられて重たいでしょうから、わたくしが運ばせていただきます」
水瓶を凝視したまま動かないテルミィを見て、ダナはまったく違う解釈をした。
「あ……いえ、これくらいは……」
「駄目でございます。奥様の腕が折れてしまいます」
水瓶を持ったら、腕が折れるなど聞いたことが無い。
ダナの目に映る自分はカカシのように貧相なのか。それとも彼女が過保護過ぎるのか。どちらにしてもこの程度のことでダナを使うのは申し訳ない。
そんな気持ちからテルミィは無言で袖を捲り、水瓶を持ち上げようとした。しかし僅差でダナに奪われてしまった。
「あ、あの……本当に大丈夫なんで……」
モジモジ指をこねながら自分で持つとテルミィなりに頑張って主張したけれど、ダナから返って来たのは満面の笑みだった。
そしてダナはその表情のまま、こう言った。
「若奥様、愛し合うお二人は常に一緒に居たいってことぐらい、ダナはちゃーんとわかっています。ご安心くださいませ。大急ぎで訓練所に行って若様を呼んできますから!」
「ちっ、ちがっ……」
とんでもない誤解をしてくれたダナは、更にキラキラな笑みを残して本当に駆け足で温室から出て行ってしまった。
温室に取り残されたテルミィは、赤面したまま項垂れる。
絶対に、温室の外で待機しているフレインは、自分に向けて憎悪の視線を向けているはずだ。
「……本当に……違うのにぃ……──あれ?」
いまで経っても、フレインからの視線を感じない。
不思議に思ったテルミィは恐る恐る顔を上げる。ついさっきまで温室の出入り口にいたフレインは忽然と姿を消していた。
ホッとしたのも束の間、庭園を横切りながら温室に早足で近付いてくる人影を視界に入れたテルミィは、サッと血の気が引いた。
男性にしては、なで肩の体形。くせのある金茶色の髪と、深緑色の細長く垂れた瞳は、テルミィがあこがれてやまなかった色。家門の象徴の色。
従者のような暗い色の質素な男性服こそ見覚えはないけれど、近付くにつれこれが誰だか間違えようがない。
──や、やだ……こないで。あっちに行って!
逃げ出したいのに足が震えて一歩も歩くことができないテルミィは、心の中で血を吐くような祈りを捧げることしかできない。
異変に気付いたハクが素早くテルミィの前に立ち、身を屈め低い唸り声を上げる。
しかし二十代前半の男は温室に辿り着くと、無情にもその扉を開いた。
「こんなところに隠れてたかテルミィ」
不機嫌以外なにものでもない苛立った声が、温室に響く。
それは、恐れていたことが現実になってしまった合図でもあった。
「……レオシュお兄様……どうして……ここに?」
意識が遠退きそうなほどの恐怖に襲われながら、テルミィは震える声で兄に問いかける。
すぐに兄レオシュの眉がピクリと跳ね、顔が意地悪く歪んだ。
「どうしたも、こうしたもないだろう。お前がこんな手間を俺達にかけたからに決まってるだろうが!けっ」
感情に任せて怒鳴りつけた後、レオシュはあろうことかテルミィが大切にしているこの場所に唾を吐いた。




