代かき
昨日、サンドリンでの放水を見にいった。そこでは問題なく、田んぼに水が入っていくのを確認できた。今頃、どの田んぼも水で満ちている頃だろう。ハレウミにある貯水所と水の魔石により、棚田の間にある水路を通り住宅街に抜けていく。その日は雨が降っていた事もあって、その水路の有用性を確認できた。サンドリンの人も雨の日には道が悪くなると言っていたのでその点、改善された様子を見ることが出来た。
俺の田んぼでも、農業用魔石による放水が始まった。サンドリンや、孤児院での仕事の合間に少しずつ作業を進めていたのだ。
「この魔石、案外遅いんだな」
小さい頃、父に初めて見せてもらった魔石は大きくて水の勢いがもっと強いと感じた。しかし、俺の目に前にあるものはそれほど勢いが強くない。もしかしたら、魔石自体が古くなって効率が悪くなっているのかもしれない。
とはいえ、今はこれしかないので仕方がない。新しく用意したものはすべて組合員に回しているのだった。
「さてと。ルツ、準備出来た?」
「うん! でも本当に良いの?」
俺は体を回し、田んぼに背を向けた。そこには鮮やかな緑色に染まった葉を天に伸ばす米の苗がならべてある。その傍にルツが立っていた。苗は8センチ程にまで成長している。葉の根本は白く、丸まった葉が上にいくと徐々に広がっている。朝、水を撒いたので水滴がぽつりぽつりと葉を飾っていた。
そんな美しく、健気に成長してくれている葉を俺はこれから潰す。俺はこの日のために森を駆け巡り、見つけ出した兵器を小屋から出して来た。
「本当に良いんだよね?」
ルツが、最後の忠告だからと言わんばかりに俺を見ている。
「あぁ。やってくれ」
俺は低い声で答えた。
ルツは緊張の面持ちで頷くと、それを苗の上に置き転がし始めた。それが通った後の苗は、重さに耐えきれず落ち込んでいるようにも見えたのだった。
さっきまでのルツは躊躇していたようにも見えたが、今では楽しそうにあちらこちらへ歩き回っている。
「お兄ちゃん。これ、なんか意味があるんでしょ?」
楽しそうに一周して帰って来たルツが聞いてきた。もちろん意味のある作業だ。
「これは苗踏みだね」
森から持ってきたのは、小さめの丸太だ。軽く乾かして皮をむき、やすりを掛けたものだ。これを苗の上で転がす事で、苗が潰れるのだった。
俺は得意げに説明を続けた。
「根の張りが良くなったり、生育が揃うようになったり。茎が太くなるから、倒れにくくもなるかな」
もちろん、完璧になるというわけでは無い。そういう期待が持てるというだけの話だ。しかし、肥料をはじめとする設備が揃えることの出来ない世界で、可能な限りの手を使いたい。これもそのひとつだった。
これを田植えまでに3度ほどやっておくといいだろう。きっと強くたくましい苗に育ってくれる。
翌日に田んぼを見てみると、綺麗に水面が空を映し出していた。雲が流れていく様子もはっきりと見える。
魔石の水を止めてから、田んぼの奥側へと畦道を歩く。すると、ひとつ問題点を発見し思わず声が出てしまう。
「これは、ちょっと面倒な事になってるな……」
田んぼの奥側、水の魔石がある対角線上には排水のための筒が田んぼに刺さっている。この筒を水面より中に押し込めば水が入り排出される。上げれば、排出が止められる仕組みだ。ただ、田んぼの奥に行けば行くほど水が徐々に少なくなっている。排水路がある付近の土は水に浸かっていない。
「しまったな……」
しばらく田んぼを見つめて、棒立ちになっていた。原因は一目で分かった。そしてその原因を作ったのも自分だったと今更、気が付いた。
「高低差か」
魔石がある場所は低く、排水側に向かうほど地形が高くなっている。そのため、上手く水が入らなかったのだ。すぐに仕事に取り掛かる必要があった。俺は地形を確認するため、もう一度田んぼの入口に向かった。
改善するための方法は2つ。ひとつは新たな土を用意し、手前の低い場所に追加する方法。または、田んぼの奥から手間へと土を移動させる方法だ。どちらもかなりの労力を要する事だ。
農道と田んぼの高さ。魔石をセットした場所や、畔の状況を見ながら思案を繰り返した。
「土は今すぐに用意できないから、とりあえず出来る事をやろう」
すぐにズボンを脱ぎ、鍬を持って田んぼに入る。一度、耕さないと話しにならないのだ。その後、2日かけて、田んぼ全体を耕した。
トラクターで耕す場合、一定の設定した深さで耕す事が出来る。しかし、手作業のため日によって土をおこす深さが変わってしまう。疲れて来たら浅くなる事もあるだろう。そのため、気付かない内に高低差が出てしまったのだ。その上、野菜の苗や、肥料作り、さらには米の種まきで田んぼの手前側から土を取ったのも間違いだった事に、気が付いたのだった。
「うぉー!」
足はもちろん、腹や顔までもに泥を付けながら木を引いた。長さは大体3メートルくらい。太さは太ももくらい。重さ5キロ以上。それにロープを付けて、体に巻つける。田んぼの中で下着姿の俺が雄たけびを上げながら、田んぼの奥から手前側にひたすら走る。これで奥にある土を手前側に持ってくる。ほんの少しずつ、少しずつ。
「まーたこんなに汚して。これ洗うの大変なんだからね?」
「はい……」
「本当に分かってるの?」
「はい……」
少しずつ、しかし着実に母に似て来ているルツに、汚した服について怒られるのはこれで7日目だった。今日、田んぼに水を少し出してきたので、明日の朝確認して問題なければ終了だ。
翌朝、馬車に荷物を詰め込んでから早速田んぼに向かった。朝日が見えないほど厚い雲に覆われた空が水面に写る。風が吹くと同時に、水面に小さな波が起こりうねっている。
畔には水の跡が残るので、それも注視しながら田んぼの奥側へと進んだ。体をしゃがませ、田んぼと目線を合わせた。
「よし、何とか成功だ」
田んぼに起こる小さな波が、排水の筒へと流れていく。成功だ。これにより、米作りに取り掛かれる。
次に、本格的な代かきをする。苗の成長を見ながら、これを進めていく。代かきは、水を田んぼに入れた後耕す行為の事だ。これにより、土を柔らかくして泥状にする。雑草の抑制にもなるし、何より田植えがしやすくなる。これをすると、田んぼから白い泡が出るため、代かきと言う。なんて事を聞いた事があるが、本当なのかどうかは分からない。ただし、白っぽくなるのは事実だった。
俺は1人で自分の田んぼをひたすら耕し、サンドリンでの作業も想像する。きっと、あっちでも同じ事をやっているのだろう。
「さて、もうひと踏ん張りだ!」
俺はまた服を汚しながら田んぼに足を付けた。これはもう、茶色い服として使った方が良いのかもしれない。
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