A-part 2
「私は日課として犬の散歩を朝に行っているんだ。その日は霧が濃くて視界が悪かったのを覚えている。チェコ――愛犬の名前なんだがね――家に出る前から何故か興奮していたんだ。
今思うと既に感じていたんだな。散歩に連れ出してから十分経った後、いつものように同じコースを通った時に、何かが腐ったような悪臭を私も感じたんだ。カラスが五月蝿いぐらいに啼いていたから、最初は生ゴミが袋から出て散乱しているのかと思った。でも、進むうちに家庭から出される生ゴミとは違うものだと気付いたんだ。
チェコは私を引くように走り出した。チェコは悪臭の元を辿っていたんだろう。臭いが酷くなるにつれて、今度は動物の死体だと思った。小道に入ったところで、チェコは立ち止まって吠えた。私は胸が焼け付くのを耐えながらそれを見たんだ――それは人間の骨だった。ぼろになった服を着た骨だった。
頭から足までの人間一人分だ。骨のまわりにも悪臭を放つドロドロとしたものがこびり付いていた。吐きそうになったよ。私は二度とあんな思いはしたくはないね」
以上が最初の変死体を発見した時の状況の調書の一部だ。
発見者は早朝からの犬の散歩を日課としている男性。アスファルトに横たわる変死体を発見し、発見者は現場の凄惨な状況に狼狽しつつも、携帯電話で一一○番に通報した。
要請を受けて現場に駆けつけた警察官は、発見者の証言を聞くと同時に現場の確保を行った。変死体は既に白骨化しており、周囲にはどろどろになった組織が地面に残留していた。
通常変死体が発見された場合、検察官による検視が行われる。そこで犯罪性が認められない場合は行政解剖が、犯罪性が認められた場合には司法解剖が行われる。発見された変死体にはそれが認められ、警察は裁判所に解剖鑑定処分許可状を請求、解剖は帝都大学法医学教室に嘱託された。
白骨化された変死体が見つかれば死後二十五年経っているか調べられる。日本には時効というものがあるからだ。殺人事件では時効年数は二十五年であり、死体がそれ以上の年数が経っていれば、私達警察は殺人事件として捜査する必要性がなくなる。司法解剖では死因こそ究明できなかったものの、死後数年経過されていると断定されたのだ。
警察では死体遺棄と殺人も視野に入れて捜査本部が設置された。遺体の身元は遺留品含まれていた運転免許証と歯の治療痕より速やかに割れたのだが、その事実は事件を大きな壁に衝突させることになった。
被害者は発見される前日まで生きていたと証言が取れたのだ。
人間だけに限らず、硬い骨を持つ脊椎動物の死体は長期間放置されると白骨化する。人間の場合はケースにもよるが、死体が白骨化するまでには夏場では一週間から十日、冬場では数ヶ月以上かかる。
これは死後数年経っているという法医学者の判断と矛盾してしまう。証言の信憑性が疑われたが、証言は被害者が通勤していた会社の同僚から複数取れており、覆せない確実な事実だった。
そこで捜査本部はある一つの仮説を立てた。それは、犯人は巧みな方法で以前から被害者に成り代わっており、被害者の遺体を見つかりやすい場所に遺棄した上、姿を眩ましたという説だ。いささか強引過ぎる説だが、一見筋は通っている。だが牽強付会の説は、最初の犠牲者がでて十日後にいとも簡単に崩れ去った。
二人目の犠牲者が出たのだ。
状態は最初のケースと酷似し、ぼろぼろになった衣服を着けて荷物を持ったまま腐敗していた。同様に死後数年経過していると判断されたが、前日まで被害者の生存は確認されている。
明らかにこの二件は状況が似ており、同一犯により行われたと考えた方が自然だ。従って、既に被害者と入れ替わっていたという手の込んだ手口が、短期間の内に連続して起こる偶然は考えられない。捜査本部の打ち出した仮説は成り立たなくなってしまう。
現在の捜査本部は具体的な方針を完全に見失っており、目標を決めない散漫な捜査ばかりを続けていた。今後も誰が犯人の魔の手にかかるとも知れず、警察は警戒態勢を敷いて、地域住民に犯行時間帯である夜間の外出を控える勧告をする以外に術がない状態だ。
