塩害
ジンさんは家族と一緒に、いつもの大きな部屋にいた。ただ、ケンさんの姿が見えない。俺たちはジンさんに、明日みんなでここを出てサンドリンへ向かうと話してから話題を変えた。
「ケンさんはどこに?」
ケンさんの名前を出した時、空気の変化を肌で感じた。ジンさんが空咳をして、それが合図と気付いたエブリイさんが俺の隣に座る。今この部屋の空気感と、みんなの様子から嫌な考えが頭に浮かんだ。しかし、意識的に頭を振ってかき消した。
「ケンは、――部屋にいるわ」
最悪の出来事ではなくて心を撫でおろした。エブリイさんが話を続ける。
「アグリが言った事業あるでしょ? その場所がかなりひどい状態で」
「津波ですか……」
「えぇ。資材も全部流れちゃったし……」
エブリイさんの口が止まった。助けを求めるようにジンさんの方に目線を送ったことが分かる。
「俺の田んぼもそうだけど、ケンに渡した土地も海に飲まれたんだ。アグリなら分かるだろ?」
「――塩害、ですね」
膝の間に挟んだ手を見つめた。握った拳の中で手汗が溜まっていくのを感じた。
「塩が入った土はだめだ。もう、農業は出来ないだろう」
「どのくらい飲まれたんですか?」
「ケンの土地はほぼすべてだ。俺の所はまだ調査中だが、4割ってところかな」
「かなりの被害ですね」
想像以上の被害で、額に汗が垂れる。塩害は土にとってかなりのダメージを与える。それは、俺が前の世界に経験した出来事で知っている。ほとんどの場合10年以上は作物が育たなくなるほどだ。何百億もの損害だろう。しかも、機械や技術があった世界であってでも再生は困難だった。
ならこの世界ではどうだろうか。機械も技術も満足にない。人手だって足りない。そんな状況にある現在、普通なら今から作物を作るために動くなんて無理に等しい。ただ、普通ではない人間がここには居る。
「ケンさんの所、行ってきます」
部屋を飛び出して、ケンさんの部屋に向かった。
折角ケンさんがやりたいと思った事業。気合も入っていたし、父としての誇りやプライドだってあっただろう。それなのに、一瞬にしてすべてを失った。その喪失感は計り知れない。落ち込む姿もそう簡単には、見せられない。きっと、ひとりで戦っているのだろう。でも諦めてたまるか。諦められてたまるか。
「ケンさん、俺です。アグリです」
ドアの前でケンさんにだけ聞こえるくらいの声量で言った。
少し待つと、ドアが開きケンさんの姿が目に映る。きっと泣いているか、机かベッドに突っ伏しているのだろうと思っていたが、ケンさんはそんなに軟ではなかったようだ。ドアが開くとすぐ、俺の両手を握って力強く言った。
「アグリ君、力を貸してくれないか!」
ケンさんは前を向いていたのだ。しっかり進むための道を作ろうとしていたのだ。
ケンさんの脇から見える部屋の中は、本が大量に転がっている。そのすべては農業に関する物だった。
「塩の影響については分かった。でも対策については何も載っていないんだ」
目を真っ赤にして、俺に演説してくる。床にある本を片っ端から読み、情報が無いか探していた事が分かった。
「父が言うには、解決には時間がかかると言っていた。本にも同じ事しか書いてないんだ」
ケンさんのそんな姿は初めて見た。俺が初めてここの麦刈りを手伝いに来た時には、サボっていた印象しかない。それでも、ケンさんの中には与えられた責任を全うしたいという気持ちが、誰よりも備わっていた事を今知った。俺は、そんな想いに答えないわけにはいかないだろう。
「ケンさん、一緒に頑張りましょう」
任せてください、と言おうとしたが止めた。これからは俺が教えてきたが、これからはみんなで仕事をしていくからだ。
ケンさんは嬉しそうな顔で笑った。いや、笑っているのにケンさんは泣いていた。
「アグリ君は何か方法を知っているのか?」
「ひとつだけ、思いつくことがあります。やってみませんか?」
「やろう!」
即答だった。それしか手は無いとケンさんも分かっているのだろう。俺は、力強よく頷いた。
一緒にみんなが居る部屋に戻ると、エブリイさんが笑顔で迎えた。俺は、みんなに向かってこれからの事を話す。
「海水が浸かった田んぼですが、米や麦はしばらく育ちません。でもそれだと収入が減ってしまいます。それで、塩の入った土でも育つ植物を植えて育てながら、少しずつ土の塩分を減らしていきましょう」
ジンさんが驚いたように言った。
「そんな植物があるのかね」
「はい。ただ地震が起こってから確認していません。それに種まきは来年のシワンの季節です。それまで皆さんには天地返しをお願いしたいです」
「天地返し?」とエブリイさんが言う。
「はい。田んぼの土をひっくり返すんです。出来るだけ深くの土を表に出します。冬の雪も良い働きをしてくれると思います。かなり大変な作業ですが、シワンまでにお願いできますか?」
ジンさんとケンさんが一瞬目を合わせたのが見える。次にエブリイさん。次にターナさん。それぞれ息を合わせて俺に返事をした。
「やるよ。アグリ君」
すごいな、この家族は。俺はすぐに失った物、出来なかった物に目が行って落ち込んでしまう。でもこの家族は違うんだ。これまでも手から滑り落ちた物はたくさんあるのだろう。しかし彼らは前を向いて歩いてきたんだ。これから手にするもの、拾い上げられる物を見つめて。
俺は、この家族ならやり遂げられると確信した。
「ありがとうございました」
アリアの大きな声が響く。ジュリも、ルツもエブリイさんと抱き合っている。かなりお世話になっていたようだ。
馬車に荷物を載せて、ケンさんにお礼を言った。
「ありがとうございました。本当に。助かりました」
「こちらこそだよ、アグリ君」
「準備が出来たらまた来ますね」
「あぁ、それまでに土を返しておくよ」
「お願いします」
馬車を動かし振り向くと、後ろに乗っている3人はジンさん達が見えなくなるまで手を振っていた。
ジンさん宅を朝出発して、サンドリンに到着したのは昼前だった。今日の気温はかなり高く、真夏に戻ったようだった。
サンドリンの中を少し走ると、リリアンが集めた農家さんたちはすぐに見つかった。リリアンが手を振っているのが見える。
「遅くなってすみません」
「おぉ、先輩じゃないっすか。久しぶりっす」
「先輩はやめろって」
相変わらず腰にちゃらちゃらと鎌やらハンマーやらを付けているボードンが言った。
他にもカイさんやエリフさん。それにケシルさんもその団体に居た。合計48枚の田んぼは、18人の農家さんで管理されている。状況や、体力。それに年齢なんかも加味してブロードさんが公平に分けた。素晴らしい仕事ぶりだった。
みんなで田んぼに向かい、稲刈りの説明を始める。
Next:稲刈り