風邪 (前編)
「おい! おい! 起きろ!」
「な、なに……」
「さっさと来いって言っただろ」
「え……」
ぼやける視界で時計を見ると、5時を指し、窓からの景色はすでに明るくなっていた。
「薬まくぞ」
「う、うん……」
すぐに身を起こして、作業着に着替える。水を飲む暇もなく仕事場に向かった。
心に違和感を残しながら、マスクと手袋を付け、長靴を履く。機械に農薬を入れてから、燃料の混合油を注いでいると目視界が曇って、勢いあまって溢れてしまう。それと同時に暴言が飛んでくるが、俺は何も言わず掃除をした。
散布用のビニールホースを伸ばすと、準備もままならない内に機械のエンジンが唸った。ものすごい勢いでホース内に空気が入り込み宙に浮き始める。急いで準備を整えると、丸めて左手で握るホースの余りが手から落ちて転がっていく。
「やべっ」
焦る気持ちを何とか抑え、拾い上げる。いつもの癖でチラッと父の顔色を見ると、案の定睨んでいる。すぐに目を逸らし、スタート地点の田んぼの隅に立つ。
しかし、急にホースが引っ張られてバランスを崩した。反射的にホースを引っ張てしまいプチンとちぎれる。
「終わった……」
血の気がサッと引く。絶望の一言が声に出た。
父がエンジンを止めて軽トラに戻る。俺もちぎれたホースを回収しながら軽トラに近づくと、父は鬼の形相で俺を見ている。
「ボケーっとしてんなや!!! どアホ!!!」
そう言った父は拳を顔面めがけて振り下ろしてくるのが見え、目を閉じ、歯を食いしばる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「――っ!」
反射的に体が起き上がる。夢だと理解するのに時間を要した。
「アグリ? 大丈夫?」
薄暗く、冷たい部屋で目が覚めた。母の声のようにも聞こえたアリアの声と匂いが、夢だったのだと安心させてくれる。今更なんでこんな夢を見てしまったのだろうか……。
「大丈夫? すごい汗だけど」
アリアはそう言いながら、額の汗を拭ってくれる。
「ごめん、嫌な夢を見ちゃって……」
「謝らなくて良いわ、風邪をひいた時って嫌な夢を見るものよ」
「ありがとう」
アリアと話すことで少し落ち着けた。
それでも、頭が痛い、体が重いし関節も。完全に風邪をひいてしまった。
「水飲んで」
頷いてアリアが持っていた水を喉に流すが、口の中が潤う事は無かった。喉の痛みがますが、水分くらいは取らないと……。
「なんでここにアリアが?」
アリアがここに来るのは店の事もあるので珍しい。
「今日たまたまロットが忘れ物をして取りに戻ったらアグリが倒れた事を聞いたから、帰りに来たのよ」
「そう、だったんだ……。ありがとう」
「風邪みたいだったからまだ良かったけどね」
迷惑をかけてしまった。世話をするのも大変だろう。それでも、体を横にする時アリアは俺の体を支えてくれた。
「しんどいなら寝てなさい、今ご飯作ってきてあげるから」
「うん」と微かに返事をして目を閉じた。アリアが傍に居てくれると分かっただけで、これほど安心できるのかと自分でも驚く。
しばらくすると部屋に嗅いだことのある匂いが漂った。これは……と記憶を遡る。
「あぁ、夕方お見舞いに行った時の匂いだ」
そんなことを思い出し1人で笑っていると「何笑ってるの?」とアリアが部屋に入って来て、魔石を光らせた。
「作ったけど食べられそう?」
「食べさせてくれるなら」
わざとらしく、ぐったりしながら言うとアリアは笑った。
「特別だからね」
好きな人に食べさせてもらうご飯は格別だ。体がしんどい事には変わりは無いが、幸福度は格段に上がった。
「美味しい?」
「あんまり味感じないけど美味しい」
「何それ」
アリアは笑いながら、スプーンをタイミングよく向けてくれる。
「風邪ひいてなくても毎日でもお願いしたいくらい」
「調子に乗らないの」
俺のニヤケ面が最高潮に達していると、部屋の入口付近から声が聞こえた。
「アグリ、幸せそう」
「あんな顔初めて見たよ」
「いつも使命感に満ちた顔してるからね」
「うらやま」
ドキッと心臓が鳴った。声がした方に目を向けると、いつもの3人が覗いているのを発見した。
「みんなも居たのか」
「みんな心配してたよ」
「そっか。みんなありがとう」
みんなに見えるように右手を上げた。
話していると父が3人に向かって声を掛けたのが見える。
「アグリも大丈夫みたいだし今日は帰ろうか」
「ゆっくり休んで元気になれよ」と手を振りながら部屋を出て行った。ずっと大切にしたい最高の友達だ。
「アリアちゃん、みんなを送っていくからアグリを頼んだ」
「分かりました」
おそらくもう遅い時間なのだろう。みんな待っていてくれたのかと嬉しさが込み上げてきた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」
アリアが片付けに部屋を出てからしばらくすると、タオルを持って帰ってきた。
「アグリ、体拭いてあげる。冷たいのと温かいのどっちがいい?」
「温かいのが良いかな」
そう言うとアリアは桶に水を汲んできた。だがそれは俺にとって不思議な事に見えた。
「どうしたの?」
不思議そうに見つめるアリア。もう沸かしてきたのだろうか。
「お湯じゃないの?」
「まだ水よ」
料理のお湯はもちろん、体を洗う時に使うお湯は基本的に水を火の魔石で温めて使う。でもアリアは火の魔石を持っているようには見えない。魔法を使うのか? 火を出す? さすがに人の家でそんな豪快な事はしないだろうけど。
「どうやってお湯にするかって?」
アリアは俺の考えを見透かしたように言ってきた。俺は首を縦に動かすと、自信満々に「見てなさい」と指を立て、種も仕掛けもありませんと言いはしないが、まだ冷たい水である事を証明する。
「目には見えないけど見ていてね」
アリアは手を水の入った桶にかざす。
1分ほどだろうか、かざし続けているとなんと湯気が出てきたのだ。驚いた事に水がお湯になったのだ。
ドヤ顔のアリアは、ほかほかのタオルを頬に付けてきた。
「温かい! どうして!?」
「説明は後、服脱がすわよ」
されるがまま脱がされ、温かいタオルで汗を拭いてもらう。少し恥ずかしいが、初めてじゃないしな。背中を拭きながら、アリアがお湯になった理由を話してくれた。
「正直どうして熱くなるのか私にも分からないのよ」
「そうなの?」
「感覚としては水に魔力を流し込んでるんだけど」
魔力を流して熱くなるか……。どういう原理なのだろ? 目には見えないけど確実に何かが反応してる?
アリアによると、この現象はたまたま見つけたらしい。店が暇な時、飲み物に魔力をなんとなく当てながら時間を潰していたそうだ。その飲み物が熱くなっていて初めて気づいたらしい。友達の魔法使いに聞いても知らなかったらしく、便利で流行ってるみたいだ。
こんなに気軽に物を温める事が出来るなら、便利になる事間違いない。
「アグリ、そろそろ休んだら? さっぱりしたでしょ?」
綺麗さっぱりになった俺は服を着せてもらった。
「ありがとう、アリア。何から何までしてくれて」
「良いのよ、今日くらい許してあげる」
俺は嬉しくなって「じゃあ一緒に……」と言いかけて止めた。
アリアが「ん?」と不思議そうな顔を向ける。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
アリアが頭を撫でる心地よさに甘え、俺はすぐに眠りについた。
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