僕から俺へ
コシヒカリの穂が白く輝き、収穫の時を待っている頃。
「暑い……」
日本の片隅にある小さな村で、命の危険も感じる熱を僕は浴びていた。騒音とも思えるエンジン音とともに刃は回り、次々に草をなぎ倒している。
「あともう少し」
そう自分で自分を鼓舞し残り数メートルを刈っていく。
「終わった……」
刈り終わった草を踏みしめながらあぜ道を歩く。農道に停めてある愛車の軽トラに近づき、荷台に草刈り機を無造作に置いて、黒色のネットが付いた麦わら帽子と厚手の前掛けを脱ぎ捨てる。早く帰りたい思いを振り払い、自前のスポーツドリンクを手に取る。2ℓ入るボトルの残量は残り少なくこれで喉を潤せるのか不安になるくらいだ。
「ああぁ」
思わず声にならない声が出てしまった。案の定ドリンクはすぐに底をつく。体の水分が足りないのは自覚していたが、すぐに体を動かす自信はなかった。愛車の影に隠れるように身をおろし、日陰に入り「はぁ」と大きく息を吐くと頬をつたう汗が熱しられたアスファルトに落ちる。
いつまでこんなことやってんだか。
農業なんて大っ嫌いだ。今年で27歳になる僕は、何年こんなことを考えているのだろうか。
小学生の頃、親父の務める会社が倒産した。親父は家族の反対を押し切って実家の農業を本格的に始めることにした。子供だった僕はお小遣い欲しさに草むしりや収穫作業などを手伝っていたが、今思えばそれがすべての始まりで僕の人生の分岐点だった。
学生の頃は時間があれば農作業を手伝い、同級生や友達と遊ぶ暇さえなかった。そんな僕に友達なんかできるはずもなく、いつの間にか僕の貴重な青春は幕を閉じていた。
大人になっても仕事を選ぶ権利もなく、大嫌いの農業をし続けている。
いや、選ぶことから逃げていたのかもしれない。
「くそっ」
こんな自分に嫌気がさすが考えても仕方がない。作業場に戻って草刈り機を洗い、明日の仕事の用意をしなければ。愛車にいつもの数倍にも感じる重い体を預けながら立ち上がる。運転席のドアを開けようと手をかけると愛車がねじれて見え始めた。
「なんだ、これは」
ねじれているのは愛車だけでなく、腕や指、世界までもがねじれて見える。
「これは、ちょっとまずいかも……」
気づいた時には遅かった。日々のストレス、今日の暑さと疲れによりさっきまで感じていた重い体は、今では驚くほど軽く感じた。今なら空も飛べそうだ。いや、ある意味ではそれも正解なのかもしれない。なぜなら、膝からアスファルトへと崩れ落ちているからだ。「どさっ」と誰にも届くこともない鈍い音とともに僕は倒れる。元気に鳴いていたトンビの声も遠のいていく気がするが、遠のいているのがトンビなのか、僕の意識なのかそれすらも判別できなくなっていた。
暑いはずの体が冷たく、指先が小刻みに震えているのが見えなくても分かる。それは死への恐怖か、それとも……。
「こんな事になるなら、もっと……」
後悔なのか、安堵なのか自分でも分からない感情を抱きながら、僕は深い闇へと落ちていった。
どれほど時間がたったのだろう。そもそも『この場所』に時間という概念があるのかさえ知りえなかった。不思議なことに意識はあるし農業をしていた頃の記憶もある。もしかしたら、今僕の体は病院で治療を受けているのかもしれない、なんて考えが浮かぶ。
「ここで、帰れるか帰れないかを待ってるってこと?」
実際に声は出ていないが、冗談まじりにそんなことを呟く。ふと目線を上にあげると青白い光が見えた。
「ちょっと、近づいてないか?」
光はかなり早くこちらに近づき、大きくなっていく。しかし、逃げる術も回避する術も持ち合わせていないため、ただただ光に飲み込まれていくのを待つしかなかった。
「これが、お迎えってやつか」
お迎えを素直に受け入れるべく、静かに目を閉じ呟いた。瞼の裏からでも自分が光に包まれるのが分かった。
妙に暖かく、心地良い光は僕に最後の安心感を与えくれたのだった。
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