しかし私は混乱する捜査本部とは別行動をとり、事件解決に当たっていた。
エレベーターの重力が相殺される感覚を味わいながら鉄の箱は落下する。階数を示すデジタル表示は一つずつ増えていく。
警視庁の地下五階――扉が開かれると、警察のシンボルマークである旭日章の他に『資料室』と掲げられた重厚な金属製のドアが、頑なに他者を拒絶していた。私は発せられる威圧感を無視してドアを開けると、納骨堂を思わせる臭いが鼻腔に侵入してきた。
資料室は客人を迎え入れる快適な部屋とはほど遠かった。節電のためか蛍光灯が所々外されて部屋は薄暗い。規則的に佇む金属製の棚は、重い資料が入れられたせいで僅かに歪んでいる。これらが織り成す異様な雰囲気は、人間の持つ原始的な恐怖を心の奥底から呼び起こさせている。
私はその陰鬱とした資料室に入ると、意識的に目線を上げなければならないほどの長身痩躯の男性を発見した。
若々しい整った面貌を保ちつつ、皮膚は明らかに日焼けとは違う浅黒さがある。意識を手に持った『紀伊市連続殺人事件捜査資料 其の弐』と書かれた青いプラスチック表紙のファイルに向けていたが、近づいてきた私に気付くとそこから目を離した。
「やあ、皐月君じゃないか。今日は何の用だい?」
私がここを訪れる理由は一つしかないのに、警視庁資料室室長の椅子に就く内藤徹風は不必要な疑問を口にしつつ、笑みを周りに振りまいた。
「今回も厄介な事件です。数日前まで生きていた人間が白骨で発見されたんですから」
内藤徹風は私の仕事に対して十分理解を得ているので、余計な言葉は必要としない。早速本題に入り、開口一番の台詞を枕詞として事件のあらましを話し始めた。
最初、内藤徹風は目を閉じていたが、途中からは呆れつつもどこか楽しんだ様子で、最後には含み笑いをしながら三ヶ月ぶりだ、と呟いた。
三ヶ月ぶり、とは恐らく世間を恐怖に陥れたクリスマス事件のことだろう。この事件ではビルや沢入埠頭の倉庫街が爆弾テロの目標となって被害を受けたとされているが、それはマスコミ向けに発表された虚偽の事実であり、真実ではない。
クリスマス事件に爆発物は一切使用されていない。被害状況が記載されている報告書によれば、建築物は爆弾を使用せずに物理的な力のみによって破壊されたらしい。また倉庫街のコンテナに至っては、何トンもある鉄製の箱が上下逆さまにひっくり返されていたという、通常ではではあり得ない現象も確認されている。
このような常識から逸脱した事件を、警察は特異事件と呼称している。そして、特異事件に対応すべく設立された部署が警視庁内に存在する。その部署とは刑事部捜査第一課第二特殊犯捜査特殊犯捜査第四係――私が所属する、常識を覆すような事件を専門に取り扱う部署である。
異界めいた場所を抜けると、パソコンが並んで佇む無機質な空間に出た。テーブルの上には私が来ることを予知していたかのように、湯気が揺らめく淹れたての珈琲が二人分用意してあった。
私は一番の左の椅子に座り、パソコンを起動する。内藤徹風の方はというと、まるで定位置であるかのように私の隣に座った。リラックスした体勢で、太陽の光でさえ呑み込みこんでしまいそうな濃い闇色の珈琲を口に含んでいる。
「仕事しないんですか」
「しているよ。僕はここにいること自体が仕事なんだ」
内藤徹風は珈琲片手に足を組み、さほど優雅でもないサボタージュを敢行している。
資料室の仕事は、日々送られてくる何千件という事件の膨大な資料を処理する作業――のはずなのだが、内藤徹風が本来の職分を全うしている様子を一度も見たことがない。私が見ている場面といえば、このように珈琲を啜っている姿だけだ。
内藤徹風はどこか達観した雰囲気を持つ飄々とした人間であり、私が資料室を使う時には必ずと言っていいほど顔を合わせている。こんな昼行灯な姿をしていても、かつては刑事――しかも数々の難事件を解決した切れ者だったらしい。
そんな内藤徹風が何故名実共に墓場である資料室勤務という閑職に身をやつしているのか私の知る所になかった。上層部の怒りを買ったとも言われるし、不祥事を起こしたとも噂もあるが判然としない。
それ以外にも内藤徹風については不明瞭なことが多い。自身のことを全く話さないため私以外の友好関係も知らないし、いっそ『謎の人物』と説明した方が的を射ていると思う。
パソコンのディスプレイがパスワードを要求する画面に変わったので、私は自分のIDとパスワードを入力する。そこから今回の事件を再確認するため、警察庁のデータベースにアクセスした。
データベースには二人目の被害者に関する情報が更新されていた。私は摂取した情報を咀嚼し、一気に珈琲で流し込む。
先程まで生きていた人間が明日には骨になっている、なんてことは普通あり得ない。常識から外れた現象が起きたため、これは特異事件にされてしまっているのだ。最大の謎は死亡推定時刻と証言の食い違い。それさえ解決されれば、これはただの奇妙な猟奇殺人に成り下がる。私はその二つの事実の矛盾を解消するトリックを調査していた。
結論から言えば、人体を素早く白骨化させる方法は存在する。
白骨化は冬場より夏場の方が速いように、温度が高いほど腐敗は進む。その原理を利用して石灰を利用する方法がある。石灰は水分を吸収すると、化学反応により発熱する性質を持つ。遺体に石灰を撒くとそこから水分を奪って熱が発生し腐敗を速めてしまう。
また炭酸ナトリウム水溶液に遺体を浸漬する骨格標本を作る方法や、昆虫の一種であるグンタイアリが人間を二時間足らずで全ての肉を削ぎ落とし、骨だけに変えたという事例も存在する。
ただし、これらの方法はこの事件に適用できなかった。
科学捜査研究所に遺体の組織サンプルの検査をして貰ったが、そのような痕跡はなかった。ついでに腐敗を劇的に促進させる微生物や細菌の検出も頼んでおいたが、芳しい結果は得られていなかった。
通常の捜査官だったなら、ここで白骨化させる方法からのアプローチを諦めるだろう。しかし、私は特異事件を担当する四係に所属している。固定概念に束縛されない捜査を可能とする四係は捜査において、常識や科学以外にも目を向けなければならない。
つまり私は、この特異事件にオカルティズムや机上の空論と言われる技術が、関わっているのではないかと疑っていた。
警察庁のデータベースには解決未解決を問わず、過去起きた事件の記録が全て収められている。それは特異事件も例外ではない。しかし、その中でも妄想や幻覚と同様に看做されるものは、表向きには不必要であるがために、上の階の端末での閲覧はできない。資料室のパソコンからのみ、特異事件へのアクセスが許可されている。
過去においても蓄積された知識が私に示唆を与え、解決に導いた事件がいくつかある。私が資料室に来たのは閲覧が制限されているデータベースに、この悪夢のような事件の手掛かりを探すためだった。
私は改めてモニターに向かい、手始めに今回と類似した事件を検索することにした。
疲れきった目を左手でマッサージしていた。少しでも関係ありそうなファイルまで片っ端から調べてしまったので、目に限界を感じたからだ。しかし多大な苦労を嘲笑うかのように、資料室での成果はゼロに等しかった。
「どうやらその様子じゃ、目立った収穫は無かったみたいだね」
私の心情を垣間見たのか、資料室の主は声を掛けてきた。それまで内藤徹風はどこかに出かけていなかったのだが、戻ってきたらしい。
「今までどこに?」
「夕食だよ」
私は内藤徹風に指摘されて、激しい空腹を自覚した。昼食も食べた覚えがない。チカチカするディスプレイから掛け時計に視線を移すと、時刻は午後十時を回っていた。
「今日はこのくらいにするといい。だけど帰る時には気を付けてくれ。君のスレンダーな体は魅力的だが、痩せすぎて骨になったら僕も困る」
セクシャルハラスメントなのかブラックジョークなのか判別しがたい戯言を、内藤徹風は更に口角を吊り上げながら口にした